神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

嗚呼、蟻地獄。

2024年05月07日 | キリスト教

「嗚呼、蟻地獄☆」だなんて、何かすごいタイトルですね(笑)。 

 ただこの間、「懐古主義」とはつまり、こういうことですよ……みたいな、的確に表現された文章を読み、連想的にちょっと思ったことがあったというか。つまり、懐古主義というのは、現代の人から見て「新型コロナウイルス」というのは過ぎ去った過去でもなく、今も続いているものなわけですけど、「間違いなく完全に終息した」といった段階に入ると……すぐ「過去」に分類されるということだったんですよね。もちろん、コロナによって親しい方を亡くされた人にとってはただ一言「過去にあった恐ろしい感染症」というだけでは済まないにしても……こうした形でとりあえず人類全体としては「過去」と見なされるようになる、といったことは理屈として、一応そうなのかもしれません。

 でも、その段階では「生々しい過去」として記憶され、人々の脳裏でもそのように分類されている事柄も、さらに時が経つと「その時代には他にこうしたいいこともあった」といったように懐古されるようになる……ということでした。そしてさらにまた時が経ち、わたしたちの孫の代くらいにまでなると、「過去に新型コロナウイルスっていう感染症が猛威を振るったんだって」という、「本当に何も知らない世代」が生まれてくる。そしてこのくらい時が流れると、わたしたちにとっても孫がそんな話をしているのを聞き、「ああ、そういえばあの頃は~~だったねえ」といったように、過去を「懐古」するようになる、つまり人の間にある「時の流れ」というのはそうしたものである、と。

 それでわたし、「確かにそうだなあ」と思ったんですよね。たとえば、実際に戦争を経験していないわたしたちの代で言うと、「第一次世界大戦」や「第二次世界大戦」って、その時代に戦争という恐ろしいことさえなければ、「こういう良いところもあった」、「ああした良いところもあった」といった観点で映画を見たり小説を読むなどして「完全に懐古主義的ノスタルジー」に浸ることが十分可能だったりします。

 その時代に戦争があって引き裂かれてしまった愛ですとか、名作「ひまわり」などを見て、滂沱と涙を流すなど……「戦争さえなかったら」と嘆きつつ、その人生の不条理について言えば、恋愛でなかったにしても今も人生なんて不条理なものですから、その部分だけ自分の人生とリンクさせ、激しく共感し、心の奥深いどこかの領域にあるものが癒されるのを感じることさえ出来る。

「古きよきアメリカ」という言葉がありますけれども、現代のわたしたちの目から見て、この時代はこうしたところが良かったとか、良い面のみを見たとすれば確かにそうなのですが、実際その時代を生きていた人々はそのほとんどの人々が大変でもあったと思います。日本だってそうですよね。モーレツ社員がモーレツに働いて、右肩上がりに経済のほうは成長したものの、その分心のほうがどこか置き去りにされ、お金はそれなりに稼いだものの、家族の心は離れ去っていたなど……その後、バブルが弾けてからは失われた十年とか二十年とか三十年とか呼ばれるようになり――確かに、「経済の驚異的成長」という意味において言えば、「昔は良かった」、「バブルが弾けるまでは良かった」ということになるのかもしれませんが、実際にはそのために犠牲になった人々の労力や感情的犠牲のことを思うと……「は?何言ってんスか」ということでもあったりする。

 あ、ちょっとタイトルから離れてしまいましたが、人間は自分で蟻地獄を作ってそこで苦しむしかないという性(さが・笑)を持っているらしいという話でした。わたしは自分がそうした病気を持ってるのでわかるのですが、ある種類の神経症というのはそういうものだと思います。自分でそうした精神的地獄を作って、そこに蟻である自分の精神を放り込むのですが、「ええと、それ作ってるのあんただよね?だったら蟻地獄自体自分の力で失くせるんじゃない?」という話。また、自分にまったく関係のない他者の蟻地獄についてであれば、わたしもまた同じように偉そうに論評できるかもしれない(^^;)。でも、たとえばいじめなど、人が作ったそれに巻き込まれるということもあるでしょうし、結婚生活のほうが、ご本人にしかわからないような蟻地獄に等しい苦しいものであるから離婚に至った……そんなこともあるだろうと思います。

 そもそも、よく考えると個々人のみならず、人間の社会全体がそうなんですよね。わたし、名前だけ聞くと「大手」と思われる某会社に、パートの事務員として働いたことがあったんですけど、正直、「蟻の巣のような管理社会」と思いました。簡単にいうと家を建てる建設会社なので、営業の人たちの気合が朝から凄かったり、その営業のほうの成績が芳しくないと、月末あたりどうなるかなど(どうも営業部長といった方は月末にそうした報告を本部にせねばならないらしく、この頃になると機嫌が悪くなったり色々ある)――わたし自身はあくまで「パート」なので、そうした社員さんの姿というのは「社会勉強になるなあ」くらいの感覚で垣間見ているくらいの形だったので良かったですが、「正社員」としてそうした人間関係に巻き込まれるとなると、話のほうはまったく別ということになると思います。

 こういった個々人の、「蟻地獄」とまではいかないにしても、「蟻の巣的生活」というのは、十代の子供たちにとってそれに相当するのは学校という場所でしょうし、いじめ、あるいはいじめではなくても、何かの人間関係的困難さによって、「一歩間違えば学校なり職場といった場所はいくらでも蟻地獄のようなものに変容しうる」という感覚というのは……おそらく、「まったくそんな危機感を感じたことがない」という人のほうが少ないくらいだろうと思います。

 そして、社会全体ということでいうと……蟻地獄の別名として戦争ということがありますよね。ヒトラーなどもそうだったかもしれませんが、蟻地獄の底にいる「うすばかげろうの幼虫」、この存在を取り除くのは、一匹の蟻の力だけでは絶対無理です。そして、こうした蟻地獄にたくさんの人が巻き込まれ、精神的・身体的・感情的地獄を味わうか、いずれ自分もそうなるだろうという予感を味わいつつ、「そうとわかっていながら、自分で自分を救うことが出来ないのか」と言われても、同じようになるという地獄を味わうしかない……こうした人類全体の悪循環を救いえるのは神さまだけだとわたしは個人の信条としてそう思っているのですが、どこも絶望的な状況なので、「神になど祈っても無駄だ」という倦怠感を覚える方の気持ちというのも、理屈によっては一応理解できます。

 人間は自分の肉の腕によってでは、自分を救いえない……それゆえに、そうした人間、人類の罪のためにイエスさまが十字架におかかりになってくださったわけですが、わたし自身はやはり、人間が蟻地獄へ落ち込むという時――人間が蟻の存在を俯瞰して眺めることが出来るように、その蟻が蟻地獄へ落ち込むとき、人間が指で蟻を底から上げることが出来るように、そう出来るのは神さま、イエスさまだけだろうと思っています。

 また、この方に頼る時のみ、「アリアリアリアリ……アリーヴェデルチッ!!!」という、それこそ蟻地獄からさようなら、という奇跡が起きてくるのではないでしょうか。あ、ちなみにアリーヴェデルチとは、イタリア語で「さようなら」という意味で、これは「ジョジョの奇妙な冒険」のパート5で、登場人物のひとりブローノ・ブチャラティが、必殺技で敵を倒す時に叫ぶお言葉だったりします(^^;)。

 それではまた~!!










コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたしは弱いときにこそ強い... | トップ | 思いやりと共感、愛のすぐそ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事