思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

騒がしい中で

2018-01-17 14:45:16 | 文章
騒がしい空間というのは実際その中でもとりわけおかしな奴が一人騒いでいて、あとは雑音ぐらいの優しいものだ。まあ分からないが、良くも悪くも目立ちたいのだろうし、好きにされれば良いわけだが、騒音嫌いの僕としては恐怖心しか湧かない。同世代というより、もはや年下と言った方が良いのだろうが、若年層が怖いと思うのはこういうところだ。本当に勘弁してもらいたいものだ。


  話は変わるが、最近の原発はどうなのか気になる。実際、どうしようもないのだろうが、それをひけらかせば国民は混乱するだろうし、まず明かされることはないのだろうが、まあ僕が気になるのは今後の影響についてではなく、原発事故と原子爆弾投下とでは、その後の環境がまるで違うのか、それともそう変わっていないのかということだ。(石川淳みたいに読みづらい文章ですね)
  こんなニュースを見た覚えがある。原発事件以降被災者は別の県へ移住したわけだが、移住先の学校で被災者の子供が虐められていたらしい。金も奪われていたとか。曖昧な記憶で申し訳ないが、詳しく調べるつもりもない。
  原子爆弾の時はどうだったのだろう?  真っ先に浮かぶのは井伏鱒二の『黒い雨』だが、被災者とそうでない者との間には肉体にも精神にも大きな溝が出来上がっている。それが差別(というより侮蔑だ)感情を湧かせるらしい。
  僕が疑問なのは、その空間で(この場合は教室で)多勢であるものは正しいと考えてしまう感覚だ。その感覚が日本ならではとは言わない(サッカー観戦で無我夢中に応援できるのは世界中の人々で共通しているのではないか?)。僕が言いたいのは、争い事をなくすには、まずは強大な不幸に陥らなけらばならないということだ。不幸に陥るのを恐れるから攻撃するのであれば、一層のこと、立ち直れないほどの不幸を味わい続ければ良いのだ。
  と、大きく書いてみたが、結局はくたばればいいってことなんだろうな。さあ今日も蛾を潰してエーミールの苦い顔を肴に一杯やろうではないか。

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