COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

限りある地球に住む一地球市民として、微力ながら持続可能な世界実現に向けて情報や意見の発信を試みています。

ノーベル平和賞受賞者世界サミット 公開討論会で発信されたメッセージ

2011-08-11 15:29:23 | Weblog

にほんブログ村 環境ブログへ

目 次
 はじめに
 司会の道傳NHK解説委員によるイントロ
 1.開会とパネリスト紹介
 2.被爆地広島の印象
 道傳解説委員による平和祈念式典と平和市長会議についてのイントロ
 3.平和市長会議への期待
 4.核兵器の潜在的危険性と包括的核実験禁止条約
 5.一般市民に何ができるか
 6.過去に対する責任にどう対処するか
 おわりに

はじめに
 2010年11月、広島市で核兵器のない世界をテーマに、ノーベル平和賞世界サミット(The World Summit of Nobel Peace Lautates)が開催されました。その際開かれた公開討論会の模様の一部が、同月28日のASIAN VOICESで放送されました。パネリスト達それぞれが、特色と重みのあるメッセージを発信していました。広島、長崎で節目の平和式典を終えた今、パネリスト達のメッセージを読み直してみると、味わい深いものがあります。長文になりますが、放送されたパネリスト達の発言の全容を掲載します。

司会の道傳NHK解説委員によるイントロ
65年前、広島に人類史上初の原子爆弾が投下され、大きな被害をもたらしました。今回はこの広島でノーベル平和賞受賞者の方々と、核兵器のない世界の実現について考えます。広島市は戦前の人口40万余り、陸軍と海軍の施設のある工業都市でした。1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29から人類史上初の原子爆弾が広島市に投下されました。その3日後には長崎にも投下されました。
原爆投下から65年、広島市は廃墟から見事復興を遂げ、人口100万人を越えました。しかし今も放射線による後遺症など原爆による人々の苦しみは続いています。11月、ここ広島市でノーベル平和賞受賞者世界サミットが開かれました。これはノーベル平和賞受賞者6人と13の団体の代表が集まって、世界の平和や人権について話し合うためで、今年は被爆地広島で、核兵器のない世界をテーマに開催しました。受賞者達は公開討論に先立ち、被爆者が語る原爆投下直後の体験に耳を傾けました。

1.開会とパネリスト紹介
道傳「果たして核兵器の廃絶は可能なのでしょうか。サミット会場では、ノーベル平和賞受賞者とともに、核兵器の廃絶に世界の都市や市民が果たす役割をテーマに公開討論を行いました。早速パネリストを紹介しましょう。

北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん(Mairead Corrigan-Maguire)、1976年のノーベル平和賞受賞者です。マグワイアさんは北アイルランド紛争で妹さんが幼い子ども達を亡くしたことをきっかけに、平和行進やデモを組織して和平に尽力、その功績で76年にノーベル平和賞を受賞しました。

アメリカの平和活動家ジョディ・ウイリアムズさん(Jody Williams)、1997年のノーベル平和賞受賞者です。ウイリアムズさんは世界中のNGO、非政府組織と連携して、1997年の対人地雷全面禁止条約の成立に尽力、この活動が評価されてノーベル平和賞を受賞しました。

ニュージーランドからは反核運動のコーディネーターアラン・ウェア(Alyn Ware)さん、ウェアさんが代表を務めるIPB国際平和ビューローは1910にノーベル平和賞を受賞した平和運動団体です。

アメリカフレンズ奉仕団事務局長シャン・クリーティンさん(Shan Cretin)、クエーカー教徒の人道支援活動が評価され、1947年、団体としてノーベル平和賞を受賞しました。

サミットの開かれた広島市からは市長(当時)の秋葉忠利さんが参加、秋葉市長は世界の都市と連帯して、2020年までに核兵器の廃絶を目指す活動を続けています。

そして客席には包括的核実験禁止条約締結を目指しているCTBTO(Comprehensive Nuclear-Test Ban Treaty Organization)のチボリ・トート(Tibor T醇pth)事務局長がいらっしゃっています。専門家の立場からご意見をうかがいます。

2.被爆地広島の印象
道傳「最初に広島の印象と、被爆者の方々と会われた時の感想をお伺いします。広島を訪れたことで、核兵器に対する考え方がどうのように変化したのでしょうか。ウイリアムズさん、広島の印象はいかがでしたか?」。
ウイリアムズ「広島に来るのは今回で2回目です。初めてここを訪れた時、私はアメリカ人として恥ずかしく思いました。私の国は一度ならず、二度も日本に原爆を投下したからです。広島は他の都市と違うとよく言われます。実際に来て見ると、あの一瞬の恐怖の中に消えていった人々や、苦しんだ人々の魂が感じられるような気がして、心をかき乱されるような感覚を覚えました。滞在中、私は買い物に出かけました。と言っても何も買わずにショウウインドウを覗いていただけですが、あるお店で信じられないほど綺麗な絹の着物を見つけました。店員さんは年配の女性で英語を話せない方でした。残念ながら私も日本語を話せません。それでも彼女はどうぞお入りくださいと言って私を招きいれ、その素晴らしい着物を見せてくれました。色はブルー、背中から裾にかけて金の花が流れるように描かれていました。その着物を羽織らせてもらって私は驚きました。人間の手はこんなにも美しい芸術品を生み出すことができるのだ。原子爆弾を作り投下したのも人間の手だったのです」。
道傳「マグワイアさんは何度も広島と長崎に足を運んで、被爆者の方々と話をされていますね」。
マグワイア「私が若い頃、永井 隆博士の生涯にとても感銘を受けました。日本人の皆さんは永井博士がどんな方かご存知だと思いますが、未だご存知でない方には、博士の本を読むことをお勧めします。永井博士は長崎に住んでおり、医師として放射線の研究をしていました。長崎に原爆が投下された時も、病院で研究をしていたそうです。彼は病院に留まって、被爆者達の看病をしました。やっと自宅に戻った時には、博士の妻は原爆の犠牲となり、既に亡くなっていました。永井博士は私たちが許しあうことの大切さを説いています。ご自分の奥さんを失った直後にも拘らず、和解と許しについてお話しをされていました。私は彼の著書「長崎の鐘」をずっと前に読んでから、いつか長崎にある永井博士の自宅に行ってみたいと思っていました。そして数年前、広島と長崎を訪れた時に夢が叶いました。私達は苦しみを味わうことによって、愛情や思いやりを持ち、同じように苦しんでいる人たちに共感することができます。苦しみから一ついいことが得られます。それは私達に慈悲の心を育て、深めてくれることです」。
道傳「ウェアさん」
ウェア「私が広島を訪れるのはこれで八度目になると思います。私の母国ニュージーランドにおいても、広島はとても重要な意味を持っています。私達は教育活動を通して、核兵器は決して使われるべきでないと訴え、若者達の共感を得ています。核兵器が使用された第二次世界大戦においては、日本は私達の敵国でした。ニュージーランドは戦争終結を喜んだ国なのです。しかし原爆の被害が明らかになるにつれ、ニュージーランドでもこの兵器が戦争を終わらせたという認識から、無差別に人間の命を奪ったものだという認識へと変わって行きました。私達は毎年全国の学校で、平和週間というイベントを開催しています。8月6日の広島デイと9日の長崎デイです。被爆者について話しをするのです」。
道傳「クリーティンさんは今回が初めての広島訪問ですね」
クリーティン「アメリカ人として広島を訪れるのは複雑な気持ちでした。原爆を投下した国の人間として、良心が痛むからです。でも実際に来てみると、思いがけず皆さんが暖かく歓迎して下さって驚きました。被爆者の方々までもが私に手を差し伸べて、自分達には復讐心がない、ただこの苦しみを他の人に経験させたくないのだという言葉をかけてくださいました。私は本当に心を動かされました。第二次大戦後日本とドイツが戦争を放棄したのは、過去をしっかりと見つめ、反省することができたからだと私は思います。どのような戦争においても、交戦国のすべてが責任を負っています。戦争への関わりが大きいとか小さいとかの問題ではなく、全ての交戦国が戦争の一端を担っていたのは確かだからです。ですから私達は復讐や報復という思いを放棄する必要性を学ばなくてはなりません。私たち誰もが持っている、共通の人間性に働きかけてゆく必要があると思います」。

道傳解説委員による平和祈念式典と平和市長会議についてのイントロ
 原爆が投下された8月6日、毎年広島市では原爆の犠牲になった人々を追悼するとともに、核兵器の廃絶と世界平和の実現を目指して、平和記念式典を行っています。今年の平和宣言で秋葉市長は、全世界の市民や都市に次のように呼びかけました。
 「核兵器廃絶の緊急性は世界の都市に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつあります」。
 1982年、広島市は世界の都市と国境を越えて連帯し、ともに核兵器廃絶への道を開こうと平和市長会議を創設しました。平和市長会議の連帯の輪は、世界4300あまりの都市に広がっています。秋葉市長は1999年からその会長を務め、核なき世界の実現に向けて呼びかけを続けています。平和市長会議は2020 Vision(トゥーオートゥーオービジョン)を掲げ、世界の都市、市民、NPOなどとの連携を進めて、2020年に核のない平和な世界の実現を目指しています。その根底には世界を変える運動は国ではなく、都市や市民のレベルでこそ可能だという秋葉市長の思いがあります。

3.平和市長会議への期待
道傳「秋葉市長にうかがいます。最初のご挨拶(筆者註:これは放送された内容に含まれていなかった)の中で平和市長会議についてお話しされていましたね。世界の都市との連携によってどのような変化を起し、目標を達成しようと考えていらっしゃいますか?」。
秋葉「二つの都市が友好関係を持つと、私達は姉妹都市の提携をします。しかし二つの国家が緊密になった場合には、軍事同盟を結ぶことが多いのです。このことが問題の実態をよく現していると思います。つまり我々は都市レベルなら協力して取り組むことができる。世界の歴史を振り返って見ますと、数多くの悲劇が見られますが、都市の名前が出てくることがとても多い。例えばスペインのゲルニカ、これはピカソの絵画で有名になったところです。他にもドレスデン、アウシュビッツ、広島など都市の名前が、歴史的に悲劇の舞台として知られています。その大きな理由としてあげられるのは、物事を共有するのに最適の単位だということです。例えばベルギーのイーベルは第一次世界大戦の際、世界で初めて化学兵器が使われた都市です(筆者註:人類史上最初の大規模な塩素ガス攻撃が行われた都市、それ以前でも様々な化学兵器は使われていた)。そして現在、第一次世界大戦が終結してから90年以上経つにも拘らず、イーベルの市民は年に一回や月に一回週に一回ではなく、毎日犠牲者を悼む儀式を行っています。都市はこうして痛みや悲劇を記憶に留めるのです。こういった都市に共通の結論がある。Never Againつまり、二度と繰り返さないということである。これは都市レベルで大きな意味を持っています。平和市長会議は2003年に2020 Visionキャンペインという行動指針を策定し、2020年までに核兵器を廃絶することを目標としています。私たちがこの指針の中で掲げている2020年という年は原爆投下から75年目に当り、とても大きな意味を持っています。私達の願いは地球上から全ての核兵器が無くなる日を、少しでも多くの被爆者の方々と迎えることです。そして既にこの世を去った犠牲者の方々に、核兵器廃絶の報せを届けて欲しい。ですから被爆者の皆さんが生きていらっしゃる間に、何としてもこの目標を達成したいと考えています。それが被爆者に対するせめてもの償いでしょう。そして未来の世代に対する義務でもあります。2020年というのは実現可能な目標である筈です」。
道傳「ウェアさん、2020年までに核兵器を廃絶するという目標をどう御覧になりますか?」。
ウェア「確かに意欲的な目標で、達成可能だと思います。私はおもに議会と連携しています。議員というのは市民が選出した代表者だからです。今日我々が直面している問題は、国家レベルではなかなか解決できません。それをより多くの市民が理解することで、議員達も国際的な視野を持ち、問題の解決に乗り出すようになります。現在の議員達は国連と協力し、積極的に核不拡散条約や、包括的核実験禁止条約にも携わっています。このように議員達が問題を認識して行動を起し、さらに市長や国際的協力機関と協力することで、新たな力が生れると私は確信しています」。
道傳「ウイリアムズさんに伺います。ウイリアムズさんが取り組まれた様々なキャンペインでは、世界中のNGO、非政府組織に協力を呼びかけましたね。秋葉市長が国や政府でなく、都市同士の協力に触れていましたが、これこそ私たちが進むべき道なのでしょうか?」。
ウイリアムズ「都市同士の協力がなければ、私達の目標は実現しないと思います。ですから私も、ウェアさんや秋葉市長の御意見に賛成です。ウェアさんが先ほど指摘されていたように、もう国家レベルで問題を解決することはできないでしょう。国は安全保障という枠組にしがみついていますが、今日の世界においては全く意味がないのです。皆さんご承知だと思いますが、今世界が直面している問題というのは、私達個人が直面している問題でもあり、一つの国家だけで解決することはできません。現在国境を越えたグローバルな世界が力を持ち始め、各国もそれを認識している。正直なところ、各国政府はそうした動きを恐れていると言えるでしょう。市民が団結すると非常に早いスピードで変革が起こるという事実を、政府は目の当たりにしてきたからです。だからこそ、市民社会の構成員である一般の人々が、私達活動家や議員、そして市長の取組みに協力し、本格的核実験禁止条約に署名した153カ国を後押しすることが重要なのです。全ての要素が連携していかなければなりません。誰かがおっしゃっていたかと思いますが、自分だけで世界に平和をもたらせると思わないでください。一人で世界平和を実現できる人などいないのです。それぞれが自分なりに貢献することで、突然事態が好転するのです。対人地雷禁止条約の時もそうでした。私達は小さな成功を一つ一つ積み重ねた後で、やっと対人地雷禁止条約を締結することができたのです。その後クラスター爆弾禁止条約に漕ぎ着けるまでに、それほど長い年月はかかりませんでした。実はその前にも、失明をもたらすレーザー兵器の生産を停止する条約が結ばれました。実現は可能なのです。それぞれが自分の役割を果たすことで、ある日突然成功する。奇跡が起きたように思われますが、本当の奇跡とは私達一人ひとりが責任を持って貢献することなのです。皆さんが奇跡を起すのです」。

4.核兵器の潜在的危険性と包括的核実験禁止条約
道傳「クリーティンさんは、原爆が投下された広島を訪れるのはアメリカ人として複雑な思いだとおっしゃっていましたが、アメリカのオバマ大統領がプラハで核なき世界を目指すと宣言して以来、核廃絶運動に弾みがついたと思われますか?世界的成果が出るまで、まだ様子を見るべきでしょうか?」。
クリーティン「ただ黙って成り行きを見守るべきではないと思います。核兵廃絶運動に弾みをつけるためには、市民達の声を結集し、更に核兵器の現実をきちんと伝えてゆく必要があります。私達は核兵器に多くを投資して来ましたが、核兵器は決して安全をもたらしてはくれませんでした。核物質の貯蔵が増えるほど、テロ組織の手に落ちる可能性が高くなるのです。ほとんどのアメリカ人は毎日の生活に忙しく、政治に関心を持っていません。マスコミに報じられていることを、鵜呑みにしてしまっているのが現状です。私達の団体の使命は、核兵器の廃絶を実現するために市民に情報を提供し、本当の安全とはどのようなものかを、正確に伝えることだと思っています。アメリカでは私たちが使いたくもない核兵器を近代化するために、800億ドルもの出費が提案されているのです。例えば私たちが核兵器の研究開発のために投じている資金の十分の一でも、非暴力による紛争解決の実現に使ってはどうでしょうか。そういった取り組みこそが今求められていると思います。」
道傳「トートさん、CTBT 包括的核実験禁止条約は、1996年に採択されたのにも拘らず発効されていません。何故でしょうか?核なき世界に向けてどのような取組みが必要ですか?」。
トート「化学兵器の例を挙げましょう。私は人生の15年間を化学兵器に関する交渉に費やしてきました。人々が未だ疑問を持っていた1982年に活動を始め、条約の採択に漕ぎ着けたのは10年後の1992年でした。発効させるまでには、更に5年の歳月を要しました。しかし現在では、備蓄されていた化学兵器の60%以上が廃棄され、悪夢に歯止めをかける事ができたのです。核実験も同様です。包括的核実験禁止条約がなければ、過去15年間におよそ800の実験が行われたと言われています。800のうち1%の実験は実施されたものの、99%は封じ込めることができました。全ては私達次第です。代わりに止めてくれる人はいません。現在の目標は包括的核実験禁止条約を批准していない9カ国を仲間に引き入れて、条約を発効させることです。勿論これは大きな難題と言えます。インド、パキスタン、北朝鮮は条約に署名しておらず、アメリカ、中国、エジプト、イラン、イスラエル、そしてインドネシアは署名したものの、批准に至っていません。特にアジアにとっては今後の課題と言えるでしょう。何故なら、今私があげた9カ国を地理的に考えた場合、アメリカを除いた8カ国は、アジア、又はアジアと隣り合わせの中東に位置しているからです」。
道傳「では、自分達の安全保障のために、核を保有し続けたいと考えている国々を、どのようにすれば説得できるでしょうか?」。
トート「今日では、テロ事件が日常的に起きています。今後更に核分裂性物質の保有や原子力施設が増加し、核技術を持つ人も増えて行くでしょう。このような世界において、従来言われているような抑止力としての核は意味をなさなくなりました。いわばシステムの機能停止という状態です。ヘンリー・キッシンジャー(ニクソン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官など歴任)やジョージ・シュルツ(レーガン政権の国務長官など歴任)の言葉を借りましょう。私は浅はかで青い目の専門家と言われるかもかも知れませんが、彼らは決して浅はかな軍縮問題の専門家ではありません。この二人の政治家は、核兵器は資産ではなく、むしろ負債であるという結論を出しています。更にアメリカのこれまでの国防長官の四分の三が同じことを言っていますから、それ相応の理由がある筈です。アメリカ以外の国々もこの問題をとことん考え抜き、核廃絶が他国のためではなく、自国の利益になると言うことを認識しなければなりません」。

5.一般市民に何ができるか
道傳「それでは、討論の第二部に移りたいと思います。第二部では核なき世界という大きな目標を実現するために、一般市民に何ができるかについて話し合いたいと思います。まずマグワイアさんにお伺いします。北アイルランド紛争で殺戮や暴力に反対する運動に参加したのは、妹さんの子ども達が犠牲になったことがきっかけだそうですね。取り組みを始めた当初、暴力の連鎖を止められると確信していましたか?」。
マグワイア「ええ、確信していました。暴力は間違っていると今でも固く信じています。必ず暴力に代わる道がある筈です。私達は実社会で通用する非暴力による戦術を学び、絶対的な命の尊厳や非暴力という土台の上に、システムを構築して行かねばなりません。1976年当時、私達は北アイルランドで暴力、銃撃、殺戮、破壊、荒廃といった悪循環の真っ只中にいて、誰もそれを止めることができませんでした。その年の8月、私の妹が3人の幼い子どもを連れて散歩していた時、イギリス軍とIRA(筆者註:アイルランド共和軍、アイルランド独立闘争を行ってきた武装組織)の間で激しい衝突がありました。子どもが3人とも死亡し、妹も危篤状態になりました。妹はしばらくの間生き延びました。しかし彼女はひどく打ちひしがれていて、耐え切れずに自ら命を絶ちました。悲しみが深すぎたのです。妹が3人の子どもを亡くした時、多くの人々も心を痛めました。長引く紛争で、それまであまりに多くの命が失われていたからです。やがて何千という人々が声をあげ始めました。もう沢山だ、これ以上の人殺しはいやだ、殺し合わなくても問題は解決できると。更に莫大な銃弾、あらゆる暴力を拒否しよう、非暴力の社会を作るという絶え間ない努力をして、世界中の人々が連携することに全力を傾けようと声をあげたのです。北アイルランドの大規模な平和運動は、世界中で支持されました。世界中の人々が暴力の連鎖にうんざりしており、もう暴力はたくさん、もう核兵器はたくさん、もう戦争はたくさんと思っていたからです。人間として違った生き方をしたいと誰もが願っていました。平和運動が実際に変化をもたらすまでには、少し時間がかかりましたが成果を挙げました。間違いなく人間にとってはるかに誇り高く、美しい生き方をもたらしてくれたのです」。
ウイリアムズ「マグワイアさんがおっしゃったように、人々が立ち上がって、もう沢山だと言うことが必要だと思います。マグワイアさんと同じく平和活動家のデビー・ウイリアムズさんは、北アイルランドで何万人もの人々を動員して、もう沢山だと声をあげさせました。今度は世界中の市民一人ひとりがそれと同じことをしなくてはなりません。私達は人権を主張し、擁護しようとします。しかし同時に人間としての責任も考えなくてはなりません。もしあなたがもう沢山だと感じているなら、それを声に出すことが責任です。もし黙っていれば、戦争に賛成している人々の味方になってしまいます。あなたを守るためだという名目で、戦争を続ける人達に力を与えることになるのです。私達一人ひとりが自分なりに行動を起すことが大切です。何も本格的な平和活動家になる必要はありません。自分の生活を放棄する必要もないのです。ほんの少しだけ時間を割いてください。月に一時間、一週間に一時間といった程度で構いません。しかし戦争は人権侵害であると考える人全員が少しずつでも時間を割いたらどうなるでしょう。小さな時間の積み重ねで一体何ができるか考えて見ると、そのスケールの大きさに驚かされます。全世界なんと70%、70%ですよ。それだけ多くの人々が核兵器に反対していると言われます。そのような考えの人々がそれぞれ行動を起したら何が達成できるか想像して見てください。何でもできる筈です。あなたや私のような普通の人が行動することで、普通でないことが成し遂げられるのです」。
道傳「マグワイアさん、非常に難しい問題をお話しされながらも、お顔は健やかだったことに驚きました。しかしこれまでの活動を通して、障害や難題に直面することがあったのではないでしょうか?」。
マグワイア「最大の障害は、私自身の恐怖でした。私達は人間ですから弱い心を持っています。厄介ごとに巻き込まれたくありませんし、民族の絶滅や死に対する恐怖もあります。更に答えを持っていないことも怖いのです。私の最大の障害は、自分が何も知らないということを受け入れることでした。でも大丈夫、ほとんどの人は何も知らないのです(笑い)。知っていたとしても、少しだけです。私は自らの恐怖を克服して、他の人たちから答えを教えて貰い、一緒に取り組むことにしました。そうすれば恐怖から解放される筈です。人と協力すれば、決して一人ぼっちではないからです。答えが分らない時には誰かの所へ行って、助けて貰えないかしらと言うだけの謙虚さを持たなければなりません。恐怖から抜け出して、内なる自由を獲得しましょう。内なる自由は、私たちが闘って手に入れるべき自由です。そうすれば人生を謳歌することができます」。
道傳「ウイリアムズさんは如何ですか。ウイリアムズさんは長年時間をかけて対人地雷禁止運動を進めて来られ、今では千以上の団体が同じ目標に向かって取り組んでいます。核兵器廃絶の取組みにおいても同じレベルの結束が存在していると思いますか?」。
ウイリアムズ「残念なことに、核兵器の廃絶を求める運動においては、市民社会が果たしている役割は未だ足りないように私は思います。その点で言えば、秋葉市長が行っていらっしゃることは素晴らしいと思います。しっかりとした考えを持って活動を始め、ゆっくりと築きあげて行けば、いつか世界の全市長があなたの側に付く日が来るでしょう。しかし今は、あなたや私のような人で成り立っている市民社会は、どうやって政府に圧力をかけて、核兵器を放棄させようかと模索している段階です。先ほども申し上げたこと(筆者註:この部分は放送に入っていなかった)ですが、もう一度指摘しておきたいことがあります。私の考えは今も変わっていないからです。核兵器廃絶に取り組んでいる市民社会には、あまりにも多くの派閥があります。多くの団体が同じメンバーで長期的に活動を続けているため、一つの方法で固定化されてしまう、必ずしも意図的でないにしろ、派閥を作りあげているのです。団体が長く活動すればするほど、自分達が正しいと考えるようになります。感心できることではありませんが、これは当然の結果といえます。そして自分個人が、自分の団体が核兵器廃絶のリーダーとして認知されたいという欲が出てしまうのです。対人地雷禁止運動や、クラスター爆弾禁止運動で私たちが成功したのは、人に認められたいと考えていたメンバーが少なかったからです。全くいなかったわけではありませんよ。実を言うと私の夫は怒るのですが、功績を自分の手柄にしたいと思っている男性もいます。しかし私たちが成功したのは、数人を除いてリーダーになろうという人がいなかったからです。私達の中に絶対的な指導者がいませんでした。ただ素晴らしい活動をした人たちがいて、彼らはその貢献や業績によって認知されていったのです。Executive Directorというような肩書きがついていたわけではありません。彼等がリーダーになったとすれば、それは肩書きのせいではなく、リーダーとしての能力を発揮したからです。残念ながら核兵器廃絶を目指す市民社会の運動には、余りにも多くのセクショナリズムとエゴが存在しており、十分な協力体制がありません。それは核兵器廃絶の最大の足かせになっていると思います」。
道傳「秋葉市長は如何ですか?」。
秋葉「私が一緒に活動している人たちの中に、今のお話にあったような人たちがいると思います。しかし個人的には、ウイリアムズさんが申し上げられたことは余り問題ではないと思います。それは視点が違うせいかも知れませんし、私が男性であることが関係しているかも知れません(笑い)。私が考える問題点というのは、実はそれとは別にあります。核廃絶運動において障害となっているのは、人々の思い込みや考え方だと思うのです。誰もが国家という枠組に囚われて、国こそが神に与えられた自然な単位と考えています。この考え方が非常に大きな障害になっていると思います。最近活躍している日本のロックグループ(筆者註:9mm Parabellum Bulletのこと)が、歌の中でこの問題を的確に表現しています。若者達がこの問題を見抜いていることに私は驚きましたし、とても嬉しく思いました。その歌のワンフレーズでは、「国境は歴史の傷口で、治せる薬を探している」と歌われています。これは核心を突いていると思います。ここで言う傷口を治す薬とは、国境を越えることです。だから私は平和市長会議を提案し、世界の都市が協力できる場を提供しました。市長と市民は日々関りあい、日常的な生活や問題を共有している。だから都市レベルで問題に対応する必要があると。その良い例がアメリカの市長会議です。この会議は人口3万人以上のおよそ1200の都市で構成されており、ルーズベルト大統領の時代に創設されました。当時のニューディール政策では、各地域の草の根レベルの問題を解決できませんでした。市長会議はそのような問題に対応するために生まれ、現在まで続いています。この市長会議の決議を見て見ますと、今年6月に可決されたものは、核兵器の問題と、アメリカの都市や村が抱えている問題をリンクさせる内容になっています。例えば提案された条項の一つは、連邦政府が核兵器の近代化を止めて、代わりにその資金を草の根レベルの雇用の創出や、不況に曝されている都市の再生のために使われるべきだというものでした。つまりアメリカ市民が日常的に曝されている問題に取り組みながら、同時に世界最大の問題を解決する訳です。このような都市レベルから、我々は活力を見いだして行くべきです」。
道傳「ではクリーティンさん」。
クリーティン「市民社会と協力するに当って、何かが足りないというウイリアムズさんのお話に共感しました。皆さんお察しかと思いますが、私は1960年代にベトナム戦争の反対運動に参加していた世代です。この時セクショナリズムとは別に、もう一つ大きな過ちがありました。それは当時の運動が反戦運動に留まり、本当の平和運動に発展しなかったことです。ベトナム戦争が終結したとき、誰もが運動が成功した、さあ、家に帰ろうと思った筈です。しかし、グレナダ、パナマ、アフガニスタン、イラクと次々戦争が起き、そのつど運動を立ち上げることになりました。核なき世界への取り組みは、大変効果的な平和運動の一環だと思います。議員が果たすべき役割もあれば、市民社会の一人ひとりが果たす役割もある。また、団体の果たす役割もあるのです。お互いにコミュニケーションを取り合って、それぞれが誠実に考えてゆく必要があります。個人として、団体として私達はどこにいるべきか、どのように貢献すべきか、この運動にどんなパワーが求められているのか、こういった点を検討し、個人的な見返りを求めずに行動すべきです。これはたった一人で行う運動ではないからです」。

6.過去に対する責任にどう対処するか
道傳「有難うございました。会場からの質問を受けたいと考えていましたが、時間の関係上、事前に提出されたご質問を紹介し、パネリストの1人に伺って行くことにします。このような質問が来ています。核兵器は人類によって発明されましたが、私達は過去に対する責任にどうやって対処すべきでしょうか?ウイリアムズさん、難しい質問ですが、答えをお願いします」。
ウイリアムズ「そうですね、普段はこういった答え方はしないのですが、過去を見るべきではないと思います。マグワイアさんの言葉を借りるなら、許そう、あれは65年前のことだったということです。私達は過去の過ちを2度と繰り返さないために、現在と未来に力を注いで行くべきです。アメリカが65年前に行ったことに対して責任をとらせるには、膨大なエネルギーが必要です。アメリカが現在行っていることさえ、なかなか変えられないのですから。しかし私たちが協力すれば、未来を変えることができるのです。未来にエネルギーを使うべきです」。
道傳「皆さん、どうも有り難うございました。公開討論の終わりの時間が近づいてきました。広島と長崎は核兵器の恐ろしさを今に伝えています。昨日1人の被爆者が、平和は1人では達成できないと話されました。しかしパネリストの皆さんがおっしゃるとおり、私たちが一歩ずつ前に進むことで、広島と長崎は核なき世界への私達の思いを伝える都市となるでしょう。パネリストの皆さん、本日はどうも有り難うございました」。

おわりに
 草稿作りのためにじっくり聴き直して、パネリスト達が発信したメッセージの重みを再認識しました。常に穏やかな表情で非暴力と思いやりを説いたマグワイアさん、対人地雷禁止条約締結したウイリアムズさんの率直な提言、市民や議員を巻き込み、教育活動を通じて、理解の浸透を進めるウェアさん、反戦運動と平和運動について洞察ある見解を述べたクリーティンさん、そして世界平和市長会議が策定した2020 Visionを提示した秋葉さんなど、それぞれ特色のあるメッセージでした。また、客席からのトートさんの発言にあった、アメリカの軍事専門家の間で核兵器は資産ではなく、負債であるとの認識が広まっているとの情報に必然性を感じました。
 今年の長崎平和宣言に、田上市長は原発の持つ危険性について従来より踏み込んだ文脈を盛り込みました。核兵器のように厳重に管理されているものと異なり、原発は自然災害がなくとも、様々な危害から安全に守られているとは程遠い状況にあります。ひとたび想定外のことが起きたらどうなるかは、現在検証中のようなものです。自然災害も含めて、原発をあらゆる災厄に対処できるようにするには膨大な資金を要するでしょう。自然エネルギー利用は金がかるからと取り合わない論理は、説得力を失いつつあります。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <シリーズ エネルギー革命... | トップ | 映画カウントダウンZEROを見て »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事