”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

”民主警察”はあり得なくなるのだろうか。

2017-05-23 14:25:40 | 生活

 共謀処罰法が委員会を通過した。 やがて衆院を通過し参院も通ることになるのだろう。 「良識の府」と言われていたこともある参議院がどんな姿勢を見せるのか、期待したいところだが、まあ無理だろう。 そうなると、日本という社会に共謀処罰法なるものが出現することになる。 そしてやがて、”政権”という権力のありようが徐々にその内容を変質させていくことになるだろう。 ゆっくりと、国民に気づかれないうちに。 おそらく、国会にいる大部分の議員諸氏も気づかないうちに、、、。

 日本の警察は戦後70年間、新憲法のもとにあってまがりなりにも国民の自由と主権、生活と安全を守ってきてくれた。 警察官個人個人でみても、総じて優しさ、親しみそして親切というようなソフトなイメージが少なくなかった。 民主警察であり続けてきたと思う。 ”お二人さん”にはいないが、孫やひ孫の時代さらにはその後までそうであってほしいと思っている。

 しかし、警察が組織として”権力”を意識し始めると、その権力としての存在に意味を保たせるために、その行動に狂いが生じてくる。 警察権力の暴走が始まる。 犯罪をでっちあげ、それを検挙して警察の意義を喧伝する。 政権などからの働きかけがなくとも、それらを忖度し警察組織独自の活動が始まってしまう。 警察官個人が、正義を望みそれを実現しようとしても、もはや組織はそれを許さなくなる。 そして、警察官個人の中から、そして警察という組織の中から正義とか理想とかいう思いが消滅していく。 行く道は遠いが、われわれの社会の将来の姿として、そんな現実は見たくないものである。

 


共謀罪という罪 ・・・ 冤罪のもと

2017-05-19 23:02:58 | 生活

 テロを予防するために必要だという名目で、政府は共謀を処罰するための法律を制定しようとしている。 野党が警鐘を鳴らしている”共謀法”とかいうやつである。 政府は「特定の犯罪集団が犯罪を実行しようとしていることが判明したらその集団なり組織なりを事前に拘束して処罰する」というようなことを言って、一般の人には関係がない法律だとしている。 しかし、これは「権力に反対する声や動きを未だ小さなうちに消してしまおう」ということに繋がるものだと思う。 今の政府にはそういった思いや考えはないのかもしれないが、政府は年月とともに変化する。 つまり、国家の権力の保持者は不変ではない。 どんな政府が出来、どんな権力が表れるか判らない。 そうなった時、法律は時の権力に都合がいいように解釈され、利用される。 そんな危険な”恐ろしさ”を内在させた法律だと思う。

 日本には過去の歴史において、治安維持法という法律がありこれが思想や言論の統制に利用された。 思想や言論を統制して治安を維持するということは表面的にはなんら悪いことではなく、むしろ結構なことに聞こえる。 しかし、問題はだれがこの法律の遵守にたずさわるかである。 どんな権力がこの法律にかかわるかである。 法を守るのは”司法”政府の役目であり、司法は警察、検察、そして裁判所である。 これらの国家権力はどの組織も「法律を解釈」し、その「解釈と現実を対比」し、その結果現実が違っていれば「拘束して矯正」しようとする。 こうした動きは社会と法律があるところ自動発生的に始まり進行していく。 現在の日本の社会と刑法のありようを見ればよくわかる。 異常事態すなわち事件が起きれば警察はそこに刑法に違反する要件はないかと探し回る。 捜査が始まる。 日本に刑法があるかぎり、その法を遵守するために告発がなくとも警察は捜査をしなければならない。 そして最終的に犯人が逮捕され刑事訴訟法に従って裁判され刑が決まる。 時に、その過程に齟齬が生じても警察は把握している状況を法に符合させるためにその齟齬を無いものにしようとする。 つかんでいる状況を法律に合わせようとするのが刑法の下での警察の仕事だからである。 そこに冤罪が生まれる。 現在の日本にも冤罪は少なくないが総じて法治国家の姿は保たれている。 それは日本の憲法、刑法、刑事訴訟法などの法律と司法のありようが”それなりに良く”保たれてきたからである。

 共謀法が成立してしまったらどうなるか。 政府やその権力のありようが国民の思っているようなものと違ってきたとき、社会のありようはどうなるだろうか。  何事につけ”反対”することがむつかしくなると思う。 例えば、最近新聞で見た保育園建設反対問題など、公共の福祉に反する犯罪行為として反対運動は初期の段階で摘発され、関係者は共謀したということで逮捕されるだろう。 これは、犯罪ではなくわれわれは”一般人”であると言ってもそれを判断するのは警察で、そこに思想的なものを認め犯罪に繋がると警察が判断した場合には、彼らの捜査対象となってしまう。 拘留や逮捕の口実は”共謀罪”が法的に認められればいくらでもでっちあげられる。警察はその罪に該当する事案の摘発に懸命にならざるを得ない。 なにも、政治や経済、軍事などに係ることでなくても、政府がかかわった事柄でなくても、話し合いをしたり資料を見たりなどしていれば警察が独自の判断で独自に動き出してしまう。 だから怖いのである。

 太平洋戦争の前から戦中にかけて治安維持法のもとで多くの思想家や文化人さらには一般人まで検挙され拷問されそして死んでいったという。 このような不幸や間違いを繰り返さないためにも治安維持法に酷似したものになりうる”共謀の処罰法”は成立させてはならない。 そういった不幸が現実となるのは20年先、50年先かもしれない。 いずれにしても我々の世代の話ではなかろう。 それは子や孫の時代以降だろうが、彼らが不幸になる責任は我々の世代にあると思うのである。

 今日、委員会を通ってしまった。 また強行採決である。 ニッポンには”民主主義”は国民性として似合わないのかもしれない。 日本人は歴史に学ぶということは苦手なのだろう。 かなしいことに、、、。

 

 

 


舛添さんと安倍さん、どちらが罪深い。

2017-05-17 11:11:13 | 生活

 前東京都知事の舛添氏はいろいろちまちまとしみったれた公費の使い込みが問題にされて結局知事の職を解かれることになった。 少しづつ細かいところで私腹を肥やしたことを追求されてのことのだった。 対して、森友学園問題や昭恵夫人の問題等、現首相にかかわる権力乱用問題は国の予算や費用に関連することであり、決して看過してよい問題ではないと思う。 舛添さんの問題のようにちまちまと都民の税金で小さな私腹を肥やしていたのとはケタが違う。 億単位の国民の税金を個人的なナショナリズムに叶うからといって、私的な学園の設立のために費やそうとしたり、国の予算で雇用した人員を私的な用途に流用したりしたのである。 舛添さんも安倍さんも、やったことはともに権力の悪用なのだが、やはり万円単位のことと億円単位のことでは責任のありようが違って然るべきと思う。 舛添さんのことを思えば、安倍さんは即退陣である。

 そんなことに思いを巡らせていると、隣国のパク前大統領のことが念頭に浮かんでくる。 パクさんも一連の権力の悪用によって退陣させられた。 悪事をなせばその責を負うのは当然であるが、注目したいのはその責任の追及のされ方である。 パクさんは国民による弾劾という手段によって追放された。 それに比べて、日本という国の国民や社会はなぜ安倍さんの権力の乱用ぶりを指摘し追求しないのだろうか。 少額の公費で私腹を肥やすのと高額な予算や公費で個人のナショナリズムを満足させるのとではどちらの弊害が大きいか。 都知事がやることと国家元首がやることである。 われわれ国民はよく考えて、考えた結果「これはいかん」と思うなら、その思うところを声を大にして叫ばなければ、”パクさんの弾劾”のような民主主義の開花は見られないのではないだろうか。

 「果報は寝て待て」「大衆迎合」「郷に入っては郷に従え」「言わぬが花」「出る釘は打たれる」などと周りばかりを見回してお上のありようを忖度していては、やがて私たちの周りの民主主義は萎んでいってしまうと思うのだが、、、。  それとも、日本の民主主義は ”押し付けられたもの” で、韓国の民主主義よりも ”みっともないもの” なのだろうか。 「多様性の尊重」とか「個性の尊重」などと言っているのはどうも ”衆愚” に向けた宣伝文句のような気がしてしょうがない。


快晴の”子供の日”

2017-05-05 14:20:07 | 生活

 今日は5月5日、子供の日である。 この季節のこの時期はお天気は安定しているのかそうでないのかよく知らないが、子供の日という祝日はやっぱり好天なのがいい。 子供という種族には好天がよく似合う。 「お天気なんか関係ない」と家の中にこもっている子もいるのだろうが、子供が無く、したがって孫というものも身近には知らない私たちお二人さんは、古い昔の”子供たち”の世界を想いながら”子供の日”を迎えている。 そして今日の好天を”古い解釈”でもって喜んだりしている。

 昨日、テレビで子供たち(小学生)の縄跳び競技会の放送を見た。 見ようとして見たのではなく偶然見た。 こういった番組こそ子供の日にやってほしかった。 出ていたのは、全国のとある地方のとある小学校のとあるクラスの全員なのだった。 子供たちはどのチームもみんな元気いっぱいだった。子供というものは男の子でも女の子でも、子供であるというだけでかわいくて綺麗なものである。 そんな子供たちが一クラス男女一丸となって頑張っている姿や表情は見ていて気持ちがいい。 番組の解説にアナウンサーやそれなりのアスリート、そしてタレントたちが出演していたが、誰と比べても子供たちの顔は出演者の顔に勝っていた。 美しかった。 

 それにしても今日は上天気である。 Max.Tmp.は26度を超えたのではないだろうか。 この天気や気温は子供達にはなによりなのだが、お二人さんのような年寄りにはかなりこたえる。 今日も午前中二人でガーデニングの真似ごとのようなことをしていたのだがお昼にはもう音を上げた。 体がだるくなって動きがとれなくなった。 妻は午後は新聞を被って昼寝である。 それに引き換え植物は全く元気である。 柿の若葉は大きさを増し、アオキの新葉は日に輝いている。 みかんも新しい梢を伸ばし始めているし、ツツジやコデマリの花は今が盛りと咲き競っている。 ほんとに狭い我が家の周りだけでもこんな”勢い”が見て取れる。 晩春から初夏というのは本当によい季節だと思う。 急激な気温の変化、暑さだけはこたえるのだが、、、。 天然自然の命の息吹きには毎年のことながら驚かされる。 子供たちの元気に決して負けはしない。 年寄りこそこの季節から”命の力”を汲み取らなければならない。「暑さがこたえる」などとは言っておられない。

 

 


地下鉄の車内広告でびっくりした。

2017-05-05 14:18:02 | 生活

 

 昨日、2か月ぶりくらいに名古屋へ出かけてみた。 妻が松坂屋で行われているという院展のキップを2枚もらってきたというので久しぶりに一緒に出掛けた。 前回名古屋へ出かけてのは2月の上旬に通院のために行ったのだからやはり2か月ぶりである。 前回は冬の最中であり用向きも医者通いなどという変哲のないことであったので、ただもくてきを果たすことに注目して出かけそして帰ってきた。 

 齢をとると2,30分電車で出かけることもなんだか億劫になる。電車利用ということになると、普段、毎日が日曜日というような自堕落な暮らしをしているので、少々身なりいでたちに気を使わなければならない。 年寄りだからなおさらである。 いわゆる身だしなみというやつである。 と、ここまでは21日に書いていた。 ちょっと休憩と思っていたらもう1週間が過ぎてしまっていた。  

 そこで、続きを書こうと思い、さて何について書こうとしていたかと思いめぐらせてみた。 そして思い出した。 地下鉄の車内広告のことだった。  平日の昼前の電車はもう混雑していない。座席に腰を下ろし車内を見回してみるとつり広告も窓上の広告もみな同じ種類のものである。 なんの商売の企業か団体か、はたまた学校か、世間から遠のいている年寄りにはさっぱり判らない。 それは良いとして、要するに、車両全部の広告を一つのスポンサーが買い切っていたというわけである。 ここ数年間というか、もっとの期間かもしれないが、JRの車両でも地下鉄の車両でも車内広告から”メーカー”の広告がなくなって久しかった。 なんだか寂しい思いをしていた。 それでも、教育、出版などいわゆる文系の企業や会社などの広告が何種類か車内に見て取れた。 1社が1車両を独り占めということはなかったように思う。 こういったところにも ”世の中の変化” というものが現れてきているのであり、その変化というものの正体はいったい何なのだろうかと考えさせられたのだった。 そしてなんだか気味が悪い思いがしてきた。

  この記事書いた時の日時:4-29 17:16:31

 


安倍総理は無節操、尻軽、そして頭も軽い。 ーーー 哀しい。

2017-05-02 17:08:55 | 生活

 我が国の内閣総理大臣は外国へ出かけ過ぎる。 そしてトランプ大統領に尻尾を振りすぎる。 まるで大統領のプードルである。 アメリカ国民の大いなる間違いでトランプ氏が大統領になった時も、大急ぎで飛んでいって自慢げに一番の仲良しだとでもいうような様子を世界に見せつけた。 シリアを爆撃すれば直ちに理解とやらを表明し、こんどは米艦防護とかいうことを待ってましたというようにやって見せた。 世界の諸元首の動静と比べてみるといかにも節操がない。 外交で評価を得ているというが、外遊が多いだけでこれといって外交成果があったわけでもない。 TPPはどうなったと言いたい。ただただ尻が軽いだけであちこち飛び回っているだけである。 それも税金で、、、。  一国の元首たる者、もっと泰然としていてほしい。 国民として恥ずかしい。 外務大臣も動きにくいしやりにくかろう。

 最近の北朝鮮がらみのトランプさんの動きとそれにまつわる言動を見ていると、安倍さんはかなり頭の軽い単純で偏屈なナチュラリスト(右翼の)なんだと改めて認識した。 こういった人物を国の首相としていただかねばならないことは哀しく残念なことだと思う。 やっぱり、自国の元首はどっしりと大きくて、心の広い、思慮深い人物がいいと思う。