神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

絶望の深夜午前三時。

2024年01月27日 | キリスト教

「夜回りよ。今は夜の何時か。
 夜回りよ。今は夜の何時か」

 夜回りは言った。

「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。
 もう一度、来るがよい」

(イザヤ書、第21章11~12節)


 わたしの持っている聖書の欄外注によると、「夜回り=預言者のこと。神の時を知っているところからこう言われた」、「今は夜の何時か=朝はいつ来るのかの意。すなわち、苦悩はいつ終わるのか、との質問」、「朝が来、また夜も来る=苦痛からの解放の時は来る。しかし、悔い改めないなら苦悩は続く、の意」とあります。

 ここは、諸民族に対する刑罰が列記されている箇所なので、解釈としては確かに「悔い改めないなら苦悩は続く」といったように、先に「罪がある」ことが前提とされています。

 でも、前回の「夜回り」との関連として、「霊的苦悩」、「霊的救い」といった意味合いを兼ねて、そちらの肉体・精神・魂の苦悩として解釈したいと思うんですよね。そう考えると、この苦悩は深く、とてつもなく重いものであることがわかると思います。

 わたしたちが人生の苦難に見舞われる時、「とにかくなんでもいいからそれがなるべく速やかに去ってくれる」ことを望むものだと思います。体のどこかに痛みがあったら、それがなくなってくれること、不自由や不都合がないこと、心や精神の問題であれば、その恐怖や不安や、何かしら自分に脅威を与えるものがなくなってくれること、あるいは曇り空のようにモヤモヤした気分が去ってくれることなど……でも、苦悩の深いものの特徴のひとつとして、「それがいつなくなるかわからない」、「解決するかわからない」ということがあると思います。

 つまり、「夜回りよ。今は夜の何時か」と苦難の体験者が聞いているように、答えとしてはっきり「今は夜中の二時だ。だが、あと2~3時間もすれば夜明けが来る」=「その頃、おまえを悩ませている問題のすべては解決していよう」というのであれば――わたしもたぶん、「ああ、そうか。あともう2~3時間か。それならもう少し頑張って耐えよう」とも思える。でも夜回りは、「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい」としか言わないわけですよね。これが毎日、それも何年にも渡り繰り返されたとしたら……この夜回りという奴自体に殺意を覚えるようになると思いませんか?(^^;)

 これはわたし、前にもどこかに書いた気がするんですけど……「やまない雨はない」とか、「明けない夜はない」とか、「夜明け前の闇がもっとも深く濃い」であるとか――最初に聞いた時には「いい言葉だなあ」と思い、感動したり、その言葉を励みにすることもある。でも、「苦悩のあること」が常態化し、それのあることが「あまりに当たり前のこと」になると、そうした言葉を聞いてももう一切感動すらしなくなります。

「やまない雨はない。明けない夜はない。ふうん、あっそう。だからそれで?」くらいならまだしも、だんだん「へええ。そんなこと人に語っちゃって、いい気分にでも浸りたいわけ?あんたは人にちょっといいこと言って、いい気分かも知れないけど、こっちゃもう耳にタコが出来てるもんでね。そんな程度のことしか言えないんならあっちへ行っとくれ」――というくらいになると、ちょっとメンタル危機にあるかも知れません。

「え?ちょっとどころでなく、かなり深刻なのでは……」と思われるかもしれないんですけど、わたし自身はまだ、このくらいなら全然救いはあると思います。何故かというと、怒ったり、それを人にぶつけることが出来るっていうのは、まだエネルギーがあるということだからです。でも、ここからさらに気分が落ちると、怒るエネルギーすらなくなり、「どうせ何言ったって無駄だ」といったようになり、人は無気力かつ無口になっていきます。

 そして、これこそがメンタルの本当の危機とわたし自身は思うのですが、何分本人はもう「本当はこんなに困ってます」、「苦しいんです」、「つらいんです」……と口に出して言ったり、そんなサインを出す気力もなくなっているわけですから、メンタル健康・メタル丈夫サイドにある方は気づくことすら出来ない……ということは、実際わたしたちの日常生活でも結構あると思います。

 まあ、わたし自身のことで言えば、そうした人の無神経に遭遇したこともあれば、同じように人を無神経に傷つけたこともあるでしょうし、「伝え方がうまくなかった」ことで、相手にうまく伝わらなかったこともあれば、逆に相手が「本当は何を言いたかったのか」、正しく聞けなかったことが何度となくあったんじゃないかなと思います。また、「人は自分の見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞く」という習性がありますから、「自分にとって都合の悪いことは歪曲し、自分にとって都合のいいように加工する」ということもよくあります。現在はここにSNSといったものも絡んできたりして、本当に難しい世の中だなあと思ったりもします。

 そしてこうした時、クリスチャンと呼ばれる人々はまず、とにかくイエスさまに祈ります。人を傷つけてしまった時にはそこに懺悔の祈りも加わってくると思うのですが、とにかくもう本当に困った時、祈るしか出来ることはなくなってくるというか。。。

 わたしの場合大体、戦争とか災害とか、祈ることは決まっていたりします。なんというかまあ、あえて文章にすると自分でも「ちょっと偽善チックだなあ」と思うところがあり、あんまりしょっちゅう書こうとは思わないものの……


 天の父なる神さま、イエスさまの御名を通し、聖霊さまによって祈ります。

 どうか、戦争や災害にあったすべての人を霊肉ともにお強めください。

 その心の願いごとをお叶えください。

 その心の悩み事を解消してください。

 毎日食べて飲んで満腹し、安心してぐっすり眠れておりますように。

 衣食住や職の問題に関して、何ひとつ困ることのないようすべての必要についてお満たしください。

 その仕事の手の業や人間関係を豊かに祝福してください。

 頭の先から足のつま先までをお癒しください。病気や怪我など、悪いところがあれば、そこを特に重点的にお癒しください。

 すべての人を新型コロナウイルス、風邪やインフルエンザ、その他ありとあらゆる感染症からお守りください。また、その後遺症からも守り、神さまがそのひとりひとりを何ひとつ悪いところのない完全な者として立たせてくださいますように……


 などなど、ひとりで祈るよりも、誰か人と、イエスさまの御名において互いに口に出して祈りあうと、霊的に解放されるということが本当に起きると思います。

「そんなの本当かなあ?」と思われるかもしれませんが、肉体的・精神的な問題が解決されることも重要とはいえ、自分的には霊の解放ということがもっとも重要だと思っています。

 いくつか下の「宇宙人・悪魔・幽霊」のところにも書いたのですが、「(本人も気づかぬうちに)悪霊の思うままにされている」方というのはいるもので、本人も「何故自分はこんなに運が悪いのだろう」と意気阻喪しつつ日々を一生懸命頑張って生きている、ところが、人生に希望を持つごとに悪魔が邪魔をし、腰のあたりを矛で刺して転ばせる……しかも、これが何度となく続く。本人もそんな人生嫌だと思っているのにどうにもならない――といった時、教会でイエスさまのことを信じて救われ、霊に解放を受けるということが本当にあると思います。

 霊の解放、というとたぶん日本人の一般的感覚としてうさんくさく聞こえると思うのですが、イエスさまは本当になんでもお出来になるので、本当ならわたし自身にはその苦難を乗り越える力がなく、夜明けが来るのにあと十時間以上ある……といった絶望の時、「じゃあ、あと十五分後に夜明けが来るようにしてあげよう」とか、本当に思いもしない瞬間に、本来ならもっと時間がかかると思っていたのに、問題が突然解決するか、その兆しが見えはじめたりすることがあります。

 これはあくまでも「わたしの場合」であって、他の方は罪もないのに苦しんでいるとか、こんな不幸が何故……ということで悩まれていると思うのですが、わたしの場合、そうしたこともあったものの、むしろクリスチャンになってからこそ「これは自分が悪いなあ」とか、「こうした罪のゆえに今自分は苦しむことになったのだなあ」、「しかも、その状況を招いたのは他でもないこのわたし自身なのだ」ということが、今までに一度だけでなく何度もありました。

 けれども、キリスト教では「心から悔い改めればイエスさまが赦してくださる」と言われるように、「わたし自身が悪く、それゆえにこの身に苦難を招いている」にも関わらず、イエスさまはそのたびごとにわたしを赦し、さらには問題解決の時を速めてくださったりと、本当にとても恵み深いお方です。

 また、肉体的・精神的、人間的思考によって普通に考えた場合――「こんなことは起こりようがない」、「起こるはずがない」と思うのに助けてくださったりと、霊的解放といったことは本当に神さまの奥儀のひとつとして非常に重要で、日々意識してこのことについては熱く祈る必要があると感じます。

 おそらく、神さまから賜物をいただいている方であれば、この「霊的解放」といった事柄についても言葉や文章によってうまく説明できると思うのですが、わたし自身はそのことについては言葉でうまく説明するということがどうしても出来ません。

 ただ、それは決して理屈ではなく、たとえば「何故か涙が溢れて止まらなくなる」とか、今目の前にある問題がすぐどうこうなるといった解決自体はまだ見ていないのに……イエスさまの平安の霊に満たされることによって、以前ほど悩まなくなったり、手に自分でがっしり握っていたその問題をその瞬間に神さまに明け渡す、委ねるということの本当の意味がわかったりと、理屈ではなくあくまでも感覚的なことというか。。。

 また、それが人間的理由である以上に、問題の鎖に悪魔・悪霊が働いていて、がっしり鎖の先に鉄球が括り付けられているといった場合、その鉄球で自分を傷つけるのみならず、周囲の人も傷つけ不幸にしていると「理屈ではわかっていても」、「自分の力ではどうにも出来ない」といった場合、やっぱりイエスさまを通して信じた時に「何故か不思議な形で霊的解放が起きた」ということがあり、「悪魔・悪霊のくびき」をイエスさまが取り外してくださるということが、本当に起きて来ます。

 クリスチャンに与えられる賜物はそれぞれあると思うのですが、個人的に特に重荷を持っているのが、癒しと、人々を霊的に縛るこの「悪魔・悪霊」に関する問題だったりします。とはいえ、わたし自身に何か強い霊感があるといったことでもなく(むしろ霊感のほうはゼロに近いです・笑)、そうした事柄が目に見えないながら「いかに人を苦しませ、悩ませ、問題の解決を遅らせるか」がわかっているがゆえに、すべての人がこうした目に見えぬ「悪魔・悪霊のくびき」から解放されるため、お互いに「そのような存在がいる」という認識の元、口に出して熱く祈っていくということは非常に重要なことだと思います。

 それではまた~!!






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