写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

クマ~

2023年11月13日 | 随想

クマが出没するので柿の木を切ることを推進しているようだが、切ってしまえば新しく柿を食べれるまでに8年かかることになる。(「桃栗三年柿八年」の続き・・・・続きは「柚子の大馬鹿18年、林檎にこにこ25年、銀杏のきちがい30年・・・」と続くらしいが、クマの好物だというブナ(橅)が実をつけるまでには約50~60年ほどかかるらしい。その後は5年〜10年に一度しか実をつけないらしいので、つまりほぼ毎年『不作』状態。「今年はブナの実が不作で・・・」というのはごく通常の状態。)

柿の木も、せめて枝打ちか剪定くらいで止めておけばよいものを、とも思うのだが、バッサリやれ、というその意図するところは翌年のクマ出没の対策のため、なのであらうか・・・。

 

出没」するのであって「出現」するのではないのは、「出没」というのは「現れたり隠れたりする」から「没」の字を使うのであって、隠れていたものなどが「きちんと姿をあらわす」と「出現」という言い方をするようになる。

クマもいきなり出会ったりすると驚いてしまって咄嗟に襲撃してくるのであって、常に見えていれば襲うよりも逃げるほうが賢明だと判断することのほうが多くなる。

なので、クマ被害を少なくする(無くすことは無理だろう)ために、至る所に防犯カメラを設置して、クマが出た場合にはピンポイントで警報音を出したりして、クマに「ここは来るところではない」と気づかせてやる、という方策が有効だろう。併せて、「クマさんに出会った」ということを場所や時刻とともに正確に付近住民に知らせることができる。不確かな情報は不安を増大させる(クマ出たぁ、いつじゃあ、どこじゃあ?」とか)が、正確な情報は不安を鎮めてくれる

いわば「カメラ設置」という、「カネで解決できる問題」なのである。クマで有効なら、本来の「防犯」にも有効だろう。

 

これ、日本古来の美徳である「お天道様が見ている」という自戒の作用が働かなくなったようなので、「防犯カメラ」を「お天道様」のかわりにしていけば、社会のためには有効な対策となるであろうという、結構考え抜いた方策を披露している。

 

1対1ではクマに分がある(でもときどき老人に巴投げで投げられたり、指で目潰しをかまされて逃げ帰ったりすることもあったりする)が、こちとら圧倒的に数で勝っているのだから、何も大勢できゃあきゃあと逃げ惑うだけが能じゃない、ということだ。

 

余談だが、「能」の下に「」と、点を4つ並べると「熊」という字になる。この「」の部首名は「れんが(連火)」とか「れっか(烈火)」とか呼ばれており、「クマ」と「火」に何か関係があるのか、といえば大いにあるそうで、クマの油はとてもよく燃えるので、クマは火の精と考えられていた、ということに由来しているようだ。(漢字に隠れた意外な歴史

何しろ、ヒトにとっての万能薬「熊の胆」が全国に流通するほど、クマというのは古来から薬用、食用あるいは毛皮の調達ということで有用とされてきた経緯がある。クマの油も昔の生活の中ではポピュラーなものだったという証左なのかもしれない。(灯油とか、もちろん無い時代なのだ。)

 

クマと人間社会の共存とは、いわばクマの肉や毛皮、油などが高く売れ、ヒトの役に立ってきたから成立していた、ということに尽きるのかもしれない。

ただ、昔からクマというものは人里に降りてきては悪さを働いたりヒトを襲ったりしてきたことも事実で、そのために、江戸時代の農民たちには特別に「鉄砲」の所有が許されていた、とのこと。

クマばかりでなく、サルやシカ、イノシシなど、畑を荒らす害獣には断固として立ち向かっていたのであるが、許可していた殿様も偉かった。その鉄砲を持ってお城に大挙して向かってくることも懸念されたであろうに、まずは農民の生活や命を守ることを第一に考慮した結果の措置であった。(「村と鉄砲~江戸時代の鉄砲事情~」、「村の鉄砲の行方(小平市)」、「意外な歴史の事実。江戸時代の農民は武士より多く鉄砲を持っていた!?」など)

ゾーゼイしか能のない今のソーリ大臣とはエライ違いだ。

 

ただ「クマ」と聞いただけで、過剰反応を起こしているような報道のあり方を見ていると、あれ?こりゃあ「コロナ報道」のときに似てるんじゃぁねぇのかい?と思ってしまう。

コロナでネタがなくなったマスコミが、新たな「煽りネタ」としてクマを利用してるんじゃないか、とも思えてくるのだ。

数字的にはクマの出没や被害件数などよりも、自動車事故のほうが圧倒的に多いのだが、その多さに慣れてしまってニュースバリューがないとでも思っているのだろうか。

 

クマ怖い、という煽りだけでは、まだ話題性に足りないとでもいうのだろうか、クマの駆除に対する過剰なまでの哀憫の念もこれでもか、これでもかと報道してくる。

小学校侵入のクマ射殺→「可哀想」と苦情」、「OSO18かわいそう?クマ駆除反対の理」、「「何言ってんだ!?」人間より「熊がかわいそう」自治体に抗議電話30件」、「なぜ熊を殺す? エサをばらまけばいいのに。

・・・ちょっと何言ってるかわからない。

 

マジレスの反論としては、山のことなら言わせろとばかりに、山岳登山家の方が「抗議の電話をするよりも森づくりの活動に協力、あるいは実践しろ」とアドバイスしている。

奪った命を無駄にしない事がせめてもの情け、との持論だそうだが、それ、クマだけじゃなく、ウシやブタ、サカナや野菜とかにもあてはめなくちゃ。

生きとし生けるものすべてに仏性がある(悉有仏性)ことを忘れたらダメでしょうが。