週末はいい天気でした。京都の右京区・上京区の尼門跡をいくつか巡りました。
最初はJR嵯峨嵐山駅を下車して歩くこと約10分のところにある曇華院門跡です。
曇華院の寺史
開基は室町二代将軍義詮室の母にして四辻宮尊雅王の娘である智泉聖通。当初は通玄寺と
称し、尼五山に列せられて竹之御所号を勅許される。智泉尼が退隠所として曇華院を
建立する。応仁の乱で荒廃して本寺である通玄寺と合併して曇華院を寺名とする。
慶長8年(1603)焼失、延宝年間(17C後半)に後西院(天皇)皇女で24世住持の
大成尼により復興する。江戸後期より無住寺となり、さらには元治の兵乱で焼失する。
明治に入り現在地に移り、鹿王院塔中の瑞応院を買得して再興した。寺領684石。
禅宗単立 本尊十一面観音菩薩。
曇華院は鹿王院というお寺に隣接してあります。
お寺の中というか横には「若竹保育園」という保育園がありますが、曇華院の保育園
のようで、私が訪れた時もご門跡(住職)は保育園におられたそうです。
「若竹」は言うまでもなく「竹之御所」にちなんだ名前でしょう。
脇玄関でご朱印を請うと「どうぞお参りください」ということで、上がらせてもらって
本堂で勤行させていただきました。
曇華院表玄関 庭園が塀越しに見えますが通常非公開です。
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曇華院の寺史
開基は室町二代将軍義詮室の母にして四辻宮尊雅王の娘である智泉聖通。当初は通玄寺と
称し、尼五山に列せられて竹之御所号を勅許される。智泉尼が退隠所として曇華院を
建立する。応仁の乱で荒廃して本寺である通玄寺と合併して曇華院を寺名とする。
慶長8年(1603)焼失、延宝年間(17C後半)に後西院(天皇)皇女で24世住持の
大成尼により復興する。江戸後期より無住寺となり、さらには元治の兵乱で焼失する。
明治に入り現在地に移り、鹿王院塔中の瑞応院を買得して再興した。寺領684石。
禅宗単立 本尊十一面観音菩薩。
曇華院は鹿王院というお寺に隣接してあります。
お寺の中というか横には「若竹保育園」という保育園がありますが、曇華院の保育園
のようで、私が訪れた時もご門跡(住職)は保育園におられたそうです。
「若竹」は言うまでもなく「竹之御所」にちなんだ名前でしょう。
脇玄関でご朱印を請うと「どうぞお参りください」ということで、上がらせてもらって
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曇華院表玄関 庭園が塀越しに見えますが通常非公開です。
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