De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

スマートライフコミュニティ

2015-07-25 22:14:58 | 自分史エピソード
facebookのスマートライフコミュニティというグループで自分史を公開している。これはその第四弾。
肺浸潤で生死をさまよう

終戦後、国民学校から小学校に名前を変更して最初の1年生になった。友達というものをほとんど初めて知った。その友達が「半僧坊のお祭り」のことを話題とする。昼間は参道に屋台が出るし、夜は村芝居がある。その村芝居の話題に仲間入りしたくて、半僧坊のお祭りには兄弟で連れていってもらうことに決めていた。しかしその前日には熱を出して学校を休んだ。当日も熱があり、とても半僧坊のお祭りどころではなかったはずだが、一番上の姉に負ぶわれて芝居見物に行った。その時のことは断片的に覚えている。その景色が思い浮かぶ。しかし、熱に浮かされてちっとも楽しくもなかった。芝居も全く理解もしていない。
そして翌日から重体に陥る。

病院などあるわけのない田舎で最初にどういう治療を受けたか記憶にないが、医者の往診を受けていたような気がする。その時肺炎という診断を受けたのではないかと思う。栄養のあるものを食べて安静にしていることというのが医者の指示。栄養のあるものなど近くで買えるわけがない、みんな自給自足だから卵ぐらいは手に入る。母親が父親にすぐに卵を手に入れるように言った。父親は一人ぐらいいいだろうと答えた。いまでいうDVで、母親は父親にいつも苛め抜かれていたが、この時はさすが逆だったらしく、慌てて父親はたまご探しに出ていった。

私の病気の経験から、我家でも自給自足のため鶏を飼い、ウサギを育てて蛋白源を確保する努力を始めた。

時を同じくして隣の空き医院に東大の先生といわれる医者が開業した。私が一命をとりとめたのはこの医者のおかげと家族は信じている。
母親や、姉に負ぶわれて隣の医院に通い始める。ここで肺浸潤と病名を言われる。この医者が使った薬は後から考えるとストレプトマイシンではなかったか。そんな高価な、当時国内にはほとんどないはずの薬がそこにあるわけはないし使えるわけがない。しかし、何か特別のルートを持っている偉大な先生だったのか。健康保険体制もできていないのにまともな治療代を親が払えるわけもない。しかし、それが本当にストマイだったからこそ私はそんなに早く回復したのではないだろうか。
ともかく夏休みが終わるころは病気そのものは治っていた。しかし、ことさらに栄養価と安静が指示されたらしく、家族はずいぶん気を使い、私自身も外に出て遊んではいけないものと悟っていた。これは理に適っていて、抗生物質の投与で免疫力がなくなったうえ、戦後の不衛生環境で感染症にかかることを医師は注意したものだろう。学校も、たしか9月の終わりころ行き始めた。
そのころ、隣の医院は閉鎖された。私の命を助けるために現れた救世主のように。そして私の手元には宝物の薬箱や薬包紙の束が残った。その先生は、私が行くたびにきれいな薬箱をくださった。私に注射するアンプルの入った灰色のしっかりした薬箱の封を切ると中身を全部取り出して、その空き箱を私に渡した。この箱や薬包紙はその後私の理科の興味に大変役に立つことになる。

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