小泉内閣が2006年版の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針(骨太方針)」を決めました。小泉政権として最後となる「骨太の方針」は、「財政健全化」に向けて「歳出・歳入一体改革」を行うと称して、社会保障の切り捨てや消費税増税など、今後十年あまりにわたって国民にいっそうの大きな犠牲をおしつける方針を明記しました。これは、負担増とサービス切り捨てを徹底的に行い、国民を「兵糧攻め」(共産党・市田書記局長)にしたあげく、消費税増税をおしつけようというものです。「聖域なき構造改革」が壊した聖域と壊さなかった聖域は小泉政治の階級性を際立たせています。
不良債権の強行処理、不安定雇用の規制緩和、大企業減税と庶民増税、社会保障改悪、マネーゲーム奨励のための減税と規制緩和―。大銀行・大企業のリストラを奨励し公租公課の負担を軽減する、財政危機の責任をすべて庶民にかぶせる、金融資本と金持ちには儲けの機会を提供する―これが小泉「構造改革」です。
「聖域なき構造改革」が破壊の対象にした「聖域」とは、憲法が保障しているナショナルミニマムとしての生存権と額に汗して働く庶民のくらしであり、最低限の経済ルールとモラルです。
逆に軍事費と大型公共事業、大企業・高額所得者の負担とマネーゲームを聖域にし、保護しました。
これほど誰のための「改革」であるかその階級性が明白にもかかわらずなぜ多くの国民が小泉「改革」にだまされたのか。
現代日本の政治や経済をだめにしているのは、旧来型の寿命のつきた自民党と官僚の政治であり、これこそ諸悪の根源であるという認識が、多くの国民に共有され、財界や大企業が既存の自民党政治と官僚機構に批判と改革の目を向けはじめたとき、「構造改革」の階級性を見破り、犠牲を受ける階層を獲得する受け皿となる政策ビジョンを有効に示す政党はありませんでした。共産党も自民党政治を批判する場合、旧来型自民党政治とそれをぶちこわして進む「変わった自民党政治」が追求している「構造改革」政治との違いを十分に区別できていたとは思われません。
日本経済の高度成長と企業の繁栄を支えたのは自民党政治と官僚機構でした。企業の成長によるパイの増大により労働者の生活を向上させるという《企業社会》国家(渡辺治・一橋大教授)とでもいうべき体制のもとで、企業主義労働運動は、企業の生産性向上に有利な政策を展開してくれる自民党政治に労働者党よりもむしろ親近感を持っていました。同時に旧来の自民党政治は、企業の成長で増大する税収を、企業社会の成長に取り残された《周辺》産業や、農民、都市自営業者に対して補助金や公共事業投資という形で配分し、社会の安定と自己の支持基盤を固めていきました。
旧来型自民党政治は大きな政府であり、生産性の低い産業を存続させる「二重の高コスト」体質であるとして「構造改革」の対象となったとき、企業主義労働運動には、もはや有効にたたかう力はありませんでした。弱小産業や農村、都市自営業者の味方であった自民党「抵抗勢力」が小泉「刺客」によって無残にも切り捨てられているにもかかわらず、公明党にも助けられながら、グローバル企業中心の景気回復を支持し期待する都市上層部にターゲットを絞った小泉戦術が席巻するところとなりました。
構造改革の司令塔である経済財政諮問会議のメンバーを見ただけで誰による、誰のための「改革」が明らかになります。小泉構造改革は、なるほど旧来の自民党政治を解体しましたが、「改革」期待派の思いとは逆に、いまや現代日本政治の諸悪の根源は変わった自民党による構造改革政治そのものです。
不良債権の強行処理、不安定雇用の規制緩和、大企業減税と庶民増税、社会保障改悪、マネーゲーム奨励のための減税と規制緩和―。大銀行・大企業のリストラを奨励し公租公課の負担を軽減する、財政危機の責任をすべて庶民にかぶせる、金融資本と金持ちには儲けの機会を提供する―これが小泉「構造改革」です。
「聖域なき構造改革」が破壊の対象にした「聖域」とは、憲法が保障しているナショナルミニマムとしての生存権と額に汗して働く庶民のくらしであり、最低限の経済ルールとモラルです。
逆に軍事費と大型公共事業、大企業・高額所得者の負担とマネーゲームを聖域にし、保護しました。
これほど誰のための「改革」であるかその階級性が明白にもかかわらずなぜ多くの国民が小泉「改革」にだまされたのか。
現代日本の政治や経済をだめにしているのは、旧来型の寿命のつきた自民党と官僚の政治であり、これこそ諸悪の根源であるという認識が、多くの国民に共有され、財界や大企業が既存の自民党政治と官僚機構に批判と改革の目を向けはじめたとき、「構造改革」の階級性を見破り、犠牲を受ける階層を獲得する受け皿となる政策ビジョンを有効に示す政党はありませんでした。共産党も自民党政治を批判する場合、旧来型自民党政治とそれをぶちこわして進む「変わった自民党政治」が追求している「構造改革」政治との違いを十分に区別できていたとは思われません。
日本経済の高度成長と企業の繁栄を支えたのは自民党政治と官僚機構でした。企業の成長によるパイの増大により労働者の生活を向上させるという《企業社会》国家(渡辺治・一橋大教授)とでもいうべき体制のもとで、企業主義労働運動は、企業の生産性向上に有利な政策を展開してくれる自民党政治に労働者党よりもむしろ親近感を持っていました。同時に旧来の自民党政治は、企業の成長で増大する税収を、企業社会の成長に取り残された《周辺》産業や、農民、都市自営業者に対して補助金や公共事業投資という形で配分し、社会の安定と自己の支持基盤を固めていきました。
旧来型自民党政治は大きな政府であり、生産性の低い産業を存続させる「二重の高コスト」体質であるとして「構造改革」の対象となったとき、企業主義労働運動には、もはや有効にたたかう力はありませんでした。弱小産業や農村、都市自営業者の味方であった自民党「抵抗勢力」が小泉「刺客」によって無残にも切り捨てられているにもかかわらず、公明党にも助けられながら、グローバル企業中心の景気回復を支持し期待する都市上層部にターゲットを絞った小泉戦術が席巻するところとなりました。
構造改革の司令塔である経済財政諮問会議のメンバーを見ただけで誰による、誰のための「改革」が明らかになります。小泉構造改革は、なるほど旧来の自民党政治を解体しましたが、「改革」期待派の思いとは逆に、いまや現代日本政治の諸悪の根源は変わった自民党による構造改革政治そのものです。
庶民は病院にも安心して行けず、体も心も財布も「骨粗鬆症」。
骨はやせ衰えスカスカ。
良く、かれらも「骨太方針」なんて洒落にもならない命名を続けているものです。
国際的にみても恥ずかしい。
本当の「骨粗鬆症」で困っている方、喩えに使いまして済みません。
でも、本当にますますひどくなるばかりですよね。