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平和主義の原点は憲法にあった~NHKスペシャル「憲法70年“平和国家”はこうして生まれた」を視聴して~

2017-05-18 12:45:30 | Weblog

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目 次
1.はじめに
2.戦後間もなく昭和天皇が読み上げた平和国家確立を願う勅語のインパクト
3.平和国家確立のメッセージのGHQへの伝達
4.再建に向かう国内の動向
5.幣原首相がマッカーサーに戦争放棄を提言
6.マッカーサーがGHQ草案提示を急いだ背景
7.衆院小委員会での審議1:積極的平和機構への参加
8.衆院小委員会での審議2:国際条約と法規の誠実な遵守
9.考察
考察1:憲法に盛り込まれた平和主義の真髄
考察2:押し付け憲法論
考察3:天皇の存在
考察4:資料の保存と開示
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1.はじめに
 日本国憲法施行後70年を迎えた今年、NHKは特別番組でこれまで極秘とされてきた多く資料の調査をもとに、第二次大戦終結後から現日本国憲法施行まで1年8カ月の動きを報じた。敗戦直後、明治憲法下で開かれた国会で平和国家を掲げた昭和天皇の勅語から、マッカーサー元帥率いる連合国軍総司令部(GHQ)による日本国憲法草案(GHQ草案)の提示を経て、草案に含まれていなかった《国際平和を誠実に希求し》の文言が、衆議院特別小委員会で生まれた超党派的合意によって盛り込まれるまでを追ったものである。第二次安倍内閣発足以来、何かと国権に配慮した報道姿勢が見られるNHKであるが、よくぞここまで報じてくれたと思った。順を追って放送内容の概要を整理して記述し、考察の中で積極的平和主義を標榜して改憲にひた走る安倍政治に私見を述べたい。

2.戦後間もなく昭和天皇が読み上げた平和国家確立を願う勅語のインパクト

 1945年(昭和20年)9月2日、日本は降伏文書に調印、ポツダム宣言を受け入れ、非軍事化 民主化を進めることになった。9月4日、明治憲法下で統治権の全てを握っていた昭和天皇が戦後最初の国会を召集し、「平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことをこいねがう」と勅語を読み上げた。昨年、国立公文書館で勅語ができるまでの極秘の草案が見つかった。草案は4案まであり、1案にあった国體(註;こくたい:天皇を中心とした国のあり方)の護持が第2案で消え、第3案(下図左)で平和的日本の建設が当時の東久邇宮首相により加筆されたことがわかった。東久邇宮首相は同じ国会で「潔く自ら誓約せるポツダム宣言を誠実に履行し、誓って信義を世界に示さん」と演説している。歴史学者の和田春樹東大名誉教授はこの平和国家確立の勅語で、日本がこれまでの戦争をしてきた道を否定して、平和国家で行くことが明確になり、敗戦後間もない日本に大きな影響を与えたと語っている。宮澤俊義東大教授はいち早く反応し、勅語を報じた記事を切り抜いて、大学の講義に用い、「原子爆弾のようなものが発明された今日、戦争を行うということはどう考えても無意味である」と、武器なき国家を戦後日本の姿として思い描いていた。文部省も9月15日に平和国家建設を柱とした教育方針を発表した。昭和天皇が掲げた目標は、敗戦から僅か一ヶ月の教育現場でも大きな方針となっていたのである。




3.平和国家確立のメッセージのGHQへの伝達

 明治憲法下で天皇は陸海軍を統率する大元帥であり、国際社会から厳しい目を向けられていた。昭和天皇の平和国家のメッセージはどのように海外に伝わったのであろうか。戦後初めて天皇と会見した外国人は、NYタイムスのフランツ・クルックホーン記者であった。クルックホーン記者の回想録が、甥のもとで非公開のまま眠っていた。それには昭和天皇が「平和が訪れて喜んでいる、マッカーサー元帥に協力する」と語った旨の英文が記されていた。宮内庁には、クルックホーン記者の事前質問に対する昭和天皇の英文の回答文書「恒久平和は銃剣を突きつけて確立することはできない。平和の問題を解決するのは自由な諸国民の非武装による和解である。平和が訪れて喜んでいる、マッカーサー元帥に協力する」が残されていた。英文の回答を書いたのは、戦前外務大臣を務めた幣原喜重郎氏であった。クルックホーン記者と会見の二日後の9月27日、昭和天皇はマッカーサーを訪ね、平和の基礎の上に新日本を建設することを伝えた。天皇が占領政策に協力することを確認したマッカーサーは、日本政府に憲法改正を促していくことになった。

4.再建に向かう国内の動向
 従来、敗戦直後の日本政府は憲法の改正に消極的だったと考えられていた。ところが3年前に公開された昭和天皇実録により、天皇と憲法の関わりが明らかになった。敗戦後一ヶ月あまりの9月21日、昭和天皇は近衛文麿元首相に憲法改正問題について調査を依頼していた。当時近衛氏が持ち歩いて手帳のメモ書きによると、近衛氏は国民多数の意向に従った訓民一致こそ新しい憲法にふさわしいと考え、天皇の軍の統帥権など大権を制限することで明治憲法の改正を進めようとしていた。これとは別に、10月9日に新たに選ばれた幣原喜重郎首相は、内閣に憲法問題調査委員会を設置し、元東大教授の松本蒸冶国務大臣が委員長に就任した。ところが連合国に対する戦争犯罪を裁く東京裁判に向けてGHQによる戦争指導者たちの逮捕が進み、12月16日早朝、逮捕状を出された近衛氏の服毒自殺によって昭和天皇のもとで始まった調査は挫折し、憲法改正の調査は幣原首相が設置した憲法問題調査委員会が担うことになった。
1946年元日、昭和天皇が神格を自ら否定する人間宣言を行った。ワシントンのアメリカ国立公文書館には、アメリカ陸軍がその頃の日本の動きを撮影した記録アルバムが所蔵されている。幣原内閣、昭和天皇の動向、学習院の授業風景などの中に、初等科6年だった今の天皇の《平和国家建設》と記された新年書初めの写真(2項と3項の間の図右)もあった。アメリカは平和国家建設、平和国家の理念が日本広がりつつあることを把握していたのである。



5.幣原首相がマッカーサーに戦争放棄を提言
 東京裁判の開廷を前に、国際社会にあった昭和天皇の戦争責任を追求する声を憂慮した幣原首相は、1月24日にマッカーサーを訪ね、通訳もつけず二人で3時間にわたって話し込んだ。その内容を伝える鉛筆書きのメモ(羽室メモ、上図)が残されていた。幣原首相から友人が聞き、その息女が書き残したものである。幣原首相は是非天皇制を維持させたいと協力を依頼し、マッカーサーは一発の銃声も一滴の流血もなく進駐できたのは日本の天皇の力による所が大きいと応じた。幣原首相は戦争を放棄すると世界に声明することが、日本を信用してもらえる唯一の誇りとなるのではないかと提案し、大いに二人が共鳴したと羽室メモに記されていた。幣原首相の孫の幣原隆太郎氏は祖父のことを「天皇をとにかく守りたい 皇室を守りたいという気持ちはすごく強い人だった。神がかったことは一切やめて 天皇陛下は平和主義だとすごく思っていた」と語っている。幣原首相は戦争放棄の提案について、「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるがことなきよう」と書き残している。



6.マッカーサーがGHQ草案提示を急いだ背景
 平和国家の理念を掲げる宮澤俊義教授は、幣原首相の設置した憲法問題調査委員会のメンバーであった。極秘にされていた議事録によると、宮澤教授らは明治憲法で天皇の軍の統帥権を定めた第11条など軍の規定の全面削除を主張した。しかしこの主張は、明治憲法改訂に消極的な松本委員長ら多数派に遮られた。かくするうちに、日本政府の憲法改正案が2月1日にスクープされた(上図)。そこには、天皇を中心とする君主主義がそのまま認められていた。直ちに条文を分析したGHQはこの案を極めて保守的と批判し、マッカーサーはGHQが憲法の草案を作成することを決断した。マッカーサーが急いだ背景には極東委員会の存在があった。極東委員会には旧ソビエト連邦やオーストラリアなど天皇制に厳しい意見を持つ国も加わっており、連合国の日本占領の最高機関として2月下旬に発足、GHQを管理することになっていた。2月3日、マッカーサーは新たな憲法の基本原則、いわゆるマッカーサーノートを示し、GHQ民政局に1週間で憲法草案を作成するよう命じた。そこには後の憲法9条につながる戦争の放棄を定めた国権発動としての戦争廃止、戦力の不保持、交戦権の否認に加えて、自己の安全を保持するための自衛戦争の否定が含まれていた。しかし自衛戦争を否定した文脈は、草案作成を担当した(註:番組では戦争放棄の条文を担当と放送されたが)民生局次長のチャールス・ケーディス大佐によって、武力による威嚇又は行使の放棄に入れ替えられた。1992年に撮影され映像の中で、ケーディス氏は「どんな国であれ、自衛の権利は本来的に持っていて当然のものです。自国が攻撃されたら自分で守る権利を否定するのは非現実的だと思った。紛争解決の手段としての武力による威嚇は放棄すると加えました」と語っている。
 2月12日に完成したGHQ草案には多くの人権規定が盛り込まれ、天皇は象徴とされた。翌日GHQは憲法草案を日本側に示し、次のように伝えた。「マッカーサー元帥は天皇制に対する連合国の批判に耐え切れなくなるかもしれない。しかし我々の草案の基本原則を受け入れれば、天皇の身は安泰になるであろう。逆に日本政府が拒否すれば マッカーサー元帥はこの草案を日本国民に公表し、国民投票にかけることを決意された」。日本政府はGHQ草案を受け入れた。4月、戦後初の総選挙が行われ、吉田 茂氏が首相に就任、衆議院の小委員会でGHQ草案をもとに憲法改正案作成について審議されることになった。



7.衆院小委員会での審議1:積極的平和機構への参加
 昭和21年7月25日からおよそ一ヶ月にわたり、各政党の法律の専門家ら14人の議員達が集まり、帝国憲法改正案をめぐる議論を戦わせた。戦後50年間秘密にされていたこの会議の速記録が近年公開され、日本人の手で多くの条文が追加、修正されたことがわかった。第25条の生存権、第26条の義務教育の中学までの延長、そして上図にあるように、第9条冒頭に【日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し】の文言が加えられたことが明らかになった。9条について提言したのは日本社会党の鈴木義男議員で、その主張はただ戦争をしない、軍備を棄てるでは消極的な印象を与えるから、冒頭に平和を愛好する旨の文言を追加することであった。日本進歩党の犬養 健議員や、日本自由党の芦田 均委員長らも賛同の声があげた(下図は速記録と鈴木議員)。



 法学者の鈴木氏には、第一次世界大戦後の欧米への留学体験があった。第一次世界大戦の戦死者1千万人近くに上った。終戦後の1919年に開かれたパリ講和会議で、平和を求めて国際連盟が設立された。国際協調と戦争を違法化する新しい考え方を学んだ鈴木氏は、帰国して東北帝国大学教授に着任した。しかし日本は軍国主義に向かっており、教育現場に軍人が配属されて軍事教練の強化が進められていた。この動きを殺人術の教育と反対して新聞で訴えたことが問題になり、やむなく辞職した鈴木氏は治安維持法に問われた人々の弁護に取組んだ。同じ頃、旧満州中国東北部に進出した日本は国際的孤立の道を歩きだし、国際連盟の勧告に反発して1933年に連盟を脱退した。再び起こった世界大戦、太平洋戦争では日本人だけで310万人が犠牲となった。何故2度の世界大戦を防げなかったかの反省から1945年に国際連合が設立され、国際社会が協力して平和を維持しようという動きが生まれた。国際連合が誕生して行く世界を見つめて国会議員となった鈴木氏は、「我々はあくまでも積極的平和機構への参加政策をとるべきである」と発言している。鈴木氏の孫で国際関係史を研究する油井大三郎氏(一橋・東大名誉教授)は、9条に平和の文言の追加を主張した祖父の真意を、「戦争はこりごりだという消極的な考え方だけでなく、国際連合という平和維持の国際構想の中に9条を積極的に位置づけ、日本人自身の問題として、戦争を二度と繰り返さない制度を作らないといけない」と受け止めている。二度の対戦を経て国際平和に動き出した世界に、日本が積極的に参加すべきだという鈴木議員の提案を芦田委員長が受け止めた。

8.衆院小委員会での審議2:国際条約と法規の誠実な遵守

外交官出身の芦田氏は、戦前軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていた。芦田氏は外務省から提出された「国際信義を重んじて条約を守る」ことがあって欲しいと要望する資料を提示した。NHK取材班はこの資料を発見した。作成したのは萩原 徹条約局長で、戦前大陸に進出して国際連盟を脱退したドンキホーテ式外交が日本の伝統的な外交を破壊したとして、憲法修正が及ぼす国際的影響を考察のうえ、国際法規を憲法とともに尊重するよう求めていた。これを受け、憲法第98条に第二項「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」が追加された。
小委員会では芦田委員長がこの外務省の資料を9条の修正に生かそうとしたことから、各党の委員から争うように条文が提案された。7月29日、再開された小委員会で芦田委員長が提示した「日本国民は正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず国の交戦権を否認することを声明す」との試案から、鈴木議員の提言で最後の「ことを声明す」削除され、憲法9条の平和主義が誕生した。
 以上のように第9条の冒頭の条文は、衆議院の小委員会における鈴木義男議員の発言、国際秩序と条約の遵守を求める外務省の意向を受け、14人の国会議員による党派を超えた議論の末に生み出されたことが、新たな資料から明らかになったのである。それは国際連合へと歩み始めた世界の動きを見据え、日本が積極的に平和を担おうとする考え方から生まれたもので、そこには多くの犠牲者を出した先の大戦への反省の念が込められていたのであった。



 昭和21年11月3日日本国憲法が公布された。鈴木義男氏は新憲法を解説した本(新憲法読本)で次のように述べている。「憲法の一大特徴は 平和主義 国際協調主義を根本としている。今度われわれは国を建て直すことになったのであって、これは世界の憲法史上画期的なものである



考察1:憲法に盛り込まれた平和主義の真髄
 この番組を視聴するまで、戦争放棄を掲げた平和憲法は海外派兵しないという消極的姿勢に留まらず、国際平和の維持に積極的に関わって行くことを意図したものであったことを知らなかった。この構想は新憲法草案を審議する衆議小委員会で鈴木義男議員が発議し、多数の議員達の賛同を得て盛り込まれたものであった。新憲法発布後の朝鮮動乱勃発、東西対立の激化、アメリカの占領政策の変化の中で創設された警察予備隊は、次々姿を変えて専守防衛に不似合なほど強大な自衛隊になった。1960年代からの高度経済成長で日本は豊かな国になり、発展途上国にODA(政府開発援助)で経済支援を行ってきた。これは確かに国際的平和貢献と言えよう。しかし安全保障条約を結んでいるアメリカには金だけでなく、血を流せと要求する要人もおり、それを梃に集団的自衛権の行使による自衛隊の海外派兵が目論まれている。安倍政権は十羽一絡げの安保法案改訂によって日米軍事同盟を深化することを積極的平和主義と主張しているが、軍事的抑止力に依存した旧態依然の構想である。中国との尖閣諸島を巡る対立や北朝鮮問題など安全保障環境の変化を問題視する向きもあるが、これらは人の心に生じた問題であり、軍事産業を利する抑止力増強の理由づけに利用されている。戦乱が続くアフガニスタンやイラク情勢は、軍事行動に頼る平和構築の無謀さを証明している。戦後間もなく宮澤俊義教授が語ったように核兵器が搭載されたミサイルが飛び交えば、今まで世界が経験したことのない惨禍が必至であり、外交交渉の深化による解決を目指さねばならない。唯一の戦争による被曝国として、日本はアメリカとの安全保障のくびきがあっても、核兵器禁止に向けて積極的に取り組むことこそ積極的平和主義といえよう。また、地球温暖化の危機が迫りくる今世紀、演習を含む全ての軍事行動が無意味な環境破壊につながることの周知に努めるべきである。

考察2:押し付け憲法論
 自民党の党是は、GHQに押し付けられた現行憲法の改訂であるという。本来は憲法を護ることを義務付けられている安倍首相がことあるごとに自民党総裁の立場と使い分けているのは実に見苦しい。今回の番組によると、幣原首相の意を受けたマッカーサーが、極東委員会の発足による昭和天皇の訴追を避けるためにGHQ草案作成を急がせたという。確かに僅か一週間余りでの作成とは信じ難い芸当との印象を免れない。しかし今回は放送されなかったが、憲法学者の鈴木安蔵氏ら7人の日本人が草案作成に重要な関わりを持っていたことが分かっている。彼等は1945年11月に発足させた憲法研究会で議論を重ね、12月26日に全58条からなる憲法草案を作成し、日本政府とGHQに届けた。この草案要綱は国立公文書館に所蔵されている。そこには国民主権や象徴天皇制につながる考えが盛り込まれていた。日本政府から反応がなかったが、GHQの反応は違っていた。当時民生局法規課長だったマイロ・ラウエル中佐は、後の取材で民間人の作った草案に衝撃を受け、それを基に修正を加えればGHQ草案ができると思ったと語っている。また、オーストリアで生まれで幼少期に来日し、アメリカの大学に学び、GHQで通訳を務めたベアテ・シロタさんという当時22歳の女性がGHQ草案作りに参画し、憲法24条の男女平等の権利と両性の合意による婚姻という当時にしては先進的な考えの盛り込みに尽力したという。戦後レジームからの脱却を標榜する安倍氏ら守旧派は、憲法が押しつけであったという被害者意識を喚起させて、現行憲法が保証している国民主権を制限して国家管理を優先させようとしている。今の日本は放っておけば強権独裁政治につながりかねない危険な段階にある。

考察3:天皇の存在
 筆者は終戦翌年の1946年に小学校に入学したので戦前教育の洗礼を受けなかった。しかし天皇が統治権の全てを握ってきた社会で、突然読み上げられた平和国家の確立と人類文化への寄与を願う勅語は、和田春樹名誉教授が語ったように当時の社会に大きなインパクト与えたと思う。こうした昭和天皇の姿勢がマッカーサー率いるGHQによる円滑占領政策の遂行を利したことは否定できない。アメリカのブッシュ大統領はイラク戦争後に戦後日本のような占領当時を期待したが、フセイン体制崩壊後のイラクは未だに混迷を極めている。アフガニスタンもしかりである。憲法施行後70年、昭和天皇と今の天皇の尽力により、象徴天皇の概念が日本社会に定着してきたと思われる。番組に今の天皇が小学校6年時の「平和国家建設」の書初めが出てきたのは驚きであった。天皇は節目の日々や激戦地への慰霊の旅や被災地への見舞いの旅で、欠かさずによく推敲された文脈で平和に言及される。そこには多くの人々の共感を呼ぶ響きがある。象徴天皇は政治に参画する立場にないが、影響力のある立場に立った時に望まれる資質なしにはできないことである。誤った積極的平和主義を標榜する安倍首相のスピーチが空虚な強がりに響くのは残念なことである。

考察4:資料の保存と開示
 番組で節目、節目の文書や音声が大切に保存されていたことに感銘を覚えた。終戦後間もない明治憲法下で開催された国会で昭和天皇が読み上げた勅語作成に至る資料、昭和天皇と会見したアメリカ人記者の回想録、マッカーサーと戦争放棄を語り合った幣原首相からの聞き語り(羽室メモ)、今の天皇の少年時代の書初め、GHQ草案作成にあたったケーディス大佐の証言、衆院小委員会速記録など現行日本国憲法誕生に至るまでの節目、節目に当たる歴史的資料が保存されていたのは素晴らしいことである。情報伝達手段や保存法が格段に高度化された現在、当然記録されるべき重要な会合の議事録が取られていなかったり、消去されていたりすることをしばしば見聞きする。今や安倍政権の常套手段と化した閣議決定もその例に漏れない。また、開示を請求されて出された資料が大部分黒塗りされているのが驚くに当らなくなっている。勿論現時点で公開が不適切なものもあろうが、時の権力者の意向で消去されたり黒塗りされたりしているとしたら由々しいことである。憲法作成過程とことなり、旧日本軍関係の資料は敗戦の際に大部分焼却されて多くのことが不問にされた。今問題になっている森友学園の問題でも、籠池元理事長を国会で証人喚問する一方、他方の関係者が無言を決め込んでいるのは強権政治の現れではないだろうか。

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