”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

共謀罪という罪 ・・・ 冤罪のもと

2017-05-19 23:02:58 | 生活

 テロを予防するために必要だという名目で、政府は共謀を処罰するための法律を制定しようとしている。 野党が警鐘を鳴らしている”共謀法”とかいうやつである。 政府は「特定の犯罪集団が犯罪を実行しようとしていることが判明したらその集団なり組織なりを事前に拘束して処罰する」というようなことを言って、一般の人には関係がない法律だとしている。 しかし、これは「権力に反対する声や動きを未だ小さなうちに消してしまおう」ということに繋がるものだと思う。 今の政府にはそういった思いや考えはないのかもしれないが、政府は年月とともに変化する。 つまり、国家の権力の保持者は不変ではない。 どんな政府が出来、どんな権力が表れるか判らない。 そうなった時、法律は時の権力に都合がいいように解釈され、利用される。 そんな危険な”恐ろしさ”を内在させた法律だと思う。

 日本には過去の歴史において、治安維持法という法律がありこれが思想や言論の統制に利用された。 思想や言論を統制して治安を維持するということは表面的にはなんら悪いことではなく、むしろ結構なことに聞こえる。 しかし、問題はだれがこの法律の遵守にたずさわるかである。 どんな権力がこの法律にかかわるかである。 法を守るのは”司法”政府の役目であり、司法は警察、検察、そして裁判所である。 これらの国家権力はどの組織も「法律を解釈」し、その「解釈と現実を対比」し、その結果現実が違っていれば「拘束して矯正」しようとする。 こうした動きは社会と法律があるところ自動発生的に始まり進行していく。 現在の日本の社会と刑法のありようを見ればよくわかる。 異常事態すなわち事件が起きれば警察はそこに刑法に違反する要件はないかと探し回る。 捜査が始まる。 日本に刑法があるかぎり、その法を遵守するために告発がなくとも警察は捜査をしなければならない。 そして最終的に犯人が逮捕され刑事訴訟法に従って裁判され刑が決まる。 時に、その過程に齟齬が生じても警察は把握している状況を法に符合させるためにその齟齬を無いものにしようとする。 つかんでいる状況を法律に合わせようとするのが刑法の下での警察の仕事だからである。 そこに冤罪が生まれる。 現在の日本にも冤罪は少なくないが総じて法治国家の姿は保たれている。 それは日本の憲法、刑法、刑事訴訟法などの法律と司法のありようが”それなりに良く”保たれてきたからである。

 共謀法が成立してしまったらどうなるか。 政府やその権力のありようが国民の思っているようなものと違ってきたとき、社会のありようはどうなるだろうか。  何事につけ”反対”することがむつかしくなると思う。 例えば、最近新聞で見た保育園建設反対問題など、公共の福祉に反する犯罪行為として反対運動は初期の段階で摘発され、関係者は共謀したということで逮捕されるだろう。 これは、犯罪ではなくわれわれは”一般人”であると言ってもそれを判断するのは警察で、そこに思想的なものを認め犯罪に繋がると警察が判断した場合には、彼らの捜査対象となってしまう。 拘留や逮捕の口実は”共謀罪”が法的に認められればいくらでもでっちあげられる。警察はその罪に該当する事案の摘発に懸命にならざるを得ない。 なにも、政治や経済、軍事などに係ることでなくても、政府がかかわった事柄でなくても、話し合いをしたり資料を見たりなどしていれば警察が独自の判断で独自に動き出してしまう。 だから怖いのである。

 太平洋戦争の前から戦中にかけて治安維持法のもとで多くの思想家や文化人さらには一般人まで検挙され拷問されそして死んでいったという。 このような不幸や間違いを繰り返さないためにも治安維持法に酷似したものになりうる”共謀の処罰法”は成立させてはならない。 そういった不幸が現実となるのは20年先、50年先かもしれない。 いずれにしても我々の世代の話ではなかろう。 それは子や孫の時代以降だろうが、彼らが不幸になる責任は我々の世代にあると思うのである。

 今日、委員会を通ってしまった。 また強行採決である。 ニッポンには”民主主義”は国民性として似合わないのかもしれない。 日本人は歴史に学ぶということは苦手なのだろう。 かなしいことに、、、。