写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

「型」と「所作」

2016年03月06日 | 随想

混雑した電車に妊婦が乗ってきて、それを見た学生らしき女性がサッと起ち上がって座るよう勧める…そこに流れるナレーションが、「心は誰にも見えないけれど こころづかいは見える」。

老婆が階段をしんどそうに昇っていて…そこに流れるメッセージが、「思いは見えないけど 思いやりはだれにでも見える」。…東日本大震災の直後に流れたAC公共広告機構CMの1つだ。

 

見た人の気持ちをほのぼのとさせたと思うが、席を譲ったり譲られたりすることに対しては、譲られたほうが「年寄り扱いするな!」と切れてみたり、いろいろとドラマやエピソードが生まれていたりしているようである。

今日もどこかで『電車の席ゆずり』エピソードというサイトには、読んでいるだけでウルッとなりそうなエピソードがいくつも紹介されてたり、ハイキング帰りの高齢者グループへの若者の対応とかには自分のトシも忘れて爽快感を覚えてみたり…で、我が実体験を吐露すると…、

若い頃、出張で都会の電車に座っていたとき、とある駅で老婆が乗り込んできた・・・こちとら、早速、眠ったフリをしようとして目を閉じかかったときのこと、斜め前に座っていた女子高生(確か本を開いてたなぁ・・・)が、さり気なく…、ほんッと~に さり気なく、スっと起ち上がってこちら側のほうに歩いてきて外側の景色を見るような格好で立った・・・。その気遣いを、老婆も察知してか軽く女子高生のほうに会釈してストンと座った・・・。まぁ、それだけの体験というか、思い出、である。

そのときの、都会の人たちの阿吽の呼吸というか、サラリと何事も無いことのような立ち居振る舞いというか、マナーの良さというか、暖かさというか・・・・・・、眠ったフリをしようとした自分の小ささ、情けなさに恥じ入ってしまった記憶がある。強烈な反省事項であった。

そういうときの「言い訳」もちゃんと用意してて、「遠いところから仕事で来てるんで(座っているのが当然・・・)」。当時は電車の中のサラリーマン諸氏という種族は隣に遠慮もせずに大きく「日経新聞」を広げていたり、雑誌「日経ビジネス」と睨めっこをしていたり・・・。んなもの、ポーズだけやん・・・と思っていた我が身だったが、まぁ こっちも似たような者だった訳だ。

今、咄嗟にそういう、席を譲るとかの行動ができるか、と問われれば、これがまたはっきり言って自信が無い。少し考える時間があれば、あるいはできるかもしれないが・・・タイミングを逃してしまっているような気もするし・・・。そろそろ譲られるトシにもなっている自覚もないし、まぁ、なかなか「できた人間」にはなれないようで。。。。

世の中には、利発な「できるヤツ」というのは結構多くいても、「できた人物」というのはそんなにいないもののようでして…。

 

冒頭の、「心は誰にも見えないけれど・・・」のソースである宮澤章二著「行為の意味」を買ってみた。

 

元の詩にも、書名と同じ「行為の意味」という題がついている。内容は、

  ―――あなたの〈こころ〉はどんな形ですか

  と ひとに聞かれても答えようがない

  自分にも他人にも〈こころ〉は見えない

  けれどほんとうに見えないのであろうか

 

  確かに〈こころ〉はだれにも見えない

  けれど〈こころづかい〉は見えるのだ

  それは人に対する積極的な行為だから

 

  同じように胸の中の〈思い〉は見えない

  けれど〈思いやり〉はだれにでも見える

  それも人に対する積極的な行為なのだから

 

  あたたかい心があたたかい行為になり

  やさしい思いがやさしい行為になるとき

  〈心〉も〈思い〉も初めて美しく生きる

  ―――それは人が人として生きることだ

 

ん~っ、こんな長ったらしい原典よりもテレビCFのほうがよっぽど優れているように感じる(涙)・・・。

 

ついで、なのだが、Youtube ではパロディ版も出ており、すっから菅直人を採り上げて、「心は見えないけれど 下心は見える」(ミエミエ)、「思いは見えないけど 思い上がりは誰にもわかる」(どゃ!)、エーシ~・・・Aかげんに Cや!、というもの。うまいなぁ。

 

 

「行為の意味」とは、つまり、心の中で何を考えてても、何を思っていても、それが「行為」とか「行動」によってしかわかってもらえない、表現のしようがない、ということである。

よく、「カタチ」から入る、とか言われるが、その「カタチ」が持続化の努力を経て洗練・完成したものが「型」と呼ばれるものであり、そこには機能性や合理性、安定性をも有し、一種の「美学」をも形成している。

そういう、決められた動作である「型」というものの代表的なものが「茶道」であろう。「お点前」という「型」によって、お点前に込められているを表しているのであり、その一連の決められた動作が「作法」と呼ばれている。

礼儀作法」に代表されるように、決められた動作である「型」をこなしていくことで、心を表現していくのが日本文化であり、「型」を身に付けることによって「心」が身に付くのである。あるいは、「心」を形成していくには「型」を身に付けることが最良の「手段」となるのである。「型」そのもの、「型」の行為・行動そのものが目的となっている訳では決してない。

 

「型」だけを見て「カッコだけ・・・」と過小評価したり、「ここは『略式』で・・・」というのが昨今の風習のようだが、本来、決められた「型」、「所作」には、その背景に先人たちの大いなる蓄積があるということをわきまえていなければ、文化そのものが無くなっていくという危機意識も必要だろう。

・・・そういうふうに思うようになってきたので、近日中に「『型』と日本人」という本も買ってみたいと思っている。