たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「楽聖」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(最終話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Ludwig van Beethoven】
甥カールに悩まされたベートーヴェンでしたが、今日はその最終話です。
(第14話)【友よ、喜劇は終わった】
甥カールの一軒が落ち着いた頃、1926年9月にはもう一人の弟ヨハンがベートーヴェンの元を訪れ、ウィーン西部の自宅へ招待します。ベートーヴェンはカールを連れてヨハンの自宅があるグナイクセンドルフへ向かうことになります。
大きな農場を手に入れていた弟ヨハンの住むグナイクセンドルフは、小さな村でしたが、ベートーヴェンにとっては落ち着いた日々を過ごすことになります。
ここで作曲にも取り組みますが、、やはりウィーンを離れると作品の出版の事や持病が気になったため、12月にはウィーンへ帰る駅馬車に乗ります。
しかし、帰りは粗末な馬車しか用意できなかった事に加え、寒さも厳しくなり始めるこの頃に、加えて帰る途中に一泊した宿には暖房設備が無く、悪環境の中ベートーヴェンは肺炎を起こしてしまうのでした。
ほうほうの体でウィーンにたどり着いてはみたものの、今度は医者の都合が付かず、往診までには2・3日もかかってしまったようです。しかしながらようやく肺炎の症状は治まり事なきを得たように見えました。
ところが、一週間もしないうちに今度は激しい腹痛がベートーヴェンを襲います。医師の診断により、開腹手術が行われる事になります。この話を聞いた弟ヨハンもすぐに駆けつけ、必死で看病を続けます。12月中に手術が行われますが、病状はなかなか安定しなかったようです。
明けて1827年1月、甥カールが軍隊へ入隊するためチェコへと旅立ちます。その後、溜まった腹水を取り除く開腹手術を2度3度と繰り返しますが、きりがなく、ベートーヴェンの体力は衰えるばかりになってしまいます。
これにはベートーヴェンも最期を悟ったようにして、遺産を全て甥カールに残す旨の遺書をしたためます。
こうして、いよいよ病状に見込みが無くなると医師も延命治療から痛み止めの治療に変わってきます。すると気分のいい日には見舞い状の返信をしたためたり、作曲にも意欲を見せたと言われています。
「ヴェートーヴェン重体」の噂は瞬く間に広がり、各地から見舞いに訪れる人が現れたようです。更に、結局訪れることが無かったロンドンからも、ベートーヴェンの才能を買っていたフィルハーモニー協会から多額の見舞金が送られるのでした。
しかし、こうした数々の見舞いとは裏腹に、病状は悪化の一途をたどり、見舞いに訪れた人々に「喝采せよ友よ、喜劇は終わった」と彼なりのユーモアを聞かせると、昏睡状態に陥り数日後、享年56歳の生涯を閉じるのでした。
死後、検死解剖が行われるとウィーンでは壮大な葬儀が行われたようです。音楽にその生涯を懸けて、全身全霊を注いだ彼の音楽が今も情熱的に聴こえてくると、ベートーヴェンの人柄を思わせるようです。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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≪作曲家の肖像≫
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甥カールに悩まされたベートーヴェンでしたが、今日はその最終話です。
(第14話)【友よ、喜劇は終わった】
甥カールの一軒が落ち着いた頃、1926年9月にはもう一人の弟ヨハンがベートーヴェンの元を訪れ、ウィーン西部の自宅へ招待します。ベートーヴェンはカールを連れてヨハンの自宅があるグナイクセンドルフへ向かうことになります。
大きな農場を手に入れていた弟ヨハンの住むグナイクセンドルフは、小さな村でしたが、ベートーヴェンにとっては落ち着いた日々を過ごすことになります。
ここで作曲にも取り組みますが、、やはりウィーンを離れると作品の出版の事や持病が気になったため、12月にはウィーンへ帰る駅馬車に乗ります。
しかし、帰りは粗末な馬車しか用意できなかった事に加え、寒さも厳しくなり始めるこの頃に、加えて帰る途中に一泊した宿には暖房設備が無く、悪環境の中ベートーヴェンは肺炎を起こしてしまうのでした。
ほうほうの体でウィーンにたどり着いてはみたものの、今度は医者の都合が付かず、往診までには2・3日もかかってしまったようです。しかしながらようやく肺炎の症状は治まり事なきを得たように見えました。
ところが、一週間もしないうちに今度は激しい腹痛がベートーヴェンを襲います。医師の診断により、開腹手術が行われる事になります。この話を聞いた弟ヨハンもすぐに駆けつけ、必死で看病を続けます。12月中に手術が行われますが、病状はなかなか安定しなかったようです。
明けて1827年1月、甥カールが軍隊へ入隊するためチェコへと旅立ちます。その後、溜まった腹水を取り除く開腹手術を2度3度と繰り返しますが、きりがなく、ベートーヴェンの体力は衰えるばかりになってしまいます。
これにはベートーヴェンも最期を悟ったようにして、遺産を全て甥カールに残す旨の遺書をしたためます。
こうして、いよいよ病状に見込みが無くなると医師も延命治療から痛み止めの治療に変わってきます。すると気分のいい日には見舞い状の返信をしたためたり、作曲にも意欲を見せたと言われています。
「ヴェートーヴェン重体」の噂は瞬く間に広がり、各地から見舞いに訪れる人が現れたようです。更に、結局訪れることが無かったロンドンからも、ベートーヴェンの才能を買っていたフィルハーモニー協会から多額の見舞金が送られるのでした。
しかし、こうした数々の見舞いとは裏腹に、病状は悪化の一途をたどり、見舞いに訪れた人々に「喝采せよ友よ、喜劇は終わった」と彼なりのユーモアを聞かせると、昏睡状態に陥り数日後、享年56歳の生涯を閉じるのでした。
死後、検死解剖が行われるとウィーンでは壮大な葬儀が行われたようです。音楽にその生涯を懸けて、全身全霊を注いだ彼の音楽が今も情熱的に聴こえてくると、ベートーヴェンの人柄を思わせるようです。
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