茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

青湾茶話(せいわんさわ)

2009年09月04日 | Weblog
『花の時、月の夕
 茗盌を啜り、
 以て清興を助け
 酒杯を把りて
 幽情を開く
 此を舎てて
 又奚(なん)ぞ求めんや』

江戸中期の煎茶家に
大枝流芳(おおえだりゅうほう)という人がいます。
青湾が号です。
中国の煎茶に関する記事をまとめ、
『青湾茶話』という
煎茶仕様集を編集しました。
1756年のことです。
この詩はその序に挙げられているものです。

煎茶家という時の煎茶が指すものは、
茶業でいう煎茶の括りと少し違います。
抹茶という茶道に対して、葉茶を使う喫茶を好む人を
茶道家というほどでないにしても、
煎茶家と呼ぶという感じでしょうか。
扱うお茶は、
茶業でいうところの緑茶いろいろ。
つまり、煎茶も釜炒り茶も番茶も…というところ。

いえいえそれどころか、
『青湾茶話』には、紅茶も記されていますし、
大枝流芳は抹茶の茶道でも大家でしたから、
つまり、お茶に関して多種多様を心得ていたのです。

同じような時代、
佐賀に生まれた売茶翁が
万福寺を訪ねるのは13歳の時です。
隠元さんが入滅されて15年ほど後のこと。
佐賀では
すでに釜炒り茶は飲まれていましたが、
明調の萬福寺で味わうお茶は、
若き菊泉(売茶翁の幼名)に
どのようなメッセージを与えたことでしょう。

釜炒り茶は、隠元さんより以前、
1406年に栄林周瑞が霊厳寺(福岡県八女)に
茶の種と共にその製法を伝授したとも、
1504年に紅令民が佐賀嬉野に南京釜を持ち込んだとも
伝えられていますが、
中国風のお茶を飲む仕様は根付いてはいなかったのです。

喉を潤すだけのものではないお茶。
江戸中期になって、
ようやく青湾や秋成が
きちんと中国の茶書を繰った上で、
日本の茶書を記すようになるのです。
目次の中にある「良友」の文字が、
茶とは何かを伝えているようです。

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