明日へのヒント by シキシマ博士

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「佐賀のがばいばあちゃん」 定石に依存してない

2006年08月25日 23時43分39秒 | 明日のための映画
佐賀のがばいばあちゃん
上映館の少ないこの作品ですが、私のところから割りに近い劇場でやっていました。しかも、いったん上映期間終了したのに〝好評につきアンコール上映〟。
当初はあまり興味なかったんですが、「えっ、アンコール上映するほど良いの?」ということで、観てきました。
さて、鑑賞後の感想は…

〈ストーリー〉
中年サラリーマン明広(三宅裕二)は、出張のため乗った新幹線の中で、一人旅の心細さに泣いている少年に目をとめる。
その姿がかつての自分と重なった瞬間、明広の子供時代を回想する物語が始まる。
広島。
小3の明広は、母親(工藤夕貴)と兄との3人で、貧しい暮らしををしていた。
父は原爆症ですでにこの世にいない。
そこへある日、叔母(浅田美代子)が現れる。
しばらく滞在した叔母を送るだけのつもりで来た駅のホームで、発車間際、弘明は母に電車の中に押し込められる。
母は明広を佐賀の実家に預ける決心をしていたのだ。
車中で初めて叔母から事情を聞き、泣き出す明広。
やがて電車は佐賀に到着。
そこには、バイタリティー溢れるばあちゃん(吉行和子)と、広島よりも貧しい暮らしが待っていた…

読んでないのですが、島田洋七さん原作ということで、もっと勢いのある作品かと思ったのですが、ごく普通のお話でした。
‘がばい’とは‘凄い’という意味らしいですが、吉行さん演じるおばあちゃんは、それほど‘がばい’ということは無かったです。とても良いおばあちゃんでした。
そういう意味で、観る前から勝手に私が思い描いてしまったものより、だいぶ当たり障りの無い、拍子抜けするほど普通の作品でした。でもこれは私の先入観の所為なので仕方ありません。
それより気になったのは…、
現在の明広を演じた三宅裕二さんの存在が、最初から最後まで中途半端な感じ。
いっそ、現在を描かなくても良かったのではないかと思ってしまいます。
それと…、
小3・小5・中3の時の物語という都合上、明広役は3人の子役(鈴木祐真、池田晃信、池田壮麿)が演じています。
個々には光っているのですが、これが統一性が無く、どうしても同一人物に見えません。

と、私の主観ですが、不満な部分を羅列してみました。
では、肝心の物語はどうでしょう。
これも、特別にドラマチックな展開はありません。
普通ならここはもっとテンポ良くするんじゃないかとか、ここはあっさりし過ぎじゃないかとか、最初のうちはそんなことばかり思いながら観ていました。
近所の人との関わりとか、何か事件が起きた時のばあちゃん独特の対処の仕方を描くことで、ばあちゃんがどういう風に‘がばい’のか、観る者に伝わったはず。
それをしないうちに、実は良いおばあちゃんですという部分を明かしてしまった気がします。

ところが、途中ではたと気づきました。
私の案は、よくある作品の焼き直しにしかならない。この映画はそういう定石に頼っていないんだと…。
たとえば、安易に悪人を登場させて善人を際立たせるような手法を使わないこと。そこに好感が持てます。
そう思い直して観始めると、この、あまり今風でない描き方が、かえって作品の世界にマッチしているように思えてきました。
カッコいいけどありきたりな演出テクニックに頼らない独自の姿勢は、そのまま、おばあちゃん独自の哲学にも重なるようで、とても好感が持てて来ました。
この見せ方だからこそ、おばあちゃんの言葉が、力強く伝わる気がします。
「世の中、拾う物はあっても、捨てる物はない」
「悲しい話は夜するな。どんなつらい話も、昼したら大したことない」
「きのうきょう貧乏になったんじゃない。ずっと貧乏なんだから自信持って良い」
「気づかれないようにするのが本当の親切」
などなど。

そして、弘明との、このやり取りはやっぱり‘がばい’です!
「英語なんてわからん」
「それじゃあ答案用紙には、私は日本人ですって書いとけ」
「漢字も苦手」
「私はひらがなとカタカナで生きていきますって書いとけ」
「歴史も苦手で」
「過去にはこだわりませんって書いとけ」

世の中全体が神経質になり過ぎている昨今。
この不屈の精神、物事の捉え方は大いに見習いたいものですね。
そこのところがしっかり伝わって来たので、ちょっと不満な部分もあるけれど、好意的に受け止めることのできた作品です。

佐賀のがばいばあちゃん

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