でぶたんの城Ⅱ

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「稀勢の里、北の湖前理事長に恩返しの土俵入り…後継・山響部屋開きで披露」とのニュースっす。

2017-03-29 05:25:49 | スポーツ

スポーツ報知 3/29(水) 5:03配信
2013年の名古屋場所土俵祭で、ふれ太鼓を
見つめる稀勢の里(右奥)と北の湖理事長(左)

 大相撲春場所で2場所連続優勝を果たした横綱・稀勢の里(30)=田子ノ浦=が6月4日に山響部屋の部屋開きで土俵入りを行うことが28日、関係者の話で分かった。山響部屋は2015年11月に急逝した北の湖前理事長(享年62)の部屋を一番弟子の山響親方(元幕内・巌雄)が継承して独立。前理事長の生前には直々に実技指導を受けるなど、温かく見守ってくれた昭和の大横綱への恩返しの思いを、雲竜型の土俵入りで表現する。

 稀勢の里が最高の形で恩に報いる。角界では、部屋開きの際に現役の横綱が呼ばれて土俵入りを披露する慣習があり、北の湖前理事長の遺志を継ぐ山響部屋の門出を飾ることになった。史上8人目の新横綱優勝。しかも左腕付近を負傷しながら、千秋楽に1差で追う大関・照ノ富士(25)=伊勢ケ浜=を逆転した。前理事長が現役時代に誇りにしてきた「横綱の責任」を果たし、胸を張って“報告”できる。

 稀勢の里は関脇時代から、同じ左四つで圧倒的な強さを誇った大横綱にあこがれていた。「興味がある」と知人に漏らし“相撲観”に触れる機会を切望していた。実際に前理事長に東京・向島の料亭に呼ばれ、実技指導を受けたことがある。その席上で左四つに組み、下手の使い方を助言された。11年九州場所前に鳴戸親方(当時、元横綱・隆の里)が急死。15歳で入門してから指導を受けた師匠を失ったこともあり、前理事長との時間は、かけがいのないものとなった。

 北の湖前理事長も最高位を極められる大器に、大きな期待を寄せていた。1度目の理事長を務めていた03年、17歳だった幕下の稀勢の里を見て言った。「俺の史上最年少横綱の記録(21歳2か月)は破られないだろう。もし破るとしたら幕下にいる萩原だろう」。料亭で食事に招く際には、自ら築地に出向いて食材を仕入れるほど目をかけた。相撲を通じて互いに思いを通わせた。

 存命なら稀勢の里が土俵上で賜杯を手渡されていたかもしれない偉大な存在。その魂を受け継ぐ部屋が東京・江東区東砂へ移転する。春場所を制し「またこれ以上のものを自分で求めてやっていきたい」と優勝24回の大横綱に近づく決意を示す。土俵入りは前理事長と同じ雲竜型。稀勢の里は二所ノ関一門に所属するが、出羽海一門の山響部屋には現役横綱がいないため問題はない。思いを込めて、綱を締め四股を踏む。

 ◆稽古場現れずあいさつ回り 稀勢の里は28日、大阪市港区の稽古場には現れなかった。協会関係者によると大阪市内であいさつ回りをしたという。優勝から一夜明けた27日の会見では、4月2日から始まる春巡業を「行けるのであれば出る方向で」と意欲を示したが、患部の検査を終えてから参加を判断する。

 ◆北の湖前理事長の教え 現役時代の力強い取り口は、明せきな頭脳で導いた理詰めの技術が支えていた。親方になっても解説などで卓越した理論を披露することがあった。差し手の使い方だけでなく、四股についても「(3代目)若乃花が素晴らしい踏み方をしている」と説き、足首、膝に負荷をかけて鍛えていると指摘した。頻繁に口にしていたのは、まわしのとり方。「取る際には必ず小指からだ。親指からでは脇があく」。稀勢の里も春場所3日目の貴ノ岩戦で、脇を締めて下から(小指から)まわしを取りにいった。(スポーツ報知 3/29(水) 5:03配信より抜粋)との内容っす。

 稀勢の里は律儀っす。北の湖は現役の頃憎らしいくらい強かったっすから稀勢の里とはタイプが違うっすがす相撲の厳しさを教わったに違いないっす。稀勢の里も不屈の精神で相撲を取るという意味では共通してると思うっす。もし北の湖理事長が生きていれば、「もう少し腰を落とせ。」とさらに厳しい相撲の指導をしたに違いないっす。牛久のフアンも稀勢の里がつい腰が高くなる癖は不安に思ってるっす。「ほ~ら、こす(腰)さもうすこす落とさねぇとだ~めだっぺ。攻めらっど?」(^^ゞ稀勢の里が四股を踏んでる間照ノ富士はジタンダを踏んでるかもっす。(^^ゞ

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