長電話

~自費出版のススメ~

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夢の編集 大滝詠一の洗練

2014-01-05 | アート
その昔、政治漫談などで知性を売りにし、文化人や知識人と呼ばれる人達から好評を得ていたセントルイスという漫才コンビがおり、当時センスが近いってことでツービートのライバルとされていました。

そんな風に比較されたビートたけしは「文化人が褒めてるからって、芸人が偉いなんてこたぁねえんだ」と、セントルイスやタモリの活動のその茶坊主的とも見られた側面を嫌悪し、ムカつき、噛み付いてみせたものでした。

そして、そのセントルイスとコラボしたり、たけしの相方のきよしと「うなづきマーチ」を作ったのが、文化・知識人である大瀧詠一です。

大瀧さんは、前面に出て主張し喧嘩を吹っかける下町のロックンローラー(当時)と違い、常に一歩引いて全体を捉え、松岡正剛のような編集姿勢で音楽を「構築」する活動に徹するのがもっぱらで、目指すは、楽曲や歌詞を素材にした「音の洗練」、さらに言えばフィルスペクターサウンドの完全消化による進化・完成形と言えるでしょう。

そういったスタイルに要求される態度は「節度」であり、どこまでも自分の行為に対して自覚的であらねばなりません。使用する機材の進化による録音環境の変化への対応、有名な分子分母論など方法論の裏付けから導かれる系譜への配慮、つまりそれらを通してオリジナルな自分を一旦消していく作業に身を投じるわけです。

本の装丁をしていると、「あ、これどっかで見たことがあるようなデザインだな」と思うような仕上がりになることがあります。どこにもないんだけれど、どこかで見たことがある気がする。それは黄金率のように、あるべき位置にあるべきものが配置されている状態が実現している、ということかもしれませんが、それ故、特徴的だったり、過激だったりにはなりにくい、つまり調和が生まれることによって個性が失われ匿名性が高くなるのです。

大瀧詠一は「目指すものは、詠み人知らず」と言い、音や音質の再配置により正しいツボに嵌る作品を目指して、繰り返し同じ楽曲に手を加えてきました。「洗練」とはつまり、そういうことなのかもしれません。

合掌
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コント55号ホームラン

2013-09-05 | メディア
ヤクルトスワローズのバレンティン選手のシーズンホームラン新記録更新の可能性から、記録阻止に走ったと言われる日本球界の過去の忌まわしい記憶が蒸し返される様子をみて、A級戦犯靖国合祀や、従軍慰安婦、南京大虐殺など、国によっては定着してしまった近代史を思い出すのは私だけではないでしょう。

日本人が誇る王さんの記録は、昭和39年、東京オリンピックの年に達成されました。高度成長期の入り口であり、敗戦を克服し世界にうってでるタイミングと重なります。キタの人である力道山や台湾国籍である王さん(あるいはロシア人との混血である大鵬)という、戦前は日本人であった旧日本人の活躍によって我々は鼓舞され、頑張ればなんとかなる、という当時を疾走していたのです。

王さんの記録を破る可能性のあった選手は3人、ランディ・バース、近鉄バファローズのタフィ・ローズ、西武ライオンズのアレックス・カブレラです。

その3人の記録を調べてみますと、バースは最終戦(対巨人)こそ敬遠気味ではありましたが、ダブルヘッダーだった昼間の試合では(怪物といわれた)江川投手が真っ向勝負していますす。ローズもカブレラも55本を打った時点で残りは5試合あり、全てではないにしろ、相手投手は普通に勝負を挑んでいました。

つまり、記録阻止のための過剰とまで言えるほどの敬遠責めは「無かった」し、そこそこあったとしても新記録へのチャンスはある程度開かれており、ルールにのっとった「汚いやり方」は全面的に展開されていたわけではありません、そして残り試合を数える段階での戦略は開幕当初とは違って当たり前なのです。

チームプレーを強調する野球というスポーツなのに記録に拘ってしまうのは、より個人記録に拘らないメジャーリーグでもロジャー・マリスの61年のHR記録更新が久しく参考記録になっていたがごとく、それぞれの国民の矜持からくるものなのでしょう、どの国にもあることです。

現在マスコミでは、バレンティンのHR記録に対して当時あったと言われるこうした「記録阻止」への動きが大げさに言われ歴史的事実のように言われています。大きく言えばそれほどでもないこと、小さな敬遠が強調されることで、ほんのちょっと前のことであっても、印象として大きく歴史に刻まれるのは、本当に怖いことです。

野球のように、事実がすべて記録として残るスポーツであったとしてもこの体たらくなのですから、言説に色がつけば、どんなことでも常識や節度をひっくり返し、さもあったかのように事実が脚色されてしまうことに、驚くような余地はないでしょう。

別に構わないのです。HR55とか、南京虐殺30万とか、慰安婦10万連行とか・・・。それはゲームなのです。
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宿命の女、藤圭子

2013-08-23 | アート
お菊人形のような黒目がちなルックス、陰鬱でハスキーな声。

宗教画を思わせるドスの効いた佇まいをもつ藤圭子という歌手は、昭和の新宿・中央線沿線に数多く湧いたファムファタルの中でも突出した存在でした。

生い立ちからして不幸、流れ流れて都会に辿りつき、喧騒に身を委ねながらも自分をかろうじて保ち、その結果その血と肉だけが存在を強く主張するというそのいきづまったタイプは、実は「俺だけが彼女を救える」と思わせられる、現代のアニメファンの男の子がはまる綾波零のような存在、言わばロリータの昭和新宿バージョンの展開だったのかもしれません。

当時の、まだ甲子園地元出場校を応援する習慣のあった地方出身者にとって、ネットもなく交通事情からも遠かった東京という街のイメージは、クリスタルキングの「大都会」や桑田圭佑がカリカチュアした「東京」のように、極端に猥雑でいわゆる生き馬の目を抜く、哀しく危険な場所というものでした。

石井隆や上村一夫の漫画の影響もあるのでしょう、学生運動をやってた連中の危険な生き方もありました。そしてそこにあるべきヒロインとして藤圭子が嵌るわけです。あっさり出て行き、自由に振舞う高橋真梨子とは違い、彼女はどこにも行けず、四畳半に留まり、不器用に拘り寄り添ってくれました。

男の勝手な思い込みが投影されたキャラクターが共有された時代は終わり、現実にはそういった女性は最初から存在せず、新宿はゲイが席巻、「痴人の愛」の主人公のような沢口エリカに振り回されるのに辟易した男達は二次元世界に救いを求めはじめるわけです。

藤圭子さん本人が実際どういった人かは分かりませんが、藤圭子が残したキャラクターを引き継ぐアイドルは現実世界ではもう現れないし、必要ともされないでしょう。しかし現在でも日本の男達は高橋真梨子や大貫妙子に順応できず、心情としてはいまだ藤圭子に拘り続けているような気がします。私のように。
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麻生副総理ナチス発言への左からの擁護

2013-08-07 | 政治
失言大将である太郎ちゃんショーを、どこかのんびりした夏休み気分の様子で繰り広げているマスメディア業界。いくら深刻な顔をして報道したりコメントしたりしても、所詮日本国内的「おなじみ」の風景であり、夏枯れの政治報道ネタとしては「飯の種として豊か」ではあります。個人的にも自分の立ち位置を確認するには、おあつらえ向きのよいネタとして「機能」はしています。

重箱の隅をつつくように失言を針小棒大に取り上げ、政権政党を追い落とすことに血道をあげ、あげくの果てが、かの民主党政権だったという事実の反省からか、この案件に関してマスコミは慎重でどこも「全文」を掲載した上で文脈を探ろうとしていました。

今回の麻生発言の面白いところは、「切取り」「全文」「発言した場」「場の雰囲気」と視野を広げていくほど、どーってことないイツもの軽口だと分かってくることです。麻生さんはナチスを礼賛するほど大馬鹿ではないし、ナチスを全否定するほど小利口でもないのです。マスコミは「全文」を掲載することによって、自らの主張を担保しようとしました。それは正しかったのだけれど、今回に関してはそれだけでは足りなかったように思います。

「全文」を掲載しても誤解される麻生さんの真意。

発言は櫻井良子さん主宰の「国家基本問題研究所」でのものであり、「憲法改正」にあせるこの組織に対する戒め、諌めとしてされたものです。櫻井さんは麻生さんとの主張の乖離を残念に思っていたそうですし、「全文」を読んでも捉えられない「場の雰囲気」を加味しないと分からないのが麻生さんのめんどくさいところです。彼は「最近は左と言われる」と言い置いてから発言しているのです。

外国人によって起草されたリベラルな憲法に対して、護憲が革新政党の主張であり、改憲が保守政党の主張であるこの国の分かりづらい事情を勘案すると、麻生さんのねじれた発想も分からなくはありません。

国会議員に圧倒的多数を占めながら96条改憲は無理だなという雰囲気の中、解釈改憲(つまりワイマール憲法が骨抜きにされたように)で行こうという姿勢を表現したと採れば、内閣法制局に解釈改憲に積極的な小松一郎氏が内定したことと考え合わせると麻生さんの発言も合点がいきます。

軍事予算の強制削減をしているアメリカの、「改憲は嫌だけどお金もっと出してくれない?」という要請もあるし、複眼で捉えると、示唆に富み、暗示的な麻生発言ではありませんか。

大手マスコミは「辞任に追い込む」ことを手柄に焦るあまり、当てるスポットライトが見事にずれていることが「脇が甘い」彼ららしい。憲法は憲法意志がなければ、死文化してしまうものです。麻生さんの挑戦は属する改憲政党の「手口」ではなく「手法」の工夫によって、今回のように本質を見なくなってしまう、国民に対する警告なのかもしれません。
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鈴木先生 Lesson11

2013-07-12 | アート
こういう低予算で、ロケハンもCG処理も必要のない学校や公園が舞台の作品では、カメラワークや脚本がクオリティを担保することになり、金にものを言わせた演出や話題作りのためのタイアップ主題歌の要請がないためか、2時間ドラマ的になりやすく、突っ立って台詞をしゃべり、身体の動きが少ないシーンが多いこの作品を映画にするという企画が持ち上がった段階でスタッフは、どのようにして「映画」に仕上げるかに悩まれたと思います。

朝の連続テレビ小説が台所に立つ主婦のため、あまり映像を見なくても筋が分かるようナレーションを多用したり、不自然な台詞の挿入で物語を展開するように、テレビドラマというものは映像的である必要はなく、よって作品は演出家ではなく脚本家のものとされます。

しかし、テレビでありながら極めて映像的であった「鈴木先生」のスタッフは、そもそも映画を撮っている感覚で脚本を作り映像を構成していたのですから、素材が「映画」であっても、そのスタンスをあまり変える必要はなかったのかもしれません。

脚本は、正しい事をする人物や、表現の上手な人物を、とりたててヒーローとして扱わないというテレビシリーズからの方針は踏襲され、喫煙室の先生仲間や足子先生もまた、それぞれ本人にとってベストと思われる行動をみせ、誰もが憎しみや怒りを上く回避しながら物語を収束させております。

カメラは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を思い出す、相米さん的なアップの少なさと長回しで、観客は演劇を見るように観念的に俯瞰させられ、登場人物を中立的に捉えられる映像で、「壊れることを許さない」「グレーゾーンの維持」「立場を演じる」というテーマを表現しています。アップの編集による感情の操作をあくまで拒み、穏やかに抑制された印象に止めようとするスタッフの意志が感じられるところです。

また、エンドロールの生徒たちの映像が素晴らしく、そこにいない鈴木先生の教室に参加したもの達のレッスン1からの成長のエピソードをもう一度見たくなりました。

映画はフィクションであると同時に役者を映すドキュメンタリーであり、エヴァの子供達の年齢を、この映画を通して幸福に過ごした彼らの今後の現実での展開がとても楽しみです。
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アラブの長すぎた春と日本の長すぎる平和

2013-07-09 | 政治
ブレーンが偏っているのか、自民党の「近代憲法」に対するイノセンスな姿勢も相当なものですが、相変わらず利権にまみれた軍を呼び出すことによって政治を調整する、エジプトの「憲法」意識も相当なもので、イスラエルやアメリカのプレゼンスによる特殊事情があるとはいえ、「アラブの長すぎる春」の破綻は収束へのイメージの持ちにくいものがあります。

乱暴だけどアメリカの国益を確保する独裁者と、愚かな国民との組み合わせがベストと思い推進してきた20世紀アメリカの海外への関与方針によって生まれたピノチェトやフセインのような非人道的連中を大量生産する時代が終わった転換点へのストレスと、このクーデターを捉えれば、少しは気が休まるってものですが、理念だけあって実行力に乏しかった日本の民主党の政権交代による悲喜劇にも似たエジプトの政治状況は傷ましくもあり、またブラックユーモアのようでもあります。

エジプトの軍人は投票権を有さず政治にも関与しません。文民統制にも興味を持たない国民により神聖化されているそうで、暴力が民主主義を担保するという、かつての日本や少し前のトルコやタイの軍隊の位置づけと近いものです。

こういう軍を最後に当てにするやり方を繰り返す国は、概ね憲法停止を繰り返し、議会が育たず結局求心力のある野党が成立せずに、革命をしたとしてもその受け皿がないものですから、今回のエジプトのような事態になります。

記者クラブ主宰の党首討論にて、総理の特殊な憲法観の披露を受けても、まったく違和感を感じず、それを取り立てて報道することのないマスコミに支配された日本人の憲法改正に対する問題意識を知るにつけ、経緯はどうあれ、しっかりした憲法を既に持つ幸運に恵まれ、ほんとに助かったなと感じ入ります。
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ウイリアムモリス20周年

2013-06-29 | アート
渋谷にある、珈琲&ギャラリー「ウイリアムモリス」が20年目を迎え、歴代出品作家達がお店に絵葉書を投稿するという形で収集、その200近くに上る作品が展示されています。

展覧会というものは、歴史的な作家に限らず、情念の込められた作品群に途中で胸が悪くなるくらい圧倒されます。一つでも十分なのにその発信力と情報量に辟易して疲れてしまうのです。

しかし今回は、店長から支給された葉書サイズにほぼ統一され、近くまで寄って見ないとそのディテールが分からないくらいコンパクトに小さな宇宙を展開しており、私のように疲れ易いものにとっても、とても接しやすい展示となっています。

ウイリアムモリスは5年毎にこういった作家達の葉書展を行っており、5年、10年、15年のものも、綺麗に製本された本にそれぞれ纏められており、普通に葉書を眺めるように手元からの視線で鑑賞することもできます。店長の日野さんにお願いすれば、気軽に応じてくれると思いますので、来店の際には是非ご覧になってください。

6月いっぱいの展示で、今日明日で終わり・・・、お知らせが遅れましたが、急遽予定を変更、あるいは足を伸ばしても十分満足のいくものになると思います。不肖わたくしも投稿しております。
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疾走するAoi

2013-06-23 | アート
野球のなんとも、のんびりした「つーあうと~」なんて確認の掛け声を聞いていると、相撲や武道など礼儀を「間」として表現するスポーツ芸能スポーツの「アート感」を意識します。

日本代表が「サムライジャパン」と言われるように「やあやあ、われこそは」と名乗り(アナウンスされ)、基本ピッチャーとバッターの一騎打ちをする野球は、演歌やフォークの似合うソロアーチストによる孤独なスポーツと言え、一人で九回をノーヒットで抑えサヨナラホームランを打つ江夏豊や、広島の前田智徳の佇まいがそれを象徴していように、野球とは常に実存的で孤独なものです。

対してサッカーはミニマムで組織の連動なくしては成立しません。確かにスタープレーヤーは存在しますが、野球の打点・得点数と違い、ピルロのゴール数が評価に比例するわけもありません。

日本vsイタリアでの熱戦も面白いものでした。が、しかし、今回のコンフェデレーションカップで私にとって最も感動的だったのは(まだ終わっていませんが)NHKの番組テーマ曲のサカナクションによる「Aoi]です。

ミニマムなアレンジをバックにPモデルを彷彿とさせるコーラスが乗り、何語なのか分からないよう仕組まれた、字幕を見ないと分からない短いフレーズの中での歌詞のリフレインを展開するサビ、カットアップされた言葉は意味を超えて、世界大会にふさわしい普遍性を目指し、ちぎれるように離合集散を繰り返します。

うっとおしいだけの「元気もらった」的楽曲の多かった、この手の番組のテーマソングとしては際立って秀逸、特にその躍動するイメージには、しっかりとサッカーの世界観、そしてコンフェデという大会の高揚感を表現しきっており、すっかり感服してしまいました。

トレバーホーンのようなキーボードや、めっさかっこいいベーシストの女性のルックスの良さも相俟ってブレイクしたこのバンドにも大いに大衆的な支持が集まっていることで、AKBに席巻されるばかりだと思っていた日本の音楽ファンにも確かな強かさがあることを知り、いまさらながら安心しました。
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統一球は統一球である

2013-06-14 | スポーツ
第3回WBCでの「フィット感」の無さで、そのために導入された(ミズノに)統一球だったはずなのに、WBC球に改めて慣れなければいけないような選手や解説者のもの言いから、既にその怪しさは指摘されていたのですが、そのWBCをはさんで、「統一」をめぐるジャッジの不偏不党性がゆらいでおります。

ゆらいではおりますが、新しい統一球の無断導入に、「権力」はもとより、その「権威」すら疑わしいNPBコミッショナーが、政治家もどきの謝罪もどきを表明しても、記者もどきの連中の餌の種や、我こそが倫理的な正義漢だと思いこんでいる国民もどきの酒の肴にしかならず、噂の消費期限の七十五日までの時間稼ぎに過ぎず、「だからこうするのだ」という実効性のある声はどの業界からも聞こえてこないというおなじみの光景が展開されており、通常営業といえば、まあそうです。

対戦するチームの攻守で違うボールを使う試合もあるという噂もありますし、そもそも球場の広さもマチマチな野球の世界。球が飛ぼうが飛ぶまいが、どうでもいいじゃないか、とも思います。

今シーズンが始まって以来燻っていた話ではありますが、疑惑もなにも去年より1.5倍に増えているホームランを見れば、明らかに今年のボールは飛ぶのです。背景にどんな陰謀があったとしても、飛ぶのです。

NPBはおかしな任意団体、それは所与のものということと同様、統一球の変更は単なる事実で、プロならずとも、みなさんそれは知っていたはずです。そしてこれから起こる責任問題も予想がついてるのでしょう。
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対ブルガリア親善試合に想う

2013-06-01 | スポーツ
地位も名誉も既に手に入れた選手たちにはアピールの必要はなく、その低い意味合いを知ってしまったチームとしても、なにがなんでも勝つという意識は現在の親善試合にはもうない。

ましてや泥臭さが身上の本田や岡崎を欠いている。洗練されたシステムのなかで「機能」することに才能を見出す選手によるスマートで体温の低い、覇気のない試合になっても仕方がないことだ。

日本のサッカー選手達のマーケットは急激に広がり、いつ、どこに向けて自分を高めていけばいいのかと、大リーグに渡った野球選手たちがWBCに興味を失ったように、試合の価値と自分の立ち位置を計りにかけながらプレイに参加しているように見える。

これは日本に限ったことではなく、生活の殆どを共に過ごすクラブチームへの帰属意識が強くなり、祖国のために戦うという意識は減少、サッカービジネスの中心地のヨーロッパから離れたブラジルやアルゼンチンでは、チーム編成に向けたベスト布陣も日頃からは組めない状況が定着し、ワールドカップでの地位の低下を招いた。

Jリーグが発足して20年、地域への草の根活動が、野球へのみ供給されていた人材をサッカーに仕向けるよう流れを変えた成果と、グローバル化による愛国心の希薄化という、まったくタイプの違う要因が連動され導かれた結果が、親善試合の盛り下がりというのも面白い。

大新聞の記者なら「皮肉な結果」などと書くのだろうが、これが自然というものだろう。
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すべての発言はポジショントークである

2013-05-26 | 政治
これほどまでに、世間が引くとは思わなかった橋下さんの発言。抜粋、誇張され報道されたことを差し引いた上で、興論として評価すべきか、それとも売春や公営ギャンブルというグレーゾーンについては曖昧な態度をとり続けるのが政治家という職業のビヘイビアとしてその資格のなきものとして否定すべきか。やっかいな話ではあります。

靖国参拝における私人か公人かの問題をはじめ、A級戦犯合祀によって国際問題化してしまった英霊への追悼もままなならぬこの国ですが、日本が戦争に負けていなかったら、それはそれで天皇史観が続くことになり、今日のように明治初期における朝的となった会津や庄内、新撰組の筋を通した奮戦振りや、蘇我氏や足利尊氏の再評価もなかったものと思えば、痛し痒しではあります。

島津氏と毛利氏の徳川家への関が原以来の怨念が明治維新を成し遂げたなどという発想も当然流通せず、歴史観への政府の圧力が今のように自由なものではなかったと考えると、そこに矜持が発想を限定するという、民主主義を輸入するしかなかった東アジアの現実が意識されます。

「ならぬことはならぬ」、東アジア各国のそれぞれの主張はつまり理屈抜きに、そう教わった歴史観を妄信することです。ひょっとして間違っているかもしれないと思っていても言えず、なによりも「立場」を大事にすることが優先させます。

おそらく韓国に生まれていれば韓国の歴史観に、中国に生まれていれば中国の歴史観に従う人たちが、国境を越えて愛国を弄び、かつての日本の右翼左翼のように呼応しあい、これからも朝からラーメンを食べるがごとく盛り上がっていくのでしょう。

結構なことです。

そのうち、日本には戦前女性に選挙権がなかったことが非難されはじめるのかもしれません。
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ロッケンロール大河

2013-03-31 | エイプリルフール
吉川晃司は西郷だわ、降矢は斎藤一だわ、音楽は坂本龍一だわ、で音楽業界から主役級の「役者」が参加する今年の大河「八重の桜」。

その大河、一部で囁かれているのが、幕末に欠かせない人気者「坂本龍馬」に関する噂です。

飛躍としてのサプライスを期し、シークレットなのか、あるいは、視聴率が悪くなった場合のテコ入れの切り札として温存しているのか、ドラマにおける坂本龍馬の扱いと、それに当たる役者に(あくまで一部ですが)都市伝説的スポットがあたっているようです。

いまや、イケメン品評会と化している大河ドラマでは、松方弘樹がちょい役で登場するだけでホッとするほど、バタ臭く、発酵していない大豆のような小泉先生真っ青の青臭さを放っており、強いインパクトをもって、時代の潮目となる状況を演出するに相応しい人物を演じるに足る役者を探すのは、そりゃ難しいこととは思います。

大河未出演の、木村拓哉、岡田准一、竹野内豊、等若作りが通じ、宣伝効果の高い連中、あるいは武田鉄矢、竹中直人、萩原健一等、使う側が思うインパクト主義の連中。

全体としてはちょい役ですから、主役を食うほど露出はないわけですけれど、とにかく幕末のブランドでありますから、やはりどの役者でも納得はすれど、予想の範囲内というのもつまらないものです。

そこで噂の真相として浮かび上がっているのが、教授。

かつて保険のCMで演じたこともあり、前出の前後者の条件も満たしていることから、既にオファーがあるとかないとか。

日本の改革者の三大「一」、藤原帰一、福岡伸一、坂本龍一、の「教授」のなかから、龍馬のキャスティングが検討されていることは、少なくとも間違いないようです。
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復活する人々

2013-02-11 | アート
自分の記憶、記憶に自身が裏切られることは、誰しもあるでしょうが、年月を隔てて培った記憶が、他人によって検証される行為としては、少年時代の「同窓会」が有効であることは、言うまでもありません。

同窓会とはそういう残酷な側面があり、自分の記憶、海馬への自信が揺らぐものです。

松田優作風に言うと「残念だったね」で終わるような失望、他愛のないことが、分刻みで繰り返され、その記憶のいちいちが「承認」を得ず、用意していた謝罪や感謝が中空を舞うのです。

神が宿るはずのディテールは共有できないし、美が宿るはずの乱調も現れないとすれば、同窓会の現場という実態が、「懐かしいね」と、言うのもげんなりするようなタイプの人間にはそもそも相応しくない、ということで、撤退の2文字しかないとすれば・・・

となります。


安倍総理の記憶、その中の悔恨に属する感情が、どれほど強いものかと感じるのは、党派を超えて感じる「少年性」の一種なのかもしれません。
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欧州帝国主義のオトシマエ

2013-01-23 | 政治
アルジェリアのガス施設で起こされた今回の人質事件。「人命尊重」という欺瞞を蹴散らして解決・収束を図った同国政府の乱暴な手法に対して、国際社会の非難は思ったよりは少ない。無念ではあろうが仕方のない側面も大きいからだ。

舞台となったガス施設はアルジェリアの全ガス輸出の約2割を賄っており、誘拐犯グループが施設を爆破するようなことがあれば、同国内外に大変な影響を及ぼすと言われていたし、また、人質と共に脱出を計った犯人グループは海外からアルジェリア政府にではなく、国際社会に取引を持ちかけるだろうと推測されていた。

中国がチベットに拘るのが、人民を養わなければいけないという政府の責任としてその水源の確保の必要がある、という理由とよく似ている。

その段階をすべて読み込んだ上なのか、大変な犠牲は出したが、アルジェリア政府はその芽のすべてを摘み、犯人グループを殲滅、早い事件の収束をみた。

遠因としては、かねてより指摘されていた、欧米の誉めそやす北アフリカの民主化(特にリビアの)によって、他国から過剰に供給された余剰武器の拡散が引き起こした事件。

それは、アフリカには義理のないアメリカの関与の少ないかつての植民地からの報復への心配をはじめ、今後も関わっていかなくてはいけない「民主主義」や「人権」という最近作られた概念によって縛られた欧州の計り知れない憂鬱を想起させる。

気の毒な話だけれど、前世紀までの彼ら白人のやってきたことに比べるとその復讐は、「ささやかなもの」と私は考える。土地や人間を大規模に蹂躙しその歴史を正当化し、いい加減な概念で中東及びアフリカを仕切ってきた連中の罪を、今贖っているのだと。

翻って極東の状況を鑑みると、中国や韓国の反日政策・反日デモなどは、非常に紳士的で手続きを踏んだものだと思え、たかだか小さな岩礁のような島を巡って争う我々アジアの人達の穏当さに感謝したくなる。

その争いのソフトさは、欧米に比べれば苛烈とは言いきれない日本人の植民地政策の穏当さに由来するものかもしれない。

宗教や思想がその風土に基づいたものであるということを柱にして考えると、それはつまり、あらゆる不幸な事象は「気の毒なこと」としか言えない。あるいは、日本も島国らしい穏当であるが故に外交下手であることを、むしろ誇らしく思った方がよいのかもしれないと思うこともある。
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大島渚、吉本隆明、岡本太郎 ~大衆におもねっても消えないモノ

2013-01-16 | メディア
「大島渚」といえばもちろん、みうらじゅんのイカ天における「バンド名」です。つまりロックンロールの代名詞ですね。

ジャズやクラシックと比べると、現代ではロックやポップスはメーセージメイカーのメディアであり採用する必然的スタイルではあります。みうらじゅんの後継者が出てきたら、今は「園子温」を名乗るかもしれません。

大島渚の作品は、有名な「戦場のメリークリスマス」を始めろくでもないものが多く、さらにコンセプチュアルに過ぎるため時代を超えず、その「姿勢」を強調することによってしか評価できない、というのが私の視点でした。

文章もうまく、声もでかい。コッポラのように、映画監督としてよりむしろプロデューサーの才の方が際立っていた人と言えるでしょう。

福島原発事故後のメディア状況に対して、即応性に柔軟な音楽というスタイルを持つアーティストは、直対応的な反応を示し、多くの「ネタ」を発信してきましたが、映画となると時間もお金もかかる上に、シアターの確保という配給、宣伝告知というハードルもあり、定着する作品として表現していくことがとても難しいはずです。

政治ですら「新党未来」のように、企画段階でズタズタにされかねない現実世界で、園さんのように強い誠実さで事に当たるには、どんだけストレスがあるのだろうかと思いを馳せ、無念にも似たような気持ちになることがあります。

大島渚が元気なら、発信者として原発事故にどう取り組んだか。
民主党の失敗についてどう総括したのか。

これが不在感というものでしょうか。毀誉褒貶は激しくとも、岡本太郎が根源的に嫌悪しながらも世界と接しようとしたように、吉本が政治思想神話の世界から努めて離脱したように、大島渚もまた薄汚れた世間との接点と、下からの目線を失わないよう心がけていた作家でした。

彼の死が、現インチキメディアの温存や挑戦的なアーチストの活動の不毛さの「現われ」の象徴とならないよう、気をつけ、彼の上品でありながら漂わせる「覚悟」のようなものを心に留めていきたいものです。

合掌
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