いつも礼拝の最後に捧げる「主の祈り」
教会に導かれたばかりの御婦人がある日、牧師さんに問われました。
「今、私は気持が混乱しています。どのように祈っていいのかわからないのです。」
牧師さんは静かにおっしゃいました。
「主の祈りをご一緒に捧げましょう。」
その場に同席していた私もご一緒に手を合わせ、声をあわせ祈り始めました。
祈りについて記されている聖書箇所があります。
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あるとき、イエスは外で祈っておられました。
ちょうど祈り終えたところへ一人の弟子が来て、
「主よ。バプテスマのヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」
と願いました。
そこでイエスがお教えになった祈りは、こうでした。
「天のお父さま。
あなたのきよい御名が、あがめられますように。
あなたの御国がすぐに来ますように。
私たちに日々必要な食物をお与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも、私たちに罪を犯した者を赦します。
私たちを誘惑に会わせないでください。」
ルカによる福音書11:2~4 (リビングバイブル)
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「罪」とは的がはずれていること。
人間が神さまの望まれるご意志から外れることを意味しています。
3月9日に新たなブログを書き始めました。
人は皆「土の器」です。
日々、神さまに創られていく者同士。
互いに赦し合って助け合っていく先には希望があります。
神さまが望んでいらっしゃること。
昨日のお祈り会ではっきりと知りました。
牧師さんが執り成してくださった御言葉によって知りました。
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こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。
わたしを裁くのは主なのです。
ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。
主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の企てをも明らかにされます。
そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 4:1~5
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あなたはあなた自身の務めを全うしなさい・・・
神さまの秘められたご計画の管理者・・・・それぞれがどう担っていくか・・・「忠実であること」が求められています。
人を恐怖に陥れ、脅しを訴えるような誘惑から護られて神さまに絶対的な信頼をおいて自分の務めを全うする。
「神さまに裁かれるのでは・・」とびくびくして生きるよりも
「きっと、そのとき、神さまのおほめにあずかれる!」という信頼をもって今日、明日を生きていくこと。
お祈り会を過ごし御言葉による心の平安が増し加えられました。
主の祈りの最後の言葉はこう続きます。
国と力と栄とは 限りなく なんじのものなればなり。 アーメン
※この国を愛してやまない神さまへの信頼に身をおいて祈ります。
今、総理大臣はじめリーダーとしてそれぞれの立場で働きを担っていらっしゃる方々のためにお祈りを捧げます。
どうか人からの裁きを恐れずに神さまに忠実にその働きを全うしてくださいますように。
働きの管理者の忠実さの先には・・・・神さまのおほめにあずかるときが備えられていますから。
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