神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

我々に出来ることは何もない。

2023年04月27日 | キリスト教

『主は言われる。
 天はわたしの王座、
 地はわたしの足の足台である。
 あなたがたは、どのような家を
 わたしのために建てようとするのか。
 わたしの休む所とは、どこか。
 わたしの手が、これらのものを
 みな、造ったのではないか』

(使徒の働き、第7章49~50節)


 わたし、自分がクリスチャンになる前から、<教会>と呼ばれる場所が好きでした

 サグラダファミリアとかサン・ピエトロ大聖堂など、世界遺産にもなっているような壮麗な建物の外観や内部構造の美しさが、ただ見ているだけで幸せな感じを与えてくれるので、なんというかまあ、ある意味観光名所的な感覚でそこへ行き、なんとなく荘厳な雰囲気を味わってみたい……といったようなことを十代の頃からずっと思っていたわけです。

 その後、クリスチャンになったのは23歳とかそのくらいだったと思うのですが、ある程度教義的なことについてなど、聖霊さまの恵みによってわかってくると……実は<教会>という建物自体が信仰の本質として大切なわけではない――ということがわかったんですよね。

 あ、誤解のないように先に書いておきますと、<教会>はイエスさまの御体としてとても大切なところです。ただ、目に見える形での「建物として」の教会よりも、わたしたちの目に見えない形での霊の教会のほうがより大切だといったような意味です。一応念のため(^^;)

 そして結局のところ、この世界のものはあれもこれももともとは神さまのもの。それで、人間的に考えて設計した建物を人間の都合によって建て、「さあ、神さま。このような素晴らしいものを我々は造りましたから、ここへ来て我々の祈りを聞いてください」というのは、人間側の押しつけであって……当たり前のことですけど、神さまの側で「じゃ、そうしようかな」としなくてはいけないということでもない。

 もちろん、サグラダファミリアのような教会は本当に特別で、たくさんの方の祈りと捧げる心から今も建設が続いているという意味でも、きっとイエスさまも喜んでおられるに違いないといったように、一信徒として心から思ってはいます。

 ただ、もしこれから(あくまでもこれは仮に、という意味で^^;)、観光客的な人々が9割で、本当に信仰を持つ人々1割だけがその壮麗な建物で真実の礼拝を守る……ということになった場合、1割の残された者があるだけでも凄いこととは思うものの、でも、その壮麗な建築物が本当の意味で<教会>であることの意味が損なわれてしまう、ということでもあると思う、というか。

 聖書では、我々ひとりひとりが『聖霊の宮』だと書かれています。


 >>イエスは彼らに答えて言われた。

「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」

 そこで、ユダヤ人たちは言った。

「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」

 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

(ヨハネの福音書、第2章19~21節)


 >>あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

(コリント人への手紙第一、第6章19~20節)


 確かに、それがとても素晴らしい神殿でなかったとしても、ひとつの建物を三日で建てられるということは現実にはないかもしれません。言うまでもなくイエスさまは、十字架にかけられてのち三日後に甦ることを指してそうおっしゃったわけですけど、このことを信じる者は、イエスさまが十字架上で流された血がこの身に振りかかったことにより、罪の赦しを得、死後の甦りを約束された者となります。

 わたしたちはみな罪の奴隷であって、自分の力によってはそこから解放されることが出来ません。そのことが出来るのは唯一神さまだけで、わたしたちに何か値打ちがあったということではなく、イエスさまはただその愛と恵みによって、わたしたちが己の罪ゆえに苦しむ姿を深く憐れみ――御自身が流された血によって、わたしたちの罪を贖い、天国への扉が開かれるようにしてくださいました。

 神さまは人間が生きられるようにこの地上環境を整えてくださった……もしかしたら人間はそれだけでも天地創造の神さまに感謝し、それ以上の人生上の個人的な苦労や苦悩については、「そんなことくらい、自分でどうにかしろ(ドヤ顔☆)」と放っておくことも出来たのではないかと思います。

 けれど、イエスさまは「わたしを信じる者には、同じように奇跡が起きる」という道をまずは御自身で示され、イエスさまを信じる者たちは聖霊さまを与えられることで――自分が同じように十字架にかかり、究極の苦しみを味わい、血を流さなくても……ただ、わたしたちの罪の身代わりになってくださったイエス・キリストが神の子であると信じるというそれだけで、罪の赦しを与えられ、死後に天国へ甦ることの出来る恵みを与えられる者としてくださいました。

 今回のタイトルは、「我々に出来ることは何もない」というものですが、確かに、この自分の中に内住される聖霊さまの宮を守り通すということにしても、神さまに寄り頼む時、わたしたちの努力云々を越えてイエスさまがなさってくださることであり、継続して祈ることも、聖霊さまが与えられていなければ不可能であり、聖書を理解することも聖霊さまの導きなら、礼拝を守ることもその他何もかも――自分の意志の力や努力という部分もあるにせよ、弱く間違いやすいわたしたちは、「神さま、イエスさまのお力なくしては何も出来ません」という底の底に落ちてから、最終的により深く祈り願い求めるものなのではないでしょうか。


 >>教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙、第1章23節)


 と、聖書にある通り、もちろん目に見える教会も大切ですし、イエスさまの御体として尊ぶべきなのは当然のこととも思います。でも、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」というところは、目に見える教会においても、わたしたちの内側にある教会、聖霊の宮においても同じことなので、その霊的な満たし、聖霊さまの満たし、ということが日々の信仰生活において一番大切なことのような気がしたり。

 むしろ、わたしたちのほうで何も出来なくて無力な時こそ、イエスさまは聖霊さまを通し、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」その全能の力によって、必ずすべてのことを成し遂げてくださることを信じることこそ、わたしたちの努力や人間的な力0%、神さまの力120%となるような、信仰のポイントのひとつのように思います

 それではまた~!!






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