”年寄り”と呼ばれ始めると ”その日暮らし” という言葉が実感として身に迫ってくる。 ここでいう”その日暮らし”は、むかしからよく言われてきた経済的な意味での「その日暮らし」ではなく、精神的な意味での「その日暮らし」である。
明日とか将来とかを見とおして計画的に身を処するのではなくて、日々、毎日毎日を”出たとこ勝負”で暮らすということである。
以前は、特に若い頃は一年の計を立て、月々の計画を練り、来週は明日はなどと予定を立てて暮らしたりした。
計画や予定を立てなければ、仕事を持っている”現役の時代”には暮らしは成り立たない。 特にチョットでも”非日常”のことをしようとすれば、まず”仕事の休み”から計画しなければならない。 それが「現役で仕事をしている」ということだったと思う。
そして、その頃は予定や計画を立てるということは、その多くが生活をする上での”デメリット”として受け止められていたように思う。 生活上の”制約”であり”枷”であると思うことが多かった。
しかし、”何か”を実行するための予定や計画は、その立案作製がいつも「嫌なこと」だったとは限らない。 旅行の計画など、その計画段階から旅行の楽しみに浸れるというようなものもあった。
だから、若い頃には”予定や計画”をするということは「しなければならないこと」であると同時に「することが出来ること」でもあった。
現役を過ぎ、職を退いてからも、しばらくは旅行の立案や計画をして楽しんでいた。 時には実行まで進むことも出来た。 ”することが出来る”計画性はつい最近まで持っていた。
ところがである、「老い」を意識するようになってからは、不思議なことに予定や計画ということがただただ負担に感じるようになってきた。 思ったり計画したりして「楽しむ」というよりも、そのことが「面倒くさく」なってきた。
そして、不思議なことに、予定も計画もなしの「思いつきばったり」の”その日暮らし”でも特別どうということも感じなくなった。 そして、そんな生活が普通に出来るようになってきた。
最近でも、新年には初詣に行ったりはする。 しかし、今年はあれをしようとかこれをやってみようとかは思わなくなった。 思わなくても暮らせるし、思ってみてもそのようにはならないことが多くなってきた。
それは「能力」が落ちてきたせいだと思う。 生活に計画性を持たせるのが面倒になったからとも言えるし、計画がたてられなくなったからとも言える。 そして計画的に生活しないことをなんとも思わなくなったからとも言える。 しかし、何であるにせよ、それを寂しがったり哀しがったりしなくてもよいように、「その日暮らし」が受け入れられるように、「心の在り様」が変わってきてくれている。
それが、「悟りの境地」であり、「達観した境地」であり、「老成した境地」なのだと勝手に思っている。 行き当たりばったりの「その日暮らし」、まんざら悪いものではない。
この命何処より来たり、死してまた何処にか行く
独り座す蓬窓の下、ごつごつ静かに深思す
深思すれども始めを知らず、焉んぞよくその終わりを知らん
現在またまた然り、ここに是と非とあらんや
些思を入るるを知らず、縁によって暫く従容 良寛
うろ覚えの詩だから、間違いや誤字当て字もあると思う。 しかし、良寛さんのこんな詩を思い出したりしながら、なんとなく毎日を過ごしている。
毎日を「仕事」や「勤め」に努力しておられる”現役の諸君”には申し訳ないが、これが「年寄る」ということなのだと了解していただきたい。
いつの時代、どんな時代になってもこういった”根っこ”に変わりは生じないと思う。 良寛の詩は今も生きている。