旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

昭和の子供のアホな遊び方

2016年12月18日 | 旅の風景
 私の両親はとても厳しい人達で何かあるととにかく先に手が出て、その後で、運が良ければ、なぜ叩かれたのかを説明されるような親でした。それでもアホな私と姉は両親を怒らせる事を繰り返して、何度も叩かれ、何度も家から追い出され、近所の家に救助を求めたものでしたが、時代は今とは違うので近所の家を頼ったとしても別に警察沙汰になるわけでもなく、”チキンラーメン”をごちそうになりながら両親の怒りが収まるのを待っていたような幼少期。

 大人になった今では、”今ならアンタ達は刑務所行きだよ。我々姉弟は施設で育ててもらうしかない。”と言い放つ事ができる関係にはなりましたが、それだって今でもコワゴワ言い出す感じ。

 そんな親でもありますし、時代だって昭和なわけですからテーマパークへ家族で出かけるなんて事はありえません。家族で出かけるのは”東大寺”とか”比叡山”。子供がゲームセンターへ行くとかは許可されるわけもなく、だいたい、ゲームと言ってもインベーダーゲームがある程度。専ら外で遊ぶか、家で勉強するのが子供の”余暇”の過ごし方となります。

 そんな環境の中でただ2つだけ許されていたのが”アウトドア”。小学校1年生のときに引っ越した先は山の麓の家なので、少し歩けば山。その山をズンズン進んでいけば京都まで行けてしまう環境。小学校高学年になった頃には子供だけで山に入ってキャンプする事が何故か許されていて、中学を卒業するまで子供ばかりで2泊3日程度のキャンプ旅行を毎年恒例の事としていました。

 お小遣いを今の子供のように貰っているわけではないので2泊3日分の計画を父母に話して了解を得て、食料計画を話し、母に買物をしてもらうわけです。そしてそれらの装備を持って山へ分け入ります。そんな事を繰り返していたので、裏山は私にとっては庭みたいなもの。両親にとってもゲームセンターへ行くよりはずっと”安心”な空間だったようで特に反対されることもなくキャンプやハイキングを繰り返していました。

 つまり、息が詰まる様な躾の厳しい家庭の中で奇跡の様に許された自由空間が山の中にあるわけで、こうなると子供心に探究心が芽生えます。2万5千分の1の国土地理院発行の地図を手に入れ、”地形図の読み方”という本を読み漁った私と友人たちは今まで道ではなかった尾根筋が道路として使える可能性に気づきます。そして、また奇跡のようになぜか許されていた刃物類---ナタとか登山ナイフ---を手に持って、地形図を頼りにブッシュを切り開いて京都都の県境となっている山の尾根を目指して自分たちだけのルートを切り開くアホな遊びに興じるようになっていきました。

 日曜日に気心の知れた友人たちとナタやナイフを振り回して道を切り開いた結果、漆にかぶれて運動会の旗手をできなくなったり、そんな愚かな子供時代です。

 ある週末のこと。私達アホな子供同盟は学校で打ち合わせた未開拓の尾根を切り開こうと名神高速道路沿いの道に自転車で集結しました。自転車は少し森の中へ入ってから木で隠します。

 手に手におそらく銃刀法に触れるに違いない物騒なナタや登山ナイフをもったガキどもは自分たちだけのルートを京都まで切り開くという、おそらくこれも違法な行為に興奮しながら勝手知ったる山へ分け入ります。下草や蔦をなぎ払い、尾根伝いに県境を目指します。

 ところが途中で突然空がにわかにかき曇り、凄まじい雷雨がやってきました。雨具を着る間もなくずぶ濡れです。

 子供とはいえ、山に慣れた我々はこのままだと”危険”と感じて計画を変更。山中での我々の基地の一つとなっていた”鳴滝不動尊”へ撤退することを決めました。地図をチェックして回避ルートを確認できるあたりは、今時のGPSが無いと動けないアーバンな今の登山者よりはずっと技術は上なガキどもです。

 無事鳴滝不動へたどり着いた我々は、鳴滝不動へ参詣に来た人達が使う休憩小屋へ避難します。小屋と言っても屋根があるだけの建物。それでも雨が凌げるだけ天国です。

 ずぶ濡れになって寒さに震える我々は焚き火をしようと考えます。この小屋の床は焚き火ができるようになっています。屋根の下には参詣者が暖を取れるように山で刈った薪が干されているのです。

 子供とはいえ、田舎者ですから焚き火はお手の物。屋根の下から引っ張り出した薪を組み立ててマッチで火をつけ、暖を取ります。

 とにかく体が冷え切っていた私達にとって、小さな焚き火はなんだか心もとない。皆がそんな気持ちですから、自ずとどんどん薪をくべるわけです。どんどんどんどん薪をくべて、炎はそのうちあたっていられないくらい熱くなってきました。そんな熱さにずぶ濡れの我々は幸せを感じていたのです。

 炎は皆の気持ちを受けてどんどん成長して、いつの間にか天井まで届く高さに。そして、気がつけば、屋根の下に干してある薪に燃え移っていたのでした。

 気がついた我々は大慌て。不動明王に水をかけるためにおいてあるバケツをリレーして消火にあたります。幸い、火災は広がることなく消し止めることに成功。鳴滝不動尊の小屋は守られたのでした。

 その数年後でしょうか、鳴滝不動尊の小屋が火災で焼けてしまったのは。あれは私たちは関与していませんからね。

 40歳を過ぎた頃、実家へ規制して両親と散歩に出かけました。鳴滝不動尊の入り口へ行った際にこの話を打ち明けたところ、流石に”絶句”していました。どんなに厳しくしつけても、子供は見えないところでアホな事をしているものなのです。


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