神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしは愛のない人間です。

2024年04月22日 | キリスト教
【最後の審判】(地獄の部分)フラ・アンジェリコ
(※映画「バニラ・スカイ」に関して重要なネタバレがあります。一応念のため、ご注意くださいm(_ _)m)

 なんとも「今更」という気がするものの、公開当時話題になっていたトム・クルーズ主演の「バニラ・スカイ」という映画を見ました♪

 その~、映画の感想についてはさておき(書きたいことがありすぎて、長くなるので^^;)、簡単にまとめると、イケメンが事故で不細工になってしまい、肉体的苦痛と精神的苦痛が極めて強いあまり――一足先に(?)生と死の狭間にあるような夢の意識世界へ心のみ移行させる……といったような内容です。

 つまり、自分の「夢」なわけですから、なんでも自分の好きにしていいはずなのに……わたしたちが普段見る夢の中で、自分や夢の登場人物やその後の展開をコントロール出来ないように、トム・クルーズ演じる主人公のデヴィッドは、その悪夢から抜け出せないループに嵌まり込んでしまいます。

 元は「オープン・ユア・アイズ」という映画のリメイクということなのですが、恐ろしくよく出来た脚本で、本当に素晴らしい作品であるゆえに、ついうっかり「バニラ・スカイ」未見の方がここのネタバレ読んでいたとしたら非常に心苦しいのですが(すみません)、これもまた簡単に説明すると、映画「マトリックス」の世界観にも通じるところがあるように思います。

 トム・クルーズは最後、悪夢のループに飽きるほど苦しみ、元の世界へ戻る決心をするわけですが、この科学装置に大金を払ったユーザーが悪夢に陥る可能性は当然あり、そのための監視装置が実は存在するんですよね。そこで、この監視者がデヴィッドの夢に現れ、「あなたの以前あった財産はすでにありませんし、また目覚めた未来の世界で幸福になれるとも限らない」、「それよりもこのまま夢の世界にいたほうがいいのでは?」(=今はもう夢だとわかっているのだから、今後はうまく夢の内容をコントロールすれば良い)……といったように助言するんですよね。

 このあたり、もし公開年かその後間もなくDVDをレンタルして見たとかだったら、わたしこの映画の内容についてはそんなに本気にしなかったかもしれません。でも、現在は実際のところ、肉体の死亡後の意識を、新しい別の肉体か、それ以外の場所へ移すことというのは、実現可能なことかもしれない……といったように、結構現実的になってきているのではないでしょうか。

 まあ、わたしの死んだ百年後か二百年後か三百年後かはわからないにしても、地球が戦争といった危機がありつつもどうにかこうにか滅びもせず、科学技術の進歩とともに存続していた場合――ありえないことではない、というくらいのところまで来ているのかな、なんて。。。

 ええとまあ、前置き長くなりましたが、ついこの間、夢を見ました。はっきりそれは霊的な夢とわかる種類のもので、また「バニラ・スカイ」見て結構経ってもいたので、映画を見た影響云々は関係ないと思われます。ほんっと、気持ちの悪い夢で、あたりは真っ暗闇、それでわたし自身の意識の入ってる肉体はすでに死んでるらしいのですが、大きな蜘蛛やら、その他の気味の悪い昆虫やらがあっちへ移動したりこっちへ移動したりするもので、「うわ~、あっち行け!!しっ、しっ!!」みたいになってる夢でした

 肉体的な存在はあるとはいえ、もう死んでるわけですから、その蜘蛛やらなんやらに食われるとか、刺されて皮膚が痒くなるとか、そうした実害は不思議とないのです。でも、真っ暗闇の中、そんな奴らと接触することを気味悪く感じながらも、ずっとそんな場所にいなきゃならない……まあ、本当に一種の地獄と思います

 それで、夢の中でもわたし、実は気味悪く感じつつも結構強気でした。なんでかっていうと、そんな絶望的な状況にありながらも、「これはわたしの夢じゃないし、イエスさまが必ず救ってくださるし、わたしは死んだら天国へ行くんだし……」みたいなことは不思議とはっきりわかっているのです。

 また、目を覚ましたあと思ったのは、感覚として「あれはわたしの夢じゃないなあ」ということでした。じゃあまあ、「一体誰の夢なのか」というと、イエスさまのことを救い主としてまだ迎えておられない方の夢、ということだったりするんですよね(^^;)

 わたし、天国について書くことが好きですし、「死後の天国は現実です」とか、口に出して言うことに抵抗もありませんが、逆に「それと同時に死後の地獄も現実なのです」と口に出して言うことには非常に抵抗があるんですよね。それがもし同じクリスチャンの方でなかったら、「おめえ、頭おかしいんでねえの?」みたいに思われるのがイヤだ……というのがまず第一にあるかもしれません。

 さて、今回のタイトルは「わたしは愛のない人間です」というものです。何故わたしは愛がないかというと、もしわたしに神さま、イエスさまにある愛があるなら、福音伝道に関してもっともっと熱心になってるはずだからなんですよね「地獄は現実なんだよ。あんな恐ろしい場所に、わたしは誰も死後に行って欲しくなんかないんだ。だから君、今すぐわたしと一緒に教会へ行って信仰告白し、イエス・キリストを自分の主として迎え入れてくれ」……と、このように、誰かれとなく語る、それが真のクリスチャンのあるべき姿と思うわけです。

 以前、アメリカの貧民街出身の青年で、学校卒業後はギャングにでもなるしかなく、そんな中、同じ境遇の友人が銃に撃たれて亡くなってしまい、その後百八十度生き方を変え、牧師になった――という方のお話をラジオか何かで聞いたことがありました。確か讃美歌において用いられている牧師さんで、結構有名な方だったと思うのですが、お名前のほうは忘れてしまいましたでもこの元ギャングの牧師さん、もう百八十度生き方を変えたあとは、本当に誰かれとなく福音を語っておられて……その福音の語り方というのがですね、なんというかまあ、日本のような環境でいったらほんと、「宗教気違い」にも近い感じだったのです。

 それこそ、「イエス・キリストを信じたら、死後に天国へ行ける。何よりわたしは君に死後に地獄なんて場所に行って欲しくないんだ……」みたいなことを実に熱心に語るわけです。まあ、聞いた「感じ」として、大切なのは言葉そのものじゃないんですよね。「なんだ、この人。全然知らない人なのに、こんなに熱心に自分のためを思って色々語ってくれるなんて……」という、そうした「熱い感じ」、「本当に自分のためを思って言ってくれてるんだ」ということが伝わる、「不思議と感動する感じ」があるわけです。

 これは同じクリスチャンの方であれば、「この方は聖霊によって語っておられる」ということがわかる感じだと思います。さて、翻ってみて、自分のことを考えてみると――まあ、この牧師さんに比べると、自分は本当の意味での愛がないなと感じます。もしわたしに本当に愛があるなら、その人の死後の魂の状態を憂え、「地獄ってほんとにあるんだよ。そしてわたしはそんな場所へあなたに行って欲しくないんだ」と、涙ながらにイエスさまの福音を誰かれとなく語ることが出来るに違いないと思うからです。

 そんなふうに聖霊さまに満たされて、誰かれとなくイエスさまのことを語ることの出来ない自分を不信仰と思いますし、それでいてなお、福音を語るというその段になると……喉に何かが詰まったように感じたりするわけですが、それじゃほんとにいけないんだなあと、例の夢を見てあらためて思ったといったような次第です。。。


 >>だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
  愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

(ヨハネの手紙第一、第4章15~19節)


 今の段階では、わたし自身は「イエス・キリストの福音を誰かれとなく語れる愛のある人間」とはまったく言えないにしても……でも、この日本でリバイバルが起きたということは、いずれ、誰もが朝起きたら家族でお祈りをし、イエスさまのことを日常的に当たり前のように語り、そうすることがむしろ「普通」だという、そんな時代が訪れるに違いないと、そのことにとても大きな期待と希望を持っています♪

 それではまた~!!






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