怒涛の26話の中のキーワードは「趙光祖(ジョ・ゴァンジョ)」と言う人物。
ドラマの中で「数ヶ月前の『士禍』の波乱・・・」と言う台詞をクミョン、オ・ギョモ、内禁衛長などがそれぞれ口にしている。
これは史実に残る1519年(中宗14年)の『己卯士禍(キミョカファ)』を指している。
さぁて、どんな事件が起きたのだろうか?
李王朝、第7代世祖(セジュ)の時に功労があった臣下の子孫たちは「勲旧(フング)派」と呼ばれた。
彼らは経済的にも恵まれた両班(ヤンバン)階級の官僚であった。
一方、「成均館(ソンギュンクァン)1393年創設された李朝の学問の殿堂、国立大学」などで朱子(ジュシャ)学を修学し、科挙などの登竜門を経た官僚を中心とした「士林(サリム)派」が徐々に新進勢力として台頭してくる。
宮中ではこの二大勢力の権力争いが続いていた。
悪名高き燕山君の時代、1498年燕山君の側近として勢力を握りだした任士洪(イム・サホン)は先の成宗(ソンジョン)の代、自分を弾劾し中央政界から引きずり下ろした「士林派」勢力を「戌午士禍」で一掃する。
多くの「士林派」官僚が処刑、追放され、燕山君の暴政に拍車がかかっていく。
その後1504年、チャングム父ソ・ジョンスにも禍が及ぶ事になる「甲子士禍」が起きる。
燕山君は伏せられていた自分の生母ユン氏の死について、任士洪から詳細を聞き怒り狂う。
政権掌握と言う任士洪の思惑通り、燕山君は関わった者全て、更にその家族にまでをも処刑し始めたのだ。
この殺戮の嵐で反体勢力の粛清が終わっても、王を諌める者を処刑するなど恐怖政治が続いた。
あまりの暴政を憂い、1506年「中宗反正」燕山君を失脚させるクーデターが決行される・・・ドラマではオ・ギョモもこの企てに参加する臣下の一人として登場している。
担ぎ出されて国王になった中宗は即位当初、当然の事ながら朝廷での指導権を得るに至らず、即位に貢献した「勲旧派」と戚臣(外戚)が実質的な権力を握っていた。
中宗は1510年以降、燕山君の悪政を改革し維新政治を目指す中、父成宗を見習い、朝廷内勢力のバランスを取るため、名望の高い新生「士林(サリム)派」の登用を進めた。
その代表的人物が「趙光祖(ジョ・ゴァンジョ)」だった。
趙光祖は王道政治の実現を目指して、改革を進めていった。
しかし、理想主義に偏った政策施行の急進的な強行は、現実を無視した内容も多く、また勲旧派の両班達を激しく排斥した事もあり、勲旧派と対立、反目していく。
ついに政治の混乱を恐れた中宗は、新進勢力の士林派の追放を決意した。
この決意のエピソードが面白い。
≪勲旧派の洪景舟の後宮入りしている娘、朴敬嬪が王と散歩中、一枚の虫食い葉を見つける。
その葉っぱには「走」「肖」「為」「王」の4文字が・・・
「趙氏が王となる」の意に、宮中で囁かれていた「趙氏が王になろうとしている」との噂と併せ、中宗が趙光祖一派を捕らえる決意をした。≫
この虫が喰って現われた文字、いかにも天のお告げのような感じだが、実は葉に蜜で文字を書き、虫に食べさせたのが真相だとか・・・
そして散歩中さりげなく、この葉っぱを見つけた朴敬嬪もこの作戦の有力な協力者なわけだ。
あ~ぁ、ほんとに宮はおそろしい・・・
この「己卯士禍」により、趙光祖は島流しの後処刑される。
成均館の儒生たちが趙光祖らの無実を訴えたと史実には残っている。
中宗はドラマ後半、医女チャングムに自分の王としての立場の不甲斐なさを吐露する場面がある。
この辺の宮中勢力争いを知ると、中宗の心中察するものがある。
この士禍以降、士林派は政治舞台から離れるようになって行く。
やはりドラマ内でミン。・ジョンホが野に下った有能な人物を登用すべく、何度も足を運ぶシーンがあったけ・・・
韓国の歴史上の人物としては「趙光祖」ssi有名な人だそうです。
オ・ギョモはドラマ・キャラ。
史実では趙光祖は流刑後まもなく自決(賜薬とも)しているが、ドラマでは島流しにしたがずっと気がかりでオ・ギョモの頭痛のタネとなっている存在として、名前だけが登場している。
ドラマの中で「数ヶ月前の『士禍』の波乱・・・」と言う台詞をクミョン、オ・ギョモ、内禁衛長などがそれぞれ口にしている。
これは史実に残る1519年(中宗14年)の『己卯士禍(キミョカファ)』を指している。
さぁて、どんな事件が起きたのだろうか?
李王朝、第7代世祖(セジュ)の時に功労があった臣下の子孫たちは「勲旧(フング)派」と呼ばれた。
彼らは経済的にも恵まれた両班(ヤンバン)階級の官僚であった。
一方、「成均館(ソンギュンクァン)1393年創設された李朝の学問の殿堂、国立大学」などで朱子(ジュシャ)学を修学し、科挙などの登竜門を経た官僚を中心とした「士林(サリム)派」が徐々に新進勢力として台頭してくる。
宮中ではこの二大勢力の権力争いが続いていた。
悪名高き燕山君の時代、1498年燕山君の側近として勢力を握りだした任士洪(イム・サホン)は先の成宗(ソンジョン)の代、自分を弾劾し中央政界から引きずり下ろした「士林派」勢力を「戌午士禍」で一掃する。
多くの「士林派」官僚が処刑、追放され、燕山君の暴政に拍車がかかっていく。
その後1504年、チャングム父ソ・ジョンスにも禍が及ぶ事になる「甲子士禍」が起きる。
燕山君は伏せられていた自分の生母ユン氏の死について、任士洪から詳細を聞き怒り狂う。
政権掌握と言う任士洪の思惑通り、燕山君は関わった者全て、更にその家族にまでをも処刑し始めたのだ。
この殺戮の嵐で反体勢力の粛清が終わっても、王を諌める者を処刑するなど恐怖政治が続いた。
あまりの暴政を憂い、1506年「中宗反正」燕山君を失脚させるクーデターが決行される・・・ドラマではオ・ギョモもこの企てに参加する臣下の一人として登場している。
担ぎ出されて国王になった中宗は即位当初、当然の事ながら朝廷での指導権を得るに至らず、即位に貢献した「勲旧派」と戚臣(外戚)が実質的な権力を握っていた。
中宗は1510年以降、燕山君の悪政を改革し維新政治を目指す中、父成宗を見習い、朝廷内勢力のバランスを取るため、名望の高い新生「士林(サリム)派」の登用を進めた。
その代表的人物が「趙光祖(ジョ・ゴァンジョ)」だった。
趙光祖は王道政治の実現を目指して、改革を進めていった。
しかし、理想主義に偏った政策施行の急進的な強行は、現実を無視した内容も多く、また勲旧派の両班達を激しく排斥した事もあり、勲旧派と対立、反目していく。
ついに政治の混乱を恐れた中宗は、新進勢力の士林派の追放を決意した。
この決意のエピソードが面白い。
≪勲旧派の洪景舟の後宮入りしている娘、朴敬嬪が王と散歩中、一枚の虫食い葉を見つける。
その葉っぱには「走」「肖」「為」「王」の4文字が・・・
「趙氏が王となる」の意に、宮中で囁かれていた「趙氏が王になろうとしている」との噂と併せ、中宗が趙光祖一派を捕らえる決意をした。≫
この虫が喰って現われた文字、いかにも天のお告げのような感じだが、実は葉に蜜で文字を書き、虫に食べさせたのが真相だとか・・・
そして散歩中さりげなく、この葉っぱを見つけた朴敬嬪もこの作戦の有力な協力者なわけだ。
あ~ぁ、ほんとに宮はおそろしい・・・
この「己卯士禍」により、趙光祖は島流しの後処刑される。
成均館の儒生たちが趙光祖らの無実を訴えたと史実には残っている。
中宗はドラマ後半、医女チャングムに自分の王としての立場の不甲斐なさを吐露する場面がある。
この辺の宮中勢力争いを知ると、中宗の心中察するものがある。
この士禍以降、士林派は政治舞台から離れるようになって行く。
やはりドラマ内でミン。・ジョンホが野に下った有能な人物を登用すべく、何度も足を運ぶシーンがあったけ・・・
韓国の歴史上の人物としては「趙光祖」ssi有名な人だそうです。
オ・ギョモはドラマ・キャラ。
史実では趙光祖は流刑後まもなく自決(賜薬とも)しているが、ドラマでは島流しにしたがずっと気がかりでオ・ギョモの頭痛のタネとなっている存在として、名前だけが登場している。
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