”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

サプリメント

2010-03-30 16:27:58 | Weblog

 以前は、昼間テレビを見ることはめったになかったのだが、近頃、妻が韓国映画の「チャングム」を見るので時々一緒に見ることがある。 民放なので自然と”コマーシャル”も見ることになる。
 そして思ったのだが、今世間に出回っているサプリメントはいったいどれぐらいあるのだろう。 昼間テレビを見る人たちの多くが「高齢者」のせいなのか、「健康増進」や「若さを保つ」という”お題目”の商品がやたらと目に付く。

 サプリメントというのは”薬”ではなく、”食品”でもない。 要するに「栄養補助食品」なのである。 それでは栄養補助食品とは何かということになる。
 よく判らないので早速インターネットで検索してみる。 すると、辞書検索結果として以下のように出てくる。
 ビタミンやミネラルなど不足しやすい栄養素を補うための食品。栄養素を凝縮し、錠剤や飲料の形にしたものが多い。サプリ。栄養補助食品。健康補助食品。」
 要するに、本来は普通の食品から摂取するべき栄養素を「簡単に摂取できるように形を変えたもの」というようなことになる。 
 
 ところが、昼間のテレビコマーシャルを見ていると、広告にでてくる”その”サプリメントを摂らないと「歩けなくなる」、「立てなくなる」、「目が見えなくなる」、「肌が弛んでくる」、「老化が早くなる」などといったような「強迫観念」にとらわれそうになる。 見ている方にしてみれば、多かれ少なかれ”思い当たる”ことばかりを指摘されるのである。

 高齢者なら「衰えて当然のこと」までも、それがいかにも”怠慢”のせいのように思わされてしまう。 そして、そのサプリメントを摂れば「衰えを防止できる」かのように思わされる。 
 摂らないよりは摂ったほうが良いのかもしれないが、その効果の程は明確ではない。 「プラス」をもたらすというよりも「マイナス」を減らすという効能をいっているもののほうが多いので、”効果”は出ているのか出ていないのかハッキリしないことが多いのではないだろうか。 

 要するに、”信仰宗教”のようなもので、「効果が出ている」と思えば効果が出ているのである。 ご婦人の「化粧品」などに良く似ている。 
 だから、”高価”なモノが多い。 これだけの値段なので効果があるに違いないと思うと効果が出てくるのだと思う。
 「鰯の頭も信心から」という。 「信じ込む」ことほど恐いものは無い。 「サプリメント信仰」もほどほどにしておかないと、しまいに”茶の木畑”に迷い込んで、本道を見失ってしまって「どれが正道やら」「何がなにやら」判らなくなってしまう心配がある。

 
 


妻の言い分

2010-03-28 11:28:57 | Weblog

 妻と私はときどき議論する。 議論といっては大袈裟すぎるから、話し合いというべきかもしれない。 話題は庭の「一坪菜園」のことから「世界の平和」のことまで時に応じて多種多様である。
 妻は積極的で楽天家、私は消極的で悲観主義なのだから自ずと話はかみ合わない。 ”喧嘩”の一歩手前まで行くこともよくある。 
 しかし、今回はそんな”お二人さん”が珍しく「議論」をせずに妻の一方的な話になった。 私は「うんうん」と頷くことばかりだから議論にはならなかった。 妻がしゃべり私はもっぱら聞き役だった。

 ’10年度の予算が決まり、「子供手当て」など具体的な施策がようやく動き出した。 しかし、沖縄の普天間基地の問題など問題は山積してをり、鳩山首相の支持率は低下し、世間の声、マスコミの評価などは並べて現政権のありようについて批判的である。
 そんな様子を見聞きしながら、妻は「これでは今の政権が可愛そうだ」と言うのである。 そして、国民としても、せっかく「政権交代」を成し遂げたのに”性急”になりすぎて「スタート」を誤まってしまっては”残念”だというのである。 まだ仕事は始まったところで、”結果”を出すにはまだまだ数年はかかる。 それなのに、国民やマスコミが”結果”や”成果”を焦って、「あれも出来ていない」「これもまだだ」というのは「無理」というものだというのである。 「マニフェスト不履行」のことなどなおさらだと言う。

 先の総選挙で民主党に投票した人たちの多くは「民主党のマニフェスト」に賛同して投票したわけではない。 ほとんどの人はそんなマニフェストなど知らずに投票したと思う。 「反自民」の意識の下に、、、。
 だから、民主党もマニフェストなどにこだわらず、過去の自民党政権に出来なかったことを「少しずつ」
でもやっていけば良い。 「方向」さえ誤まっていなければ、現在のありようや結果はまだどうでも良い。 「ゆっくり、着実に」清新な政治の実現を目指していけば良い。
 政権成立以来今日までの「ごたごた」や「頼りなさ」や「もめごと」なども、今の政権だからこそ「手の内」を全て国民の前に見せているのである。 過去の自民党政権の下では全て「政治の裏側」で”暗黙”のうちに行われてきた事柄なのだというのである。 

 普天間基地の問題も、現在までのようにいざこざや問題点を「あからさま」にしてきたからこそ、国民すべてが「沖縄」や「基地」の問題についてマジメに身近に感じ、考えるようになったのだと思うと言う。
 結果的に大きな進展が無かったにしても、多くの国民に「沖縄と基地の問題」を考えさせたという功績は残る。 その点で鳩山首相の「煮え切らなさ」にも意味があったと言えなくもない。
 なにしろ、”政権”も”国民”も「性急」にならないことだと思う。 ようやく出来た'10年度予算にしても、極めて短期間でつくりあげたものだった。 現政権が自前の予算をもって本格的に政治をやっていけるのは ’11年度からと思わなければならない。 どちらにしても「長い目で見る」ということが大事だと思う。 

 と、だいたいそのようなところが妻の論旨だった。 ごく細部を除いて私に反論は無かった。 反論がないどころか、「なるほどなるほど」と納得させられたところもあった。 だから、「議論」にはなりえなかった。
 妻は民主党支持者ではない。 いわゆる「無党派主義者」でもない。 選挙権を得て以来四十何年間、支持政党は一貫して共産党である。
 そんな妻が「”現状”だけからただただ政権批判に陥る」のは間違っているし、もったいないというのである。 国民は昨年「史上初めての政権交代」を成し遂げたばかりなのだから、、、。  全く「同感」である。


”理” と ”情” と。

2010-03-23 15:16:16 | Weblog

 「生きる」ということにおいて「心のはたらき」というものが占める割合はどの程度のものなのだろう。 
 いわゆる「動物的」な生き方をし、考えたり悩んだり喜んだり悲しんだりすることが少なければ「心のはたらき」が占める割合は少ないことになる。 しかし、人であるからには考えたり悩んだり喜んだり悲しんだりすることなく生きることは不可能だろう。 「心のはたらき」があるから”人”でありうる。

 そこで思うのだが、人の「心のはたらき」の中では「理性的なもの」と「感情的なもの」のどちらの比重が大きいだろう。
 理性的な心のはたらきを「理」とすることにしよう。 「理」が無ければ自分をコントロールすることは出来ないし、社会の調和や秩序を保つことも出来ないと思う。
 「理」というものは自分や社会を成立、向上させていくために不可欠なものということになる。 「理」なくして「人の文化」は成り立たない。

 しかし、個人においても社会においても「理」というものは扱いにくいやっかいなものでもある。 「理」というやつはどこか角張っていて肌触りが良くない。 なにかというと引っかかったり突っかかったり、なにしろ扱いにくいのが「理」というものだと思う。 

 もう一方の、人の「心のはたらき」のうち「感情的なもの」を「情」としよう。 「情」もまた重要な心のはたらきであり、「理」でギクシャクした心の状態を滑らかに動かすための「潤滑剤」のようなものだと思う。 
 「理」が無ければ人間は向上できないだろうが、「情」が無ければ人間は生存できない。 こういうふうに思ってくると、「理」と「情」とどちらが「心のはたらき」としてより重要なのだろう、より大きいのだろう、などと解らなくなってしまうのである。 

 「理」も「情」もどちらも大切なものであり、「優劣など付ける必要はない」とも思えるのだが、人は生活の中でいつも「どちらかを選ぶ」という状況におかれているのではないだろうか。
 卑近な例が「家庭の日常生活」の中にある。 親子、兄弟姉妹、夫婦などといった関係の中で私たちはいつも「理」をとるか「情」をとるかの選択を迫られている。 「理」を取れば「厳しい」ということになるし「情」をとれば「甘い」ということになる。 

 「相性」という言葉がある。 人と人の関係に於ける良否をいう場合などに使われる。
 Aという人とBという人がいるとする。 AとBとの相性が良いか悪いかを判断したり思ったりするとき、私たちは二人の「理」で判断したり思ったりするのだろうか。 それとも「情」でするのだろうか。 或いはその両方でするにしてもどちらに於ける評価に重きを置くのだろうか。

 「師弟関係」とか、会社などに於ける「上司と部下の関係」ならばほとんどの場合「理」が優先するだろう。 「理」によって判断し決定しても多くの場合間違いはない。 しかし、先にあげた親子、兄弟姉妹、夫婦などというような人間関係では簡単ではない。 そこでは「情」の占める比重がかなり大きくなってくる。
 
 「本能」というものは「理」よりも「情」に近いものなのではないだろうか。 この「本能」に近い「情」が親子、兄弟、夫婦の間では重要に介在してくる。
 親子の「情」は兄弟姉妹の「情」とは違う。 夫婦の「情」もまた特別である。 ともに「本能」に近いところから生じている「情」だがそれぞれに異なっている。 

 「夫婦の相性」を思うとき、それは「理」において相容れるものである方が良いのか、「情」において相容れるものであるほうが良いのかどちらだろう。 「どちらだろう」というのは間違いで、「どちらの比重が大きい」ほうが良いのだろうというべきかもしれない。 
 「理」において相容れるところが多ければ、その夫婦は互いに「敬愛しあう」仲になるだろう。 「情」において相容れるところが多ければ、その夫婦は互いに「惚れ合う」仲になるだろう。 
 「敬愛しあう」だけではそのうち疲れてくるだろうし、「惚れあう」だけでも物理的経済的に長くはもたない。 

 こんなことを思い巡らしながら書いているうちに、何がなにやらわからなくなってきてしまった。 そして近頃の世間では「そういったこと」がなんだかグチャグチャになってきているようでもあるし、本当に”判らなく”なってきているこのごろである。 だからグチャグチャな出来事が毎日のように世間を騒がせたりしている。

 いずれにしても、「理を働かせる」べきなのか、「情に掉さす」べきなのか、に思い迷わなければならないことが多い「この頃」であることは間違いないようである。
 こんなことをぐちゃぐちゃ思うのも”お二人さん”が暇だからだとは思っているが、、、。
 


妻の”墓参”

2010-03-13 15:46:00 | Weblog

 尾張地方では、国府宮の”裸祭り”が終り奈良東大寺の”お水取り”(修二会)が終わると「春が来る」ことになっている。 国府宮は尾張一宮の神社だが東大寺は奈良である。 なぜ奈良の寺で行われる行事が尾張の気候にかかわる”言い伝え”に入っているのかは知らないし、詮索しようとも思わない。 尾張が「西国」に近く、また奈良東大寺が全国的に名をはせているからだとでも思っておけばよかろう。

 その「お水取り」の”火祭り”(お松明)の模様が新聞に出ていた。 もうとっくに終わっているものと思っていたが勘違いだった。
 先日、九州や北日本に大雪が降ったのも”これで納得”というわけである。 ”温かくなる”はこれからなのである。
 人は欲張りでせっかちである。 良いことには焦がれ、早く来るようにと無意識のうちに
願っている。 だから、温かさの指標であり春の指標である行事などは早く早くと願ってしまう。 とくに、我々のような年寄りになるとそうした傾向がより強くなる。 我慢や辛抱が足りなくなるのである。

 私たち”お二人さん”の最近の話題はもっぱら「待春」である。 妻はいかにしてこの「気候の変わり目」を無事に乗り切るかに意を用いている。  私はそんな妻を横に見ながら「早く来い、早く来い」と”春”を待ち望んでいる。 そして、今年は今のところ、”お二人さん”ともに順調な春を迎えられそうである。 昨年は妻には「春らしい春」はなかった。 胃の不調と体重の減少に悩まされていた。

 今年は「彼岸の墓参」に妻の郷里の讃岐(香川県)へ行ってみたいと計画している。 思い返してみると、妻は母を亡くして以来一度も彼岸の墓参りに行ってなかった。 墓守は妻の兄がしているので、墓参は義兄達にまかせっきりである。
 その兄も今は奈良に住んでいるので郷里の墓に参るのは年に数回のことだと思う。 そんな「無沙汰」を感じているので、妻としては「思いついたら」是非にも実現したいと思うのも無理からぬことである。

 義母が死んで、もう七年になる。 亡くなったのは三月だったから、もう満七年である。 思い返せば、昨年は「義母の七回忌」の法事があったのだった。 その法事の時も、奈良の義兄宅の仏壇にお参りしただけで、「墓参」は義兄や義姉たちに任せてしまっていた。
 
妻にとっては、今年の三月の彼岸に”墓参り”することは「彼岸の墓参」であるとともに「去年のお詫びの墓参」であり「母を亡くした月の墓参」でもあるのだった。 それゆえに今年の春は妻にとっては「待ち遠しい春」なのだった。 そして、つい先ほどまで「そんなこと」に気付かなかった己の不明を恥じた。

 妻は我が家の仏事には充分に心配りをしてくれている。 私が「無信心」なので、日々の仏壇の世話などにも本当によく気をつけてくれているように思える。 そんな妻が「親の墓参」に無頓着なはずがない。 なにかと気になっていたことと思う。 だが、日ごろの「自分の不健康」を理由に黙っていたに違いない。
 母を亡くしてより七年間、「三回忌の法事」のとき以外、妻は墓参のための墓参をしていなかった。
 何かの折に郷里に帰り、ついでに墓に参ったことはあったかも知れないがそれはあくまでも「ついで参り」だった。  
 「損な立場の主婦」、「損な性である女」の「妻」のために、この「三月の彼岸前の墓参り」はぜひとも成し遂げなければと思っている。

 ”春”の到来とともにせっかく”お二人さん”が計画していることである、身体が弱い妻が快く「墓参」を済ませられるように、彼岸前の二三日は好天であってほしいと願っている。
 「お水取り」も終り、季節は間違いなく”温かさ”に向かっているはずである。 三寒四音の季節、せっかくの墓参の日が”三寒に当たることのないように日々願っている昨日今日である。