アブソリュート・エゴ・レビュー

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トリコロール三部作

2005-10-31 05:27:22 | 映画
『トリコロール』三部作 クシシュトフ・キェシロフスキ監督   ☆☆☆☆☆

 『ブルー』『ブラン』『ルージュ』ときてまたトリコロールかと言われそうだが、色々と書き足りなかったこともあるので書いておきたい。それにそれぞれの映画単独ではなくて、三部作全体としてどうかというのもわりと面白いと思うのだ。

 誰もが知っている通りこの三部作はフランスの国旗の色がモチーフになっている。これだけでもうかなり多くの縛りが三作に与えられることになる。まずはテーマとして「自由」「平等」「博愛」。これはそれぞれの物語によって巧妙に表現されている。それから色彩を冠した映像作品であるからには、それぞれ青、白、赤の色彩の使い方に注意が払われなければならない。そしてその通り、『ブルー』では青い部屋、青いシャンデリア、青いセーターなど、『ブラン』ではウェディングドレス、雪、カーテンなど、『ルージュ』では赤い車、ファッションショーのステージ、赤い家具など、それぞれの色が印象的な映画に仕上がっている。

 主演女優を見ても、それぞれの色にもっともふさわしい女優が選ばれているように思える。これは映画を観たからそう思うのかも知れないが、もはや私にはそうとしか思えないのである。ジュリエット・ビノシュの繊細な美貌は青が似合う、ジュリー・デルピーの妖精めいた美貌には白が似合う、そしてイレーヌ・ジャコブの古典的かつ艶やかな美貌には赤が似合う。

 ところでキェシロフスキ監督はシリーズ物が好きなような気がするのは私だけだろうか。デカローグでは十戒をテーマに十の短篇を制作しているし、フランス国旗をモチーフにしたトリコロール、更にこの後はダンテ神曲をモチーフにした三部作「地獄篇」「地上篇」「天上篇」が構想されていたという。
 これはよく言うアメリカをテーマにした三部作だとか東洋を舞台にした三部作だとかいうのとちょっとニュアンスが違う気がする。そういうのよりもっと縛りがきつく、シリーズ全体の収束力が強い。例えば十戒、フランス国旗、神曲、という具合に、シリーズ全体で一つの何かを象徴するようになっている。

 トリコロール三部作それぞれを見てもキェシロフスキは執拗に他作品との結びつきを強調している。例えば『ブルー』と『ブラン』の法廷シーンにはどちらもジュリー、カロル、ドミニクが登場するし、『ルージュ』には同じ俳優こそ出ないもののやはり同じ法廷シーンがある。そして言うまでもなく、『ルージュ』のラストではトリコロールの主人公達全員が勢ぞろいする。まるでシリーズであることを駄目押ししているようだ。

 こういうのはトリコロールだけでなく、例えばデカローグでもすべてのエピソードに象徴的な役で同じ俳優を出したりする。これは何なのだろうか。もちろんこれは一種の遊びだろうし、難しく考えすぎるのも違う気がするが、こういう遊びを好むというのは意外とキェシロフスキ映画のポイントかも知れないと思う。
 彼の映画の主要なテーマは、偶然、運命、人と人との神秘の絆、などである。彼の映画にはいつも、目には見えない大きな力が人々の運命をつかさどっているような感覚がある。そこにはカオスではなく秩序があり、パターンがある。つまりシリーズ好きというキェシロフスキの嗜好はこのパターン愛好と通じているような気がするのである。そしてパターン愛好者にとってはパターンが明瞭であればあるほど気持ちよくなる。つまり、縛りが多くなればなるほど良い。

 しかし考えてみると、これは決して特殊な嗜好ではない。『ブラン』の法廷シーンに一瞬だけジュリーが出てくる時、私達は『ブラン』の世界とつながっている『ブルー』の世界の存在を感じ、それがなんともいえない心地よさをもたらす。『ブルー』を観返して同じシーンにカロルとドミニクが映っているのを発見した日には快感倍増である。それは偶然や暗合が普遍的に持つ快感と言ってもいい。人間は偶然や暗合が好きなのである。旅行中に思いがけない場所でばったり知り合いの異性に会ったら、その人はあなたにとって特別な人になる。恋に落ちるには偶然が舞い降りなければならないと書いたのはミラン・クンデラだった。こういう偶然と暗合の感覚は、自分がこの世界で他の誰かとつながっているという『ベロニカ』や『ルージュ』のテーマへとつながっていく。

 『ルージュ』では更に遊戯的な暗合、偶然で物語が締めくくられる。テレビに映った最後のヴァランティーヌのショットが、彼女がモデルをした広告写真とそっくり同じなのだ。はっきり言って、あんな偶然世の中にあるわけないし、そもそも物語と何の関係もない。関係もないが、それが暗合の面白さ、美しさというものである。キェシロフスキが何を思ってあのショットを撮ったかは知らない、単に絵として面白いからだけかも知れない。しかしこうした遊びの精神、パターン偏愛の精神はキェシロフスキ映画の重要な要素なのであって、これがなくなったらキェシロフスキ映画の美しさは半減してしまうだろう。

 こういうパターン愛好の精神は幾何学的精神と言い換えてもいい。運命の繰り返しや世界の隠された幾何学に関心を示す精神であり、ボルヘス的精神である。『ベロニカ』や『ルージュ』の物語はまさにボルヘスの幾何学的幻想を思わせるものであった。

 ごちゃごちゃ書いてきたが、要するにこの『トリコロール』三部作は三作揃って一つの作品でもあるということである。それぞれ単独で見ても傑作だが、全部観るとキェシロフスキの遊び心が良く分かって更に面白くなる。なので、見るべし。

 それにしても、キェシロフスキの『神曲』三部作が作られていたらどんなに素晴らしかっただろうか……しかしそれを観る事はもう絶対にできないのである。悲しい。

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