ある日本のビジネスマンが エルパソに出張中 娘が事故を起こした高速道路の同じあたりで交通事故に合いました。
私が呼ばれたわけは 退院にあたりご家族と患者さんに現在の病状、そして今後の問題について話し合う懇談会の通訳でした。
何の事情も知らないで退院と聞いておめでたい話だと普段しないお化粧までしていった私。ルンルンと病院の会議室に入ろうとしたとたん、
「おひめさま!」
そうやって私のことを呼ぶのはドクターBに違いありません。
彼はクウォータージャパニーズ。
おじいさんが日本人だそうでいつも私のことをお姫さまと呼んで知っている限りの片言の日本語で会話してきます。
振り返るとやっぱりそうです。
しかし今日はなんか変です。
いつもニコニコ顔の外傷部門の当時の外科部長であったドクターBがなんか神妙な顔をして立っているからです。
「ほんとうに来てくれてありがとう。
実はね、この患者、事故で頚椎を骨折して四肢が麻痺している。
一生車椅子生活なんだが 家族からはその話には触れないで欲しいと硬く言われているんだ。
日本に帰ってから落ち着いたら時期を見て家族から話したいということでねぇ。」
ええ~?!
そ、そうだったんですかぁ。

私のルンルンとした気分は暗黒の世界へ・・・ほんとうに悲しくなりました。
しかし私もプロの端くれです。
そこは言われたように振舞うのみです。
外科医の説明をそのまま尾ひれをつけないように分かりやすい日本語にして通訳してあげました。
彼は、その後特別に用意された医療用の飛行機で日本まで帰ったそうです。
いつも外傷の重症患者を目のあたりにして患者としてしか接することがなく感情を抑えることのできていた私でしたが、同じ日本人としてこういうたび重なる不幸にはさすがの私も・・・
私は二度にわたる二家族の不幸を目の前にして エルパソ中の日本人を代表して大粒の涙を流しました。
うちに帰ってから部屋の片隅で心の底から大声で泣きました。
後に病院の外傷部門から表彰されたのですが 複雑な気持ちで表彰状を受け取りました。
エルパソの日本人にとってはほんとうにほんとうに辛い年でした。
私が呼ばれたわけは 退院にあたりご家族と患者さんに現在の病状、そして今後の問題について話し合う懇談会の通訳でした。
何の事情も知らないで退院と聞いておめでたい話だと普段しないお化粧までしていった私。ルンルンと病院の会議室に入ろうとしたとたん、
「おひめさま!」
そうやって私のことを呼ぶのはドクターBに違いありません。
彼はクウォータージャパニーズ。
おじいさんが日本人だそうでいつも私のことをお姫さまと呼んで知っている限りの片言の日本語で会話してきます。
振り返るとやっぱりそうです。
しかし今日はなんか変です。
いつもニコニコ顔の外傷部門の当時の外科部長であったドクターBがなんか神妙な顔をして立っているからです。
「ほんとうに来てくれてありがとう。
実はね、この患者、事故で頚椎を骨折して四肢が麻痺している。
一生車椅子生活なんだが 家族からはその話には触れないで欲しいと硬く言われているんだ。
日本に帰ってから落ち着いたら時期を見て家族から話したいということでねぇ。」
ええ~?!
そ、そうだったんですかぁ。

私のルンルンとした気分は暗黒の世界へ・・・ほんとうに悲しくなりました。
しかし私もプロの端くれです。
そこは言われたように振舞うのみです。
外科医の説明をそのまま尾ひれをつけないように分かりやすい日本語にして通訳してあげました。
彼は、その後特別に用意された医療用の飛行機で日本まで帰ったそうです。
いつも外傷の重症患者を目のあたりにして患者としてしか接することがなく感情を抑えることのできていた私でしたが、同じ日本人としてこういうたび重なる不幸にはさすがの私も・・・
私は二度にわたる二家族の不幸を目の前にして エルパソ中の日本人を代表して大粒の涙を流しました。
うちに帰ってから部屋の片隅で心の底から大声で泣きました。
後に病院の外傷部門から表彰されたのですが 複雑な気持ちで表彰状を受け取りました。
エルパソの日本人にとってはほんとうにほんとうに辛い年でした。
人知れぬ苦労があったのだという、でも途中で日本へ逃げ帰ることなく、異国の地で人生を全うしようとしている。
私にもいつかこの様な日が訪れるのかと思うと、熱く込み上げてくるものがありました。
私も2度目の管制官の国際会議(1979年)に出席した時に、コペンハーゲンから年次総会開催地のブリュッセルへの夜行列車で盗難にあいました。ケルンでパスポートや現金、カード、ユーレールパスなどを入れた小さなバッグがなくなっていました。航空券は大きなバッグへ。ベルギーへは蜜入国と無賃乗車・・・。国境警察官と国境で下車。事情を話し、実行委員会からの手紙を見せると態度が変わりました。実はレターヘッドにsuponsered by the King・・・。女王の父親がパイロット。その後、ロッキード事件に巻き込まれていたようですが。なども確認しながら証明書を書いてくれました。他にも色々と助けられました。
日本加盟前なので代表は私一人。会議中に風邪をひき寝込むことになりましたが、その前に仲良しができて面倒を見てもらいました。他にも盗難事件ですっかり有名になり(幸いでしたが、これが今だに出席している要因です)ました。<周りに仲間がいる。一人ではない>とは、最初に参加した時に言われ、それが現実のものになりました。そのうちもっと詳しく書きますね。
さて、今回のNZ・クライス地チャーチの地震は2003年に地域会議で行って以来、好きな国や町となっていて、大聖堂もクリスチャンではないのにミサが素晴らしく2日も通ったり、崩れた鐘楼の塔に上ったりしたので、ニュースで見た時はショックでした。それに、管制官の同僚も・・・。学校であわててメールを書いていると、周りの教官が怪訝な顔をしていました。友人がいるので・・・としか言えません。一人は日本にも来たことのある女性管制官で、もう一人は退職した中国系の管制官が管制の学校で教官をしています。メールへの返事が無く心配していると、facebookに情報が入ったという知らせがありました。彼女からの家族に被害はないという情報でした。次いで、もう一人は双子の娘の結婚(12月と1月!!!)で香港にいることが分かり一安心です。彼からは、私がfacebookに載せた写真に写っているビルが倒壊したと教えられ、ニュースで見ると確かにそうで、助け出された女性が200人以上が中にいる・・・。実施はもっとすごいようです。
ところがNZ・オークランドにいる元IFATCA元副会長から、クライストチャーチ空港の女性管制官が買い物中に倒壊に巻き込まれ亡くなったという悲しい知らせもありました。空港はオープンし、集約したシステムも動いてはいるけれども、管制官自信のショックが大きく、影響が出ているようです。
このようにいつもアンテナを張っています。
また、台湾にはメールを出していますが、しばらく待ってください。
長くなりました。
エルパソにもたくさんおられますからカリフォルニアにはきっともっとたくさんおられることでしょうね。
どういう最期を送るか、ということを考えさせられますねぇ。
日本人として・・・
もうずいぶん前のことなのに未だにクリアーに覚えています。
最初のご主人をなくされた奥様は日本で静かに暮らしておられますが、二人目の方はいったいどうしておられるか。
日本企業の方なので調べればすぐわかるとは思います。
ほんと、辛かったですよ。
TDさんもいろいろ助けられたご経験があるようですね。
海外での事故はほんとうに不安ですものね。
ところで地震のお話、ありがとうございました。こういうことが日本で起きませんように祈りたいです。
https://benjaminfulford.net/