千の言霊

一生ぬぐえない想いからたくさんの本をよみました 
そして いろんな言葉たちに出会いました 

「死」はどこにあるのか

2009-06-28 14:32:13 | Weblog

生命科学の扱うものは、その通り生命なのだから、これは裏返し 死を扱うことだといっていいはずである。ところで、それなら 科学で死を扱うことはできるのだろうか。

数年前 脳死の問題をめぐって 社会的にも議論となったが あそこにそれが端的に現れている 死の判定基準 どの時点をもって死とするのか 脳機能の停止か
心肺の停止か はたまた瞳孔がうんぬんーー 

中略

考えてみたい 止まった心臓は止まった心臓であってそれが死であるわけがない
したいのどこをどう切り刻んでみても これが死だと取り出して見せられるものだど何もないのである これは なぜか

決まっている 死は無だからである 死はないものだから無いのである
科学というものは その定義により存在する物質を扱うものだから 無としての死を扱うことなどできないのである これは科学の盲点なので多くの人は気づかない
死体と死とを同じものだと思っているが 死体と死とは実はおなじものではないのである

これは科学の現場だけでなくて 我々の日常の光景における錯覚でもある 
人は他人の死体をみて それを死だと恐れるけれども 自分の死体なんて 
どうやってみることができると思いますか?

「死」とは何か さて死んだのは誰なのか より 池田晶子


池田晶子さんは2007年47歳でなくなりました
彼女の本とであったのは「14歳からの哲学」でとにかく 死とは 生きるとはを
考える 自分で考えることを教えてくれました
どんな定義があったところで それもすべて考えた人の定義であり
生きている人間が考えた死など 意味がないように思いました

晶子さん どうですか? 
実際 「晶子さん」としての肉体からぬけだした
晶子さんは死を感じてるのでしょうか
やっと 生きている人たちが「死」んだといっているのを見て
得意になってるのではないでしょうか

父の臨終に際し感じたのですが いったん心停止になりかけ それでも
再び動き出した心臓がゆっくり 時間をかけ心臓を止めていくさまをみて
意識を失ってからの様子はまるで陣痛のようにおもいました
ゆっくり 体内から生まれてくるように 
父はゆっくり その肉体からぬけだしていくように思いました

娘のときは狂ったように追い求め 追いすがり 絶対 死だと認めることなど
できませんでした 
でも 父のときは父のいわゆる死体をみて これはもう父ではない
そう思いました 
きっと 父は不自由な体から抜け出し 本来の父として今もそばにいるような
きがしています