牛乳石鹸の匂い

あけましておめでとうございます。

昨年は「普通」を意識して過ごそうと始めた年でした (女子力偏差値50は小目標) 。
昔から変な子と言われていたけれど、
ここ5年間は私にとって、いいこともそうでないことも
「当たり前ってなんだろうな」と考えずにはいられない大きな出来事があった。

ようやく心も身体も落ち着いたからには、
毎日のひとつひとつの出来事に
丁寧にきちんと誠実に謙遜に生きたいと思ったのでした。

おかげさまで(?)、思いきって今までとは違う行動をしてみたり
誰かの心に沿ってみたりすると
「知っていても知らないこと」に触れ、当たり前の視界や世界が豊かに膨らんだし、
そうして満たされると、怖かった変化もむしろ
驚くほど穏やかに自分の一部になったような気がします。

正直なところ、自分の内側と周辺のプライベートなところに集中していたので、
今年は、いただいたご縁や力をなんとか人のために還元できるよう、
手と足、良くない頭を惜しまず怠けず使えたらな、と思っています。
正しく役に立てる社会人にも戻らねば...。

かといって、私は昨日と今と明日の連続体でしかありませんから、
すぐに聖人にも器用な人にもなれません。
呆れるくらいの失敗もつじつまの合わない行動もたくさんすると思いますが、
どうぞ暖かく変わらぬお付き合いをよろしくお願いいたします。

2016もどうぞ(*´-`)ヨロピコ♪

実家でお風呂に入り、
牛乳石鹸のにおいに包まれると、とてもピュアだった頃に戻ったような気がする。

また新たな1年が始まったのだなぁ。

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言葉の温度

小説などとは別の話。
ちょっとしたメモだったり、メッセージなんかで
なんだかいいな、と思うものを書く人がいる。

何気なく読むものにほのかなあたたかさを感じる、というのは
人となりが浮き出ているからなのだろうか。

とはいえ、お人柄やその思想について、尊敬も好意も持っていても
書かれるものの持つ雰囲気が
会ったときの印象とまるで違う人もいるから、人間性だけではなさそうだ。

何が違うのだろう、とぼんやり考えていたのだけれど、
前者は、こちら側の言葉を使って内容の本質を伝えようとしてくれていて
(相手に理解させることがメインであり重要視している)
意外なことにロジカルな理系の教育者タイプの方に多く、
後者は、自身がこだわり選んだ言葉で主張内容を表現される傾向にあって
(相手が理解してくれることを前提に、表現の形を重要視している)
文系の学者肌の方に多い(友人はあてはまらないが)印象があるなぁ、と
いう風な気がする。

自分主体のものの読み方をする私の癖は(だから勘違いも多いのだけれど・苦笑)
「本質を」「相手に」「伝えたい」、そういうシンプルな形のない想いを持つ
いわゆる教育者肌の親に育てられた影響が色濃い気がする。

とても受け身な感覚優先で物事をとらえるからなのか、
理系の人と一緒にいると心休まり、のびのびしてしまうのはそのせいだろう
(理系学者系の人はこれまた後者タイプに近くて、感じが違う)。
言葉を選ばなくても感覚を共有できる(と思う)には、もちろん信頼が前提だけれども。

ところで、私は、表現発信する側としてはどっちの人間なのだろうか。
理系文系あちこちに興味を示す割にすべて中途半端な人間なので、
どんなふうに受け取られているか、ということには少し弱気なのである(笑)。

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夏の背中

今年の夏は雨で始まって、それからずいぶんと降ったものだから
夏の雨をすっかり体で記憶してしまった。初めてのことだ。

昨日の久しぶりの日射しは、暑さや眩しさを強く残していても
グイグイと生きものを引き上げることはもうしない。
どこか痛みを与えるような、乱暴なエネルギーを含んでいて
緑が、キュウ、と鳴くのが聴こえそうだった。

そんなふうに鳴きながらいくつもいくつも美しい曲線が視線を先回りして
夏の背中を引きとめて欲しそうにこちらを向くけれど、
朝夕の足先の冷たさが、それを許してくれそうもない。

     

朝干したシーツがいい匂いでからりとしたから
夏の背中を、トン、と押すように
そのまま仕舞って新しいシーツをおろした。

完全に満ちた月が窓の外に出ている時間、
確かめられずにまだ、カーテンを開けずいる。
ずっと観ていたいのは、雨に濡れた美しい曲線、夏の背中だとしても
抗えない時間の流れと不可侵な法則が、ある。

本当はもっと前に秋は始まっていたのかもなぁ。

私は正しい季節に、戻ってこられるだろうか。
日差しにも、雨にも、優しさを観て
ねじれず巡る季節の中に戻ってこられただろうか。

(絶賛迷子中・苦笑)

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気分に抗わずダラダラと聴いている曲を、2曲。
頭が回らない時は、クラシックでは想像の翼は広がらない(苦笑)。

秦基博「Rain」

名曲中の名曲なのです。
大江千里のオリジナルでも、槇原敬之のカバーでもなく
秦氏の抑え気味に歌う不器用なRainが、私のお気に入りなのです。
20年近くの付き合いになる作品だけれど…色褪せないシリーズだ。

Mr.Children「Sign」

 ♪緑道の 木漏れ日が 君にあたって揺れる
  時間の美しさと 残酷さを知る

甘そうで実はスパイスを忍ばせているあたり、
桜井氏の天才っぷりを感じる名曲である。
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花火のあと

よくないことを、した。

そして、私はしっかり分別ある大人になってから
この手の同じことを、繰り返している。(もはや誰にも情けなくて言えない・苦笑)

しかも、よくないこと、に対しての罪悪感ではなく
これでいいんじゃないの、とか
しょうがないのだから、だとかいう自分の考えの方に、
何日も眠れないようなダメージを受けている。

子どものころの、後ろめたい何かは
なぜかしっかりバレていていたり
見つからず叱られなくてもどこか落ち着かず
「神さまが、見ている」という抑止力、畏れがあった。

神さまは自分の中にいた。

誰にも叱られず、自分もどこかで許してしまう
大人の曖昧な罪悪感は、
何に対しての罪の意識なのだろう。

「神さまは、見ている」と思っても
手を伸ばさずにはいられないことがある。
神さまは、自分でないどこかで見ているけれど、
もう、止めてはくれなくなってしまった。

内緒で遊んだ花火のあと、すまして帰った玄関先で
仁王立ちで待つ父が大きくお尻をはたいたように
神さまは、いつか、驚くような大きな声で
私に「大ばか者!」と、叱ってくれるのだろうか。

そのとき、すっかり大人になった私は
私が悪かったです、もうしません、ごめんなさいと、
私の内側に向かって、心から素直につぶやくことができるだろうか。


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トケイソウ

妙なものをみつけるのがうまい、と、よく笑われるけれど
きれいな色やかたちに引き寄せられてしまうのだから仕方ない。

子どものころ、たとえば小学1年生になりたてのわたしは、
周囲のスピードにとてもついて行かれない、のんびりとぼけた子どもで、
ゆきのり君もどうやらまたそのようだった。

ずいぶんあとで知ったのだけれど、
通った幼稚園はモンテッソーリ教育を当時から取り入れていて、
なるほどわたしたちは狙い通りに成長していたらしい(笑)。

そんなわけで、妙に気があう(というかスピードに乗りきれない)二人は、
自然に遊び(というかのんびり行動)友達になっていた。

新しい家族がきたよ、と、誘われて遊びに行くたびに
巨大な秋田犬が「ばう」としっぽを振って迎えてくれたり、
籠でリスが頬を膨らませていたり、砂入りバケツにアリジゴクがいたりする。
水槽には亀やメダカ、金魚や熱帯魚がいて、ノソノソふらふらと寄ってくる。
お庭に出れば、季節のあらゆる花が溢れ、彼のおうちはとにかく楽しかった。

ゆきのり君は穏やかな子で、本物のお坊ちゃまだった。
自慢するではなく、生きものについて彼の知るところを
ほんわか楽しそうに話してくれる。

ひまわりの種は人間も食べられるらしい、と、
リスの餌をポリポリ食べて具合が悪くなったり
(火を通さないといけないらしい)、
アリジゴクは死ぬと砂になるんだ、と、
砂だけになったバケツを囲んでしょんぼりしたり
(ウスバカゲロウに羽化したらしい)、
男の人の骨は少ないのか!と感心したり
(神父さまからアダムの肋骨で作られた女の話を聞いた)、
二人にとっては、知っている限りの全てが真実だった。

次第にそれぞれ周囲のペースや新しい友達になじんで(子どもの適応力)
大人になった今は笑えるような話もあるのだけれど、
この頃に感じた発見のまぶしいときめきが今も忘れられず
日々キョロキョロしているのかもしれない(笑)。

「知る」ということは、その成長の段階にある自分が
見聞きして感じたことのどこまでをつないで信じるか、
ということのような気もする。(ザックリした言い方だけれども)

この夏一番綺麗だったのは、
職場に咲いた、小さな品種のトケイソウだった。

    

丸い蕾の、その棘の先もさらに小球をつけており、球の集合がかわいらしい。
3cmほどの花はとても複雑なつくりをしていて、
どのパーツも眺めるほどに不思議でときめく。
何より、緑、白、黄色、薄紫の絶妙な分量バランスがみずみずしく、
真赤に実が熟すというのも、なんて素敵なセルフプロデュース!

    

今ではもう、その形が種を保存する何かしらの理由があるとは知りつつ、
何かをみつけて、神様は相当な芸術家だと感心してしまうのは
就学前後の経験が、少しだけ目を醒ますからのようだ。

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