アブソリュート・エゴ・レビュー

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八月のクリスマス

2009-08-10 23:01:26 | 映画
『八月のクリスマス』 ホ・ジノ監督   ☆☆☆☆

 DVDで再見。韓国映画である。韓国映画はそれほど詳しくないが、わりと有名な作品らしい。日本でリメイクもされている。ホ・ジノ監督はヨン様の『四月の雪』を撮った監督だ。

 いわゆる難病ものである。男と女が恋に落ちる。男は不治の病に冒されている。悲恋ものの定番だ。この定番パターンを扱うにあたっての本作のアプローチは、ひたすら淡々と日常的な描写を積み重ねていく、というものだ。劇的な盛り上がりは意図的に排除されている。男の病気を知って女が愕然とするとか、泣きながら病院に駆けつけるとか、手を握り締めて最期を看取るとか、愛の言葉を呟いた後に息を引き取るとか、そういうありがちな場面は一切ない。いやまったく、見事なまでの潔さだ。そしてこの徹底した抑制によって、本作は観るものの心に残る佳作になった。

 そもそも病気を宣告されるシーンがない。主人公ジュンウォンは映画が始まった時点ですでに病に冒されている。観客はだんだんと、なんとなく(病院の待合室に座っている場面や断片的な会話などで)、彼が病気だということを知らされていく。すべてが婉曲表現で、説明的だと感じるセリフや場面はほぼ皆無だ。静かな日常の光景が積み重ねられていく。洗濯をする。写真を取る(ジュンウォンは写真屋なのである)。家族で鍋を食べる。友人たちとバーベキューをする。そんな光景の中に時折、死への恐怖がこぼれ落ちる。たった一人布団にくるまって泣く。酔っ払って旧友に「おれは死ぬんだ」と言う。あるいは、父親にビデオの操作方法を書き残す。現像機の操作方法を書き残す。自分の死に備えて。

 そんな日々の中で、ささやかな愛が育っていく。写真屋にやってくる婦警のタリムは「おじさん」と呼ぶジュンウォンといつしか心を通わせるようになる。決してドラマティックな恋愛ではない。ごくごく普通の、おとなしい恋だ。二人で遊園地に行った帰りに腕を組むのが、二人の恋愛のクライマックスである。

 やがてジュンウォンは倒れ、入院し、タリムはそれを知らないまま店に来なくなる。久しぶりに店に戻ったジョンウォンは手紙を書くが、結局出さないまま。彼は一度だけ、タリムを町で見かける。声はかけない。それだけだ。そしてジョンウォンは死ぬ。なんと、この映画でタリムはジュンウォンの死を知らされないのである。自分がほのかな恋心を抱いたあの人は不治の病に冒されていた、ということをヒロインが知らないままこの映画は終わってしまう。この思い切った構成がこの定番ストーリーを美しく、みずみずしいものにしている。

 ストーリーの起伏がほとんどないので、いかにも「難病もの」的なドラマティックな展開を期待する人はがっかりするだろう。愁嘆場もお涙頂戴シーンもない(あえていえば、ジュンウォンが最後にタリムを町で見かけ、彼女の姿をガラス窓ごしに指でなぞるシーンが最大の泣かせどころだろうか)。この映画が語るのは他のことだ。死を定められた人生の中では、日常の輝きこそがもっとも美しいものとなる。ありふれた日常の光景がかけがえのないものとして立ち上がってくる時、その圧倒的なリリシズムはどんなドラマをも凌駕するのである。この映画はその美しさを完全にとはいえないまでも、懸命に捕らえようとしている。

 タリムを演じている女優は最初は子供っぽく、かわいいけれどもどこにでもいるような娘に見えるが、最後のシーンでは大人びた美しい女性に変貌している。深読みすれば、この変貌は彼女の新しい恋の結果かも知れない。おそらく彼女はもう別の人生を生きているのだろう。一方ジュンウォンを演じている男優は別にイケメンでもなくごく普通の感じだが、だからこそこの映画にマッチしている。
 
 ひとつ文句を言わせてもらうと、エンディング・テーマをあんなべたべたにセンチメンタルな歌にしないで欲しかった。あれじゃ余韻がぶち壊しである。せっかく本篇であれだけ抑制を効かせているのだから、音楽にも気を使って欲しかった。



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