思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

いよいよ

2017-07-31 11:50:03 | 日常
夏休みとなる。今日は漢文のテストを終え、まあ酷い出来だったので落ちてたら仕方ないとして、(またこれを見たときにS藤という男は自分が漢文を得意とするからって調子に乗り、僕は僕で高校以降漢文を習っていないことを言い訳にできるわけがないと主張する。さらに言い訳として、ちょうど手を抜いていたところが中心に出てきたので無理でしたと付け加えて、とりあえず僕が馬鹿なことは分かってるし、君が漢文得意なこともよく分かったよ、と思いながら、だらだらと説教を受けるのだ。そして、ここまで書いておけばそう弄ってくることもないだろうと想定しての保険なことも彼には了承してもらわなければならない。僕は理系だからね、と言ってみるとそれも間違いなんで、暗記物ができないのさと見栄を張っておこう)ようやく煩わしい日々から解放されるのだから、せっせと小説を読み、書くことを始めよう。計画としては、長めの短編の書き直し(これはもう三四度目となる)に、息抜きとして書いているものを終わらせること。ただ、長めの短編は散々僕の精神を削り抜いてきたものなので、思い切り変えるのは後悔しかねないからバックアップは残しておくべきだろうか。
  難しいのが、生活感の有無。何かの意図を持って作る場合、この生活感が必要なかったりもする。それがまた、不思議な雰囲気を作り出す要因にもなるわけだが、この長めの短編というのは、その内容から生活感が必要となるかもしれない。そうなると、参考として堀辰雄や原民喜の散文詩辺りが気になるのだが、それらの描き方と病的な精神世界とをどう結びつけていくかが課題となるだろう。どちらも濃い世界観になると思うので、一層のこと別の作品として分けたほうが良いのかもしれない。
  さらに難しいのは、生活感のなかった頃の「僕」を語っていて、その中に生活感のある「僕」と「彼女」の回想が挟まれるとなると、少し温度差が生じるかもしれない。ただ、それらを経験した語る「僕」の心情は、あくまでも冷徹であってもらいたい。
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アングラ

2017-07-28 00:42:22 | 日常
僕は元々サブカルとアングラを混合していたが、どうもこれを一緒にするのは失礼な気がしてきた。そのような意味で、僕はアングラ寄りのものが好みだ。
  文学はサブカルチャーとなりつつあることに違いないが、あくまでもまだまだメインカルチャーとして残り続けるだろう。その中でもアングラと呼ばれるものはどれぐらいあるのだろうか。多分、僕らには知らない世界に違いない。
  今日、WhiteHeavenのoutを聞き、やっぱサイケデリックロックはかっけえなぁとか思った。音楽やるならサイケがいいね。多分、そんな要素が何となく文章の中にも含まれているような気もする。
  僕は元々ゆらゆら帝国というバンドが好みなのだが、彼らの音楽は僕にとっての理想そのものとなっている。細かなことは置いておくとして、音楽やるならこんなことやりたかったし、小説やるならやっぱりこんなことをやってみたいと思わせてくれる。WhiteHeavenというのは、そのゆらゆら帝国をプロデュースしたボーカルが所属していたバンドだ。
  アングラの界隈とは何があるのだろうと思って、軽く漁ってみたが、工藤礼子の「雪の山」というのが妙に良かった。まさにメジャーには出てこれないだろうと思いつつ、不思議なぐらいあの型破りなところが、強い印象を残してきた。今は灰野敬二の滲有無を聞いているが、これもこれで凄まじいものだ。オノ・ヨーコの音楽版と捉えれば良いだろうが、その雰囲気は江戸川乱歩や夢野久作のような、不気味な世界観となっている。
  正直、音楽にしても小説にしても、慣れてしまうと味わいが薄くなってしまうもので、はいはいこんなものね、みたいな冷めた気持ちが強くなってしまう。そんな方々には是非アングラの世界へ浸って、その個性の強さを味わってもらいたい。実験的?  そう捉えるかもしれないが、実験と呼ぶよりは挑戦的と言った方がいいだろう。「音」によって僕らがどのような感情を呼び覚ますのか、貪欲に表現しようとしているのだ。Dazed and confusedでジミー・ペイジがヴァイオリンの弓でギターを弾くところとか、えらく格好いいものな。それはジミー・ペイジ自身の格好とか曲の良さもあるけど、それ以上にあの音に対する貪欲さがいいと思ったな。
  そんな意味で、アングラの中にはダダやシュールレアリスムも含まれるかもしれない。共通しているのは、「訳のわからなさ」であって、もちろん、それを作る側が訳もわからず作るはずがなく、途方も無い計算とか、鋭い感覚によって生み出されていることは書くまでもない。もちろん、普通のものを求める層も大勢いることは確かで、それに合わせて創作することも悪いことではない。多分、これは性格の違い。自分の作品世界を強く持ちたいのか、上手く世の中に適応したいのか、そんな違いだろう。僕はもちろん前者を願うわけだが、まだまだその腕には到達できない。
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望みが絶える。

2017-07-27 15:40:02 | 日常
絶望。望みが絶えるという意味か。しかし、僕らの考える絶望は、その大抵が本当に絶望なの?  と思うかもしれない。たとえば、どうやっても会社へ遅刻してしまうとして、その状況で望みがないかというと、いやいや「遅刻したくない」という望み自体は残っているじゃないか、という話になる。
  おそらく、これは「望み」の意味や感覚自体に複数の要素が込められているせいだろうけど、「望みが絶える」というのは、実際どんな状況となるのだろう。
  たとえば、ビルゲイツしかり、それはもう素晴らしいお金持ちで、何もかもを手に入れることができてしまう男がいるとして、そいつは火の鳥の血を飲み不老不死となるばかりでなく、自身を虚構世界へ閉じ込めることで、ハンター試験に受かることもできれば、地下労働施設でペリカを巻き上げることもできるだけでなく、母の魂を閉じ込められた人造兵器に搭乗したり、怒りや悲しみに反応して銀河系を滅ぼすロボットに搭乗したり、動物たちが女体化された世界で紙飛行機を折ることだってできるのだ。ああ、もちろんソウルジェムも黒く濁らせたし、クロックアップもできたし、赤いメガネをかけて巨大化して電気の怪獣を倒したりもしたのだ。それだけではない。東京を荒らし回った挙句、第五形態となって完全な永久機関を身体に宿しているのだ。坂野サーカスだっていつでもできし、ガウォークにだってなれる。悪魔召喚プログラムも作ったかも分からん。
  それらを本当に彼が望んでいたのかは謎だが、ともかく彼は全てのものを手に入れた。そうなった時、彼は深い絶望を味わうに違いない。欲求は満たされないから欲求でいられるというのに、彼はそれを満たしてしまったのだ。
  そう考えると、絶望というのはある意味、贅沢な悩みかもしれない。そういう意味では、僕は望みが絶えたことはない。その望みが破滅的かはともかく。
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アダルトショップ

2017-07-26 18:07:09 | 日常
K田君と食事をした後、僕らは家具屋へ行き、その後アダルトショップへ行った。彼とは度々アダルトショップへ行くのだが、面白いことにああいう店で興奮したことがない。店内に響く喘ぎ声、床や壁一面に貼られた女優。そんなものに何となくペーソスやらユーモアやらを感じてくる。彼女らも頑張っているのだろうなぁとしみじみ思いつつ、常日頃から世話になっていることへの感謝などを考える。性欲は下品に捉えられがちだが、三大欲求の一つなのだから、むしろ高尚なものだ。その処理の為にその身を捧げていると考えれば、何となくその加工された顔の奥にも、何ともいえない悲しみがあるような気がしてくる。
  床一面に貼られた女優も、何度も客に踏まれたことだろう。それがまた妙に冷静にさせる。何となく顔を踏むことに抵抗がある。泥や土なんかで相当汚れているんだろうな。それでも、彼女らは笑顔と喘ぎ声を絶やさない。『夜ふけと梅の花』なんかに出てくる道化のようなものだろう。改めて、彼女らの苦労を感じる。何となくそんな気分に浸ると、何か買ってもいいような気もしたが、結局何も買わず帰ることにした。K田君は相変わらず幼児性愛ものの漫画やDVDを物色し、スク水とか制服とかに固執しているのが面白かった。おいおい、犯罪すんなよ、と半ば本気で心配になる、と書きつつ、僕自身も幅が広いから危ない。
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抽象的と具体的

2017-07-26 17:41:03 | 日常
会話についての話。抽象的な話と具体的な話とは何が異なるのだろう?
  まずそれぞれの言葉がよく分からない。「抽象的」にしても「具体的」にしても、それ自体が何となく抽象的な気がしなくもない。そんなところから始めるとキリがないから、「抽象的」とは何となくよく分からんもので、「具体的」とは何となく分かるものぐらいでいいだろう。

「いやあ、最近忙しくてね」
  これは抽象的か?  何か忙しいのかはさっぱり分からない。
「仕事?」
「そうそう。上司がまた嫌なやつでさ」
  少し具体的になってきた。上司へのストレスも相まって忙しいのだろうということが汲み取れる。その後はどんなところが嫌なのか、みたいな話になっていって、愚痴を聞いてあげることになるのだろう。
  この流れを考えると、誰しも抽象的な話から、具体的な話に転じさせているような気がしなくもない。会話の面白さというのは、その抽象的な始まりから、具体的なものへと変わっていくところにあるのかもしれない。逆に言えば、どちらか一方ではついていけなくなるのだ。去年の四年生の中にもそんな人はいた。職場が辛い等の愚痴をこぼしてきたものだが、やたら詳細に語られたところで、反応に困ったものだ。「おう。お疲れ様」ぐらいしか言えないし、別にそんな話に興味もない。
  また、自分の知識を伝える時も中々苦労を要する。基本的に専門用語は狭い分野にしか理解されないので、抽象的な表現と言えるかもしれない。その用語がどのような意味なのか、分からない人にも伝えられることが、本当の理解と言えるのだとか何とか、教えられた記憶がある。それが本当の理解と言えるのかはともかく、会話をする上で必要なのは、互いの定義の違いを埋めることであって、その為には分かりやすく伝える必要が出てくる。
  今日、久しぶりにK田君と食事をしに行ったのだが、そこで僕はアクティブラーニングについて尋ねた。まず彼が悩んだのはその定義についてだった。僕は僕の思う定義を伝え、彼はそれに同意する形で、彼自身のアクティブラーニングへの考えを述べた。その詳細はともかく、会話には抽象から具体へと入り込んでいく過程があるのかもしれない。もちろん、興味がなく突っぱねるのはまた別の話で。
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