神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

恐れからの解放。

2016年01月04日 | キリスト教
【キリストの変容】ラファエロ・サンツィオ


 えーっと、実はまだマーリンさんのこの本を読んでる途中だったりするんですけど(汗)、あんまり感銘を受けたので、記事にしてみたいと思いました

 ところで、人間の生きる目的、人生の目標ってなんでしょうか?

 いえ、このことについて、『恐れからの解放』の中に恐るべきことが書かれていたので、まずはその箇所を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m


 >>神さまはなぜ私を助けてくれないのか

 あるとき、いろいろな色のボールが散らかっている、ビリヤードの幻が見えました。しかし、その中でひとつの玉だけ他のものとちがっているのです。その玉にはいたるところにMという文字が書かれてありました。ゲームが終わるためには、その玉がテーブルの上の白いスポットに止まらなければなりません。

 キューがMの文字のついた玉を突くと、それは色のついた玉にぶつかります。そして、色つきの玉はテーブルの上をあちらこちらへと勢いよく走り転がっていきます。Mの文字の玉も他の玉がぶつかってきて、あちらこちらへと跳ね返ります。白いスポットの近くで止まるのですが、スポットの上には決して止まりません。私は、「なぜこのゲームは際限なく続くのだろう。Mの文字の玉はあの小さな白のスポットの上には決して止まらないだろう。いったい何の目的でこんなことが続くのだろうか」と思いました。

 すべてが無意味に思われます。私は玉を手で取り上げて、白いスポットの上に置きたいと思いました。そうしようと手を動かすと、そのシーン全体が消えてしまったのです。

 いま見た幻に思いをめぐらすうちに、私はわかってきました。Mの文字のついた玉は、マーリンです。そのゲームの中と同様、神さまはマーリンがいるべき明確な場所をお持ちなのです。神さまは、多くの力強い出来事を通して私の人生に影響を与えられました。私には神の手が見えませんでしたが、神さまは多くの経験を通して、私をある状況から他の状況へと動かされたのです。神さまはある人の生涯に触れます、そしてその人はまただれか他の人に触れ、今度はその人が私の生涯に触れてくるのです。この幻によって私は、神さまがすべてにおいて関わっていてくださったのだということがわかりました。

(『恐れからの解放』マーリン・キャロザースさん著/雲の間にある虹出版刊より)


 わたしも昔、少しビリヤードをやったことがあるのですが(ただの遊びで全然へタッピ☆なものの^^;)、確かそれはナインボールというルールだった気がするので、マーリンさんのビリヤードのルールとは違ったかもしれません(1から順に玉を落としていって、最後に9のボールをポケットに落とした人が勝ちというルール。確か)。

 それはさておき、きっと多くの方がそう理解することと思うのですが、このビリヤードはこの調子でいくとおそらく永遠に終わらないのではないでしょうか。わたしたちがそうと望んで、<神さまがここにいて欲しい>という位置に心を決めるまでは、自分の玉(わたしもイニシャルがMなので、ここはMの玉ということにしておきましょう^^;)、の回りを物凄い速さで問題が通りすぎていくのです。そして、そんな人生上の問題にぶつかられては大変と思い、首を竦めてみたり、ちょっと位置をずらしてみたりしては、戦々恐々として無駄に時間が過ぎていく……こうした人生を今現在送られている方もいるでしょうし、程度としてはそこまでひどくなかったとしても、いつ他のボールが自分と正面衝突するかと心の奥底ではいつも恐れを抱いている――という方は多いのではないでしょうか。

 わたしもそうでしたし、事実、今現在もまったく変わらずそうなのではないかという気がします。つまり、ノンクリスチャンからクリスチャンになった時、「これでわたしは真実の神さまを受け容れたし、これからきっと色々な人生上の出来事がうまくいくだろう」……みたいにわたしは思っていたような気がします。けれども、実はイエスさまのことを主として受け容れるということは、信仰の最初の第一歩であって、そこからまたさらに<神さまの望んでおられる場所に身を置く>、<神さまの選ばれた道を選ぶ>といったことが必要になってくるんですよね。

 実をいうと、クリスチャンと呼ばれる人々のすべてがこの道を歩んでいるというわけではなく、わたしも<神さまの道>ではなく、ノンクリスチャンだった頃とまったく同じように<自分の道>、<自分なりの道>というものを繰り返し選んだことによって、随分苦しい思いをしました。もちろんこの間も、自分の出来る範囲内において祈ったり感謝したり、礼拝を守ったり、献金したりはしているのです。けれど、神さまが<ここに来なさい>という<ここ>というポイントについては何度も落としましたし、「そんなことは自分には無理です」とか「許してください、神さま」と思いながら<自分なりの信仰生活>という道を歩んでいたのでした(そしてそれは今もあまり変わっていないと思います^^;)。

 なんにしても神さまは本当に恵み深い方なので、わたしが第一とすべき<神さまの道>を選ばず、第二の<人間的に考えて、便宜上選ばざるをえない道>ですとか、第三の<自分なりの勝手気ままな道>を繰り返し選んでも、そのたびに許してくださいましたし、ただわたしのほうではそのために罪の刈り取りという苦しい刈り取りを何度もしてきたのでした。

 そして今回、マーリンさんのこの本をお読みして、つくづく「まったくそのとおりだなあ☆」と思ったというか。神さまが<ここ>とおっしゃる場所にわたしが何があっても必ず行こうと思う決心をしない限りは、この虚しい無意味な人生ゲームは終わらないのだと思います。わたしの今までの人生も、「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」、「ああならないために先に手を打ってこうしておこう」、「こうならないために塁を築き堅固な城砦を造って自分自身を守ろう」……そんな恐れで満たされつつ、自分の<M>のまわりに物凄い速さで問題がぶつからないようにぶつからないように、常に緊張し細心の注意を払い、体と心を縮めて生きてきたのでした。

 でも実際には、こうした心配をするというのは無駄なことだと自分でもわかってはいるのです。にも関わらず、常に人生上に起きる事柄に怯えている、そんな状態が長く続いているために、常に怯え不安でいることが習慣になっているのですね。こうなるともう、「怯えていない自分に怯えるのです」とか「不安でいないと不安なのです」といったような、病的な様相すら帯びてきます(笑)←いえ、笑いごとではないですから(^^;)

 では逆に、人が神さまがここへ来なさいと言われた<ここ>という場所を選んだとすれば、どうなるのでしょうか。

 キューを握っているのは当然神さまです。神さまは<M>(この場合はマーリンさん♪^^)という玉を使って、おそらくは他の玉(人生上の問題)をすべて片付けていかれるでしょう。ちょっとわたし、ビリヤードはナインボールしかルールわかりませんので(汗)、そのルールで説明させていただくとすると、まずMは1という玉にぶつかります。そして1の玉が何番かの玉にぶつかって――ポケットにひとつ(ビリヤードが上手な人なら、同時にふたつとか三つ)、ポケットに玉が落ちていくでしょう。

 そしてイエスさまはキューの上に滑り止めとしてチョークを塗り、玉筋を読んで、またしてもドカドカドカッとわたしたちの人生上の問題を解決していかれます。そして最後には、9の玉もポケットのどこかに落ちてゲームは終了となるでしょう。この時、ビリヤードの台上には<M>の玉だけがひとつ残っているのです。イエスさまはきっと言われるでしょう。「マーリン、もう一ゲームどうかね?」と。

 一度この勝利の法則がわかり、適用できるようになったとすれば――もう何度でもやりたくなるのではないでしょうか。何故といってイエスさまがキューを握っている以上、負けることなどは絶対にありえないと、わたしたちのほうでは100%完全に信頼できるからです。

 ただ、ナインボールのルールでいった場合、9の玉を落とした人が勝ちとなるため、実際はいくつかの玉が台上に残っていることがあります。けれど、こうした人生上の問題が残されている場合でも、神さまがその状態を<最善>と考えられるということはありえるんですよね。むしろその問題を通して学ぶべきことがあなたには残っている……とか、そうした場合ですけれど(^^;)

 その場合でも、M(この場合はわたし)はイエスさまに「どーして、どーして、この問題を解決してポケットに落っことしてくれないのっ!!」なんてだだをこねることなく、「神さま、この問題を感謝します。神さまの時に必ず問題が解決すると信じます」と祈り感謝していくことが大切というか。

 マーリンさん著の『恐れからの解放』は、個人的にとても学ぶところの多い本でした。わたし、他にもまだマーリンさんの本で読んでいないものがあるので(汗)、そちらについても読み次第また御紹介できればと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!





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