”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

”その日暮らし”

2009-08-26 16:23:07 | Weblog

 ”年寄り”と呼ばれ始めると ”その日暮らし” という言葉が実感として身に迫ってくる。 ここでいう”その日暮らし”は、むかしからよく言われてきた経済的な意味での「その日暮らし」ではなく、精神的な意味での「その日暮らし」である。
 明日とか将来とかを見とおして計画的に身を処するのではなくて、日々、毎日毎日を”出たとこ勝負”で暮らすということである。

 以前は、特に若い頃は一年の計を立て、月々の計画を練り、来週は明日はなどと予定を立てて暮らしたりした。
 計画や予定を立てなければ、仕事を持っている”現役の時代”には暮らしは成り立たない。 特にチョットでも”非日常”のことをしようとすれば、まず”仕事の休み”から計画しなければならない。 それが「現役で仕事をしている」ということだったと思う。
 そして、その頃は予定や計画を立てるということは、
その多くが生活をする上での”デメリット”として受け止められていたように思う。 生活上の”制約”であり”枷”であると思うことが多かった。

 しかし、”何か”を実行するための予定や計画は、その立案作製がいつも「嫌なこと」だったとは限らない。 旅行の計画など、その計画段階から旅行の楽しみに浸れるというようなものもあった。
 だから、若い頃には”予定や計画”をするということは「しなければならないこと」であると同時に「することが出来ること」でもあった。

 現役を過ぎ、職を退いてからも、しばらくは旅行の立案や計画をして楽しんでいた。 時には実行まで進むことも出来た。 ”することが出来る”計画性はつい最近まで持っていた。

 ところがである、「老い」を意識するようになってからは、不思議なことに予定や計画ということがただただ負担に感じるようになってきた。 思ったり計画したりして「楽しむ」というよりも、そのことが「面倒くさく」なってきた。
 そして、不思議なことに、予定も計画もなしの「思いつきばったり」の”その日暮らし”でも特別どうということも感じなくなった。 そして、そんな生活が普通に出来るようになってきた。 

 最近でも、新年には初詣に行ったりはする。 しかし、今年はあれをしようとかこれをやってみようとかは思わなくなった。 思わなくても暮らせるし、思ってみてもそのようにはならないことが多くなってきた。 

 それは「能力」が落ちてきたせいだと思う。 生活に計画性を持たせるのが面倒になったからとも言えるし、計画がたてられなくなったからとも言える。 そして計画的に生活しないことをなんとも思わなくなったからとも言える。 しかし、何であるにせよ、それを寂しがったり哀しがったりしなくてもよいように、「その日暮らし」が受け入れられるように、「心の在り様」が変わってきてくれている。
 それが、「悟りの境地」であり、「達観した境地」であり、「老成した境地」なのだと勝手に思っている。 行き当たりばったりの「その日暮らし」、まんざら悪いものではない。

 この命何処より来たり、死してまた何処にか行く
 独り座す蓬窓の下、ごつごつ静かに深思す
 深思すれども始めを知らず、焉んぞよくその終わりを知らん
 現在またまた然り、ここに是と非とあらんや
 些思を入るるを知らず、縁によって暫く従容          良寛

 うろ覚えの詩だから、間違いや誤字当て字もあると思う。 しかし、良寛さんのこんな詩を思い出したりしながら、なんとなく毎日を過ごしている。 
 毎日を「仕事」や「勤め」に努力しておられる”現役の諸君”には申し訳ないが、これが「年寄る」ということなのだと了解していただきたい。
 いつの時代、どんな時代になってもこういった”根っこ”に変わりは生じないと思う。 良寛の詩は今も生きている。


ようやく ”人並み” に。

2009-08-24 10:33:57 | Weblog

 処暑を過ぎて随分と涼しくなりました。 パソコンのある部屋も今10時半ですが28度です。 8月の始め以来ずっと30度を越える温度でしたので、部屋でパソコンを打つ気にもなれませんでした。 
 エアコンはついているのですが、パソコンでの暇つぶしだけのために点けるのもなんだかもったいない気がして、自室のエアコンは点けずにL.D.K.だけのエアコンにしてもっぱら読書をして過ごしていました。
 お陰で、久しぶりに本が読めました。 たまにはパソコンを離れて読書にふけるのも悪くはありません。 「夏」のお陰でした。

 ”夏のお陰”などと言いましたが、本当はチョット違うようなのです。 というのは、夏は去年もその前もこれまで毎年ありました。 そしてこれまでも夏の暑い間はパソコンから離れていましたが、それでもときどきは開いてみたりしていました。 ところが今年の夏はまったくパソコンの方に”興趣”が湧かなかったのでした。パソコンがなんとも面倒くさく思えたのでした。
 ものごと一般、多くのことがらに対して”興味”が薄れているように思いました。 体調はどこといって悪くはなかったのですから「年を取った」からに違いないと思いました。

 「年を取る」ということは、「なくしていくこと」だと思います。 先ず、身体的にいろいろと失うものがありますが、それはもう3、4年前から感じていました。 そしてこの夏、改めて「心の衰え」というか「脳細胞の衰え」を感じました。 「感動する」ということが少なくなったのです。 
 夏の間に読書をしたといいましたが、書物から受けるインパクトも弱くなりました。 ”共感”はするのですがそれが"感動”まで進みません。 「心が萎えた」のだと思いました。
 そして次に、「考えること」が面倒になりました。 こうしてパソコンでブログを書いていても、書きながら思ったり考えたりしているのですが、そういうことが「面倒くさい」と思えてしまうのです。 
 赤塚不二夫とは違う次元で、それよりずっと低い次元で、「これでいいのだ」ということにしてしまうのです。

 しかし、”アンチエイジング” にしても ”ウィズエイジング” にしても、「年寄り」を”受け入れる”には未だ早すぎると思いますから、また、秋になって涼しくもなってきたことですから、またせっせとブログでも書いて「脳細胞の活性化」に努力しようと思います。

 世間のことに”感動”すること、そしてそれについて思ったり考えたりすることを面倒がらないこと。 「老い」に向かう私たちには、この二つのことが大事なのだと思っています。


民主党のマニフェストに一言。

2009-08-02 13:28:53 | Weblog

 総選挙が間近になり、各政党のマニフェストが出揃ったようである。
そこで、いよいよ政権交代が現実味を帯びてきている民主党のマニフェストについて一言、言っておきたい。

 いろいろと列挙されているなかに、「配偶者控除の廃止」というのがある。 この1項目が、どうも「気になる」のである。
 それは、その項目が、今後の「民主党政権下における女性のありよう」に大きくかつ深刻にかかわってくることだと思うからである。
 マニフェストにおいて「子育て」や「教育」に力を入れるのは結構なことである。 
 しかし、そのために「配偶者控除」を”なし”にするというのはどうかと思う。
 配偶者控除をなくするということは、換言すれば「専業主婦は損になる」ということである。 子育てや教育を重視しながら専業主婦を冷遇するというのは矛盾しているように思う。

 確かに、昨今の日本の「若い母親」のありかたを見れば「子育て」に専念している”専業主婦”は少なくなっている。 女性も働いており、家庭のほとんどが「共働き」である。
 ”乳児期を過ぎた子供”は保育園やおばあちゃんに預けて多くの母親は働きに出ている。 働きに出なければ家計がなりたたない。 「配偶者控除の廃止」はそういった実状に合わせようとしての「考え」だと思うが、長期的に見た場合「そういった見方」が良いことなのかどうか疑わしい。

 昨今、夫婦の多くが「共働き」になっているのは、共働きしなければ家計が成り立たないからである。 女性が、母親が、妻が、働くということは確かに”経済的な理由から”だけに限らない。 女性の自立、男性の軟弱化、社会の在り様などなどさまざまな理由があってのことなのだと思うが、女性、特に、若い母親のほとんどが”希求”してのことではないと思う。
 「男と女」、「女性の幸福」、「女性という性」などについては、又別に項を改めて考察しなければ、ここでそれについて記している余裕は無い。

 子育てや教育の基本は「家庭の在り様」だと思う。 健全な家庭があって健全な子育てが出来る。 家庭が健全であればこそ学校での教育もその真価を発揮できる。 基本は「家庭」である。
 そして、家庭の中心は「夫婦」である。 「父と母の在り様」である。
「教育」に拘わる夫婦のうちでは特に母親の在り様が重要である。

 子供は母親から産まれる。 母親から出てくるのである。 子供と母親は繋がっている。 「母と子」のあいだ、特に子供が”子供”であるうちの母と子のあいだには、動物的本能に基づくといってもよい「力強い関係」がある。  子供が大きくなるためには母親は不可欠の存在である。 
 そう考える場合、家庭に於ける「母親の存在」は子育ての上で「なくてはならないもの」のはずである。 

 それならば、なぜ専業主婦であることを否定するように「配偶者控除」を廃止しようとするのか。 「子育て」や「教育」的な観点からみても、どうしても合点がゆかないのである。

 配偶者控除を無くするということは、家庭内の母親に「父親の配偶者であること」を”止めよ”というようなものである。 「外に出て働くこと」を奨励するようなものである。 
 「健全な家庭の在り様」という観点から、配偶者控除はなくするべきでなく、将来的にはむしろ、「母親が父親の配偶者であること」が”容易な社会の実現”を目指すべきだと思うのである。