長電話

~自費出版のススメ~

アメリカの友人

2010-05-31 | アート
アメリカのハワードホークスやボギーがヌーベルバーグを作り、「男と女」がアメリカンニューシネマに深い影響を与えたように、アメリカとフランスを中心としたヨーロッパは常に反目しあいながらもお互いを高めあってきました。

欧州の作家達は、韓国や中国の大抵の監督がハリウッド映画的娯楽要素を単純に作品に求めるのとは違い(フランスにもリュック・ベッソンのような嫌らしい方はいらっしゃいますが)ブライアンフェリーやデビッドボウイがそうだったように、アメリカというポップな物量文化を相対化する、またせざるをえない努力を強いられながら良い作品をつくってきました。

ドイツのヴィムヴェンターズもまた「ことの次第」に見られるようにアメリカや巨大資本に嫌悪感をもった映画作家のひとりです。そんな彼のフィルモグラフィーのなかに「アメリカの友人」という、先日亡くなったデニスホッパーが主演している傑作があります。

ジェームスディーンの子分であったビートニクな彼が「イージーライダー」で成功したにもかかわらずハリウッドでスポイルされ、リンチの「ブルーベルベット」で性格俳優として認められるまで、キャリアとしては空白期間にあたる時期の仕事で、有名な映画監督を配したキャスティングや音楽の秀逸さもあり、とても印象に残る作品です。

アメリカ映画のインサイダーでもアウトサイダーでもあるデニスホッパーを起用する反米監督による「アメリカの友人」というタイトルの映画という構図。映画がフィクションであると同時にドキュメントであるということを思い起こさせられます。(その後、地獄の黙示録というヴェンダースが嫌うコッポラのストラーロのカメラによる映画に参加しました)

「アメリカの友人」は正確には「アメリカンニューシネマの友人」であり、デラシネであるロードムービーの化身としてのデニスホッパーという、ブルーノガンツとヴェンタースのドッペルゲンガーである存在を「この時期」に起用することに大いなる意味があったのです。

今夜は持っている「白昼の幻想(the trip)」でも見ながら彼を追悼するという大義名分で飲みましょう。

ネージュ・エンジェル

2010-05-27 | アート
もう衣替えの始まる6月も近いというのに随分寒い日が続き、長袖で過ごす日も少なくありません。去年までの10年間くらいは初夏の暑さに「夏は始まったばかりだし、夏はもっと暑いのだ」と自分に言い聞かせないと、これから来る暑く長い夏に対する覚悟ができなかったような記憶があるのですが、それが思い違いではないかと思うほど、すごしやすい毎日です。

一年で昼の最も長いこの季節の夕刻は、大島弓子の名作「たそがれは逢魔の時間」を思い出すような怪しげな魔の刻を演出し、7時位に外に出ると、まだ暮れなずむあいまいな街の様子に立ち止まり、薄暮の中からこの世のものではないものが現われないかと周囲をうかがってしまうほどです。

今日は昼間の突然の雨を降らせた雲の名残りもあり、夕焼けもなく半調になった景色がいつまでも続き、庭に咲いた「時計草」の横でしばらくぼんやりとしておりました。

複雑な地形を持つ日本の、切り立った日本海のお互いを拒む海と陸の関係のように、昼と夜の間も日本の場合その境界は束の間なのが特徴ですが、この季節にだけ許されたゆったりとした時間の推移を楽しめるよう配慮された快適な気温と風に、今日は感謝です。


日本の趨勢の反映としての日本サッカー

2010-05-25 | スポーツ
オシム監督はアジアカップも4位に終わっているように、結果を出したわけではありませんが、日本代表を迂回させながら4年をかけて変えようという姿勢が感じられ、負けた試合でも「オシムさん」なら何かやってくれるんじゃないか、という可能性に対する期待をもたせてくれましたし、ルックス的にも実績のある戦略家として無条件に尊敬される「歴史上の人物」のような風格がありました。

岡田監督就任当時「皆岡田を悪くいうけど、なぜ岡田じゃだめなの、しばらく様子をみてみようじゃないか」という意見も随分聞かれ(私もその一人)ましたが、格下相手などに対する幸運な勝利を重ねた結果、「勝ったところで岡田には可能性を感じない」という実感をもつ反対派の声は掻き消されていきました。

いまさらながら、サムライジャパンという名を冠していながら、負けたら責任者が「ハラキリ」で応じるという潔い選択肢もない(協会も含め)日本代表スタッフの姿勢を見るにつけ、「可能性を感じない」といい続けた私の周囲の連中の慧眼には恐れ入ります。

24日の韓国戦は、守備的にいくといういまさらながらの監督の方針変更により、今回はいままで培ってきた(スペースはあったのに)サイドのあがりがとうとう見られなかったことをみると、戦術ではなく、意識の統一ができていないように思えます。これでは松井や内田、ツーリオの不在や俊輔や遠藤の不調も言い訳になりません。「言われたことしかできない、指示されると前に覚えたことは忘れ、今後に活かされない」では日本代表の監督としては失格です。

ベスト4からグループリーグの勝ち抜け、せめて1勝から1得点でも、と希望がどんどんしぼんでいくなか、日本の総理大臣以上の公的抑圧にさらされる岡田氏も気の毒ですが、覚悟をもって臨んだ権利と地位です。仕方がない。北京オリンピックの「星野」的解放が待っていますのでもう少し我慢してもらいましょう。

史上最強の代表といわれるトルシエ監督の頃の首相は、小泉ワントップ。そして今は鳩山・小沢の二頭体制によるツートップ。最高権力者の吉凶(人徳ではない)が代表や国運を左右するのだとすれば、今の政権のいずれかが辞任しさえすりゃ、今の困難な局面も打開できるかもしれません。本番までの少ない時間の中、あと代表にてこ入れすることがあるとすればそれくらいです。

CL決勝のクロスカウンター

2010-05-23 | スポーツ
年に一度の明け方の生観戦を楽しみにしている欧州CL決勝。今回は「インテルvsバイエルン」という比較的地味な組み合わせでしたが、モーリーニョ監督という稀代の演出家の存在があり、またインテルというイタリアらしいチームの戦術が再びポピュラリティを得るのかという興味もあり、面白く観ることができました。

インテルは1点を先制した後は、全員がひいて守っていましたが、珍しく攻めあがったときにバイエルンのカウンターを受け、前線の戻りが間に合わず、人を残したままだったので、守りきった瞬間に今度はインテルがカウンターを仕掛けることができ、まさにクロスカウンターのような攻撃で決定的である2点目をあげることができました。

既述のように、バルセロナとの準決勝においてはアイスランドの噴火の影響もあり、インテルの勝利がいくつかの偶然が重なったものによるものであり、堅守からのカウンターと、華麗なポゼッションサッカーの優劣を決することによる今後のトレンドを占うには至らないとは思います。それはバイエルンにしてもリベリーが、バルサにしてもイ二エスタがいないという条件を差し引いてもインテルの優勝には価値のあることに間違いはないとしてもです。

ただ引き、人数をかけて守っても必ずしも勝てるもしくは引き分けることができるわけではありません。相撲取りを5人並べてゴールを隠しカテナチオってもサッカーは勝てないのです。完璧に組織だった守備ができたからこその優勝であり、賛美されてしかるべき指導とその実践をインテルはやってのけてしまったにすぎません。モウリーニョはチェルシーでもそうだったようにチームがかかえるタレントに最もフィットした戦術を選ぶことに徹しているだけで。決してカウンターサッカーしかできない「勝つ」ことだけに意義を求めるくだらない哲学をもった監督ではありません。スペインに行けばスペインのサッカーをするでしょう。

優勝してもクビなどということにはならないと思います。

今年のCLはモーリーニョのための、野望の踏み台としての大会といえます。なんか虫の好かねえ奴と思っている男子も多いとは思いますが、これでレアル監督就任がほぼ確定。ACミランのレオナルド監督との美形対決も1シーズンのみかと思うと、いささか残念ではあります。

テクノヒッピーズの哀しい恋

2010-05-21 | アート
高城剛氏というと、最近では女優との結婚離婚で騒がれ、その悲哀ぶりに中年男性の同情を一身に浴びた方として有名ですが、私には「スタジオヴォイス」などのコラムや「東スポ」のUFO鑑定など、みうらじゅんや山田五郎にも通じる知的ばかばかしさに理解のある、一つ上の世代でいうと上杉清文や南伸坊による「ハンジョー」グループに属していてもおかしくないキャラクターという印象・認識でした。

また環境問題にも造詣があり、以前坂本龍一との対談ではその意外な一面を披露され、驚いた覚えがあります。世界を飛び回る「テクノヒッピー」。今回そのレトロな響きから失笑の対象となった「ハイパーメディアクリエイター」という肩書きも、テレビ露出のためのもので諧謔性の強いものだと思われます(日芸時代の彼の仕事ぶりから他人が名づけたものらしい)。

バブル期にアッシーだのメッシーだのと罵られ、ちやほやされる気の強い同世代の女性に奉仕してきた40代の男性は、アテンドすることを鍛えられ得意としており、室内での知識しかない同世代の男性を頼りなく思っている20代の女性と非常に相性がよいといわれます。高城氏の恋愛、結婚はそういったスタイルの典型だったので、機を見て敏なその世代らしさを存分に発揮しておるな、と頼もしく思っておりました。

高城氏の作品や仕事への評価は別にして、誰だってある日突然周囲から「君と彼女の関係は終わっている」と言われ、さらに信じていた想う人と連絡がとれなくなれば、傷つくどころの話ではなく、病気になってもおかしくないサイテーなブルーに突き落とされます。

20代初期でグダグダのバブル時代を経験した今の40代後半の、いつまでもお祭り気分で、女性に関しては脇も考えも甘い男の恋の末路として非常に身につまされる思いにもかられ、大手芸能プロも当然からんでいると思われる今回の騒動に、彼ひとりでどう立ち向かっていくか、気になるところではあります。

機密費を無視しつづけるマスコミの「政治と金」

2010-05-18 | 政治
需要のある「政治と金」と「小沢一郎」が大好きなマスコミにとって、記者クラブ問題同様表沙汰にしていない彼らにとって致命的な話題に、より大きな「政治と金」問題である、元官房長官として権勢を振るった野中氏による「官房機密費使途」の暴露とそのリスト流出問題があります。

自民最後の政権の河村内閣官房長官の「2億5千万円官房機密費持ち逃げ」を市民団体が告発した件もスルーでしたし、今週の(どこにいっても売り切れで手に入らなかった)上杉隆氏による週刊ポストの記事も大手メディアは脛に傷持つ故にか、まったくといっていいほど取り上げませんでした。

竹下政権下で作られた「三宝会」という政財界に大手マスコミを加えた情報操作組織が作られ、北朝鮮に負けず劣らずの情報統制を敷いてきたことを知る人は少ないでしょう。その「三宝会」には読売の「世論調査部」の責任者を筆頭に、朝日やテレビメディアの関係者も名を連ねております。

飽きもせず統制されたマスコミによって垂れ流される「普天間」と「小沢幹事長の金脈」にばかりに目を奪われるという意図的な操作情報により、我々は「支持率」をマッチポンプで下げてきました。しかし誰が総理や内閣の仕事の詳細を知り、語ることができるのでしょう。(愚かな国民の代表である)ぶらさがり専門記者の総理との稚拙なやりとりを見ていると、我々はおそらく「何もわかっていないし、何も知らない」のだと思われます。

竹下氏以前の政治の専門家は「衆愚政治」(ポピュリズム)に陥らないよう情報操作をしましたが、政治ではなく政局の好きな小泉あたりから、政治は国民に投げ出され、委ねられるようになり、捏造された勢いを基に世論が形成され、保守のための操作ではなく、秘守のために政治に影響を与えるようになりました。

禍根を残した小泉政権を作ったのも、愚かといわれる鳩山氏を総理に押し上げたのも我々です。ここはひとつ政治にものほしげにならない態度とリテラシーを身につける術でも身に着ける期間として、思惑のリセットと主張のリハビリに徹するべきなのかもしれません。

間違った選手選考をしたけれど、間違いではなかった

2010-05-13 | スポーツ
暗すぎて、岡ちゃんとはもう誰も呼ばなくなった代表監督の早口が気になった以外は、順当で波乱も破綻もなく、つつがなく行われたサッカー日本代表メンバーの発表。

ロナウジーニョやファンニステロイ、カンビアッソ、ベンゼマ、トッティなども外れている各国の代表をみれば、小笠原や石川、小野などが選出されなかったことに驚くわけにもいきません。サッカーはつくづく監督のものだと思います。試合中にどうこうできる手段(交代枠など)が少ないという意味でも、サッカーの監督の選手選考における権力と責任は野球の比ではない、と言えます。

メンバーを見て驚いたのは平均年齢が高い割りにWC経験者が8人と少ないことです。闘莉王などベテランの域に達している印象があるにも関わらず初選出であるし、監督が「客のことまで考えてらんない」とか「大会の後、辞めちゃうから、次のWCのことなんか関係ねえ」(意訳)といった発言が大して問題にならないように、日本代表というものが継続性のない場当たり的な運営のもとに選出されていることが伺えます。

昭和の田舎の人間が都会に対する間違ったイメージ、(孤独だの裏切りだの)自己撞着にあふれたくだらないロマンチシズムに憧れて作った「甲斐バンド」とか「クリスタルキング」の曲を聴いているような不快な気分にさせられる岡田監督の「男らしい」孤独な作業のなかでの選手選択は、日本サッカーの羅針盤のない構造的欠陥をあぶりだすものでもあり、サッカーにおいては、辺境、不利な位置にある日本の現状認識を洗練させるためにも、「失敗」の刻印をしっかり押し、無駄な4年を繰り返さないよう、しっかり教訓として、今後にいかしてほしいものです。

ただ、スポンサーのプレッシャーのもと、「場当たり」を強要され、それに同意した岡田監督の狭められた選択肢としては「悪くない」選考だとは言えます。岩政と矢野を選んだということは、堅守からカウンターという勝つつもりならば要請される「窮鼠猫をかむ」という作戦?になってしまう予想される展開に対する布石であり、また自身の代表への期待と見限りをうまく表現しているともいえます。

いずれにしろこの大会が終われば、主力がほとんだ引退してしまい、その焼け野原の中から本田を中心としたチームが立ち上がるわけです。ワールドカップを暦の基点としなければならないサッカー業界の宿命とはいえ、まあいろいろと大変です。

新党「竜馬」

2010-05-11 | 政治
ヤワラおばはんの民主党からの参議院選立候補を苦々しく思っている諸兄も多かろうとは思いますが、サッカー日本代表の面子同様「どうせあんた」的雰囲気もあり、やりきれないながらもどこか仕方がないと、諦念にまみれる日常に「ほっとけ」とやり過ごす毎日でもありましょう。もちろん件のおばはんも被選挙権を有する日本国民であるわけですから、立候補自体は問題ないのですが・・・。

そんななか、参議院選挙に向けての新党乱立も、期限がきましたのでこれ以上はないとしても、このぼんやりとした幕末ブームに乗っかって誰かが「新党『竜馬』」などという名を名乗らないかと毎日はらはらしております。

不安の中心のひとつは、自民を脱党した後、「俺は、いとこの妻のいとこが竜馬の姉のひまごだぜ」と「友達の友達はアルカイダ」方式で自分は親戚筋であると豪語しはじめた総理の弟邦夫氏の定まらぬ動向です。

発想だけは飛躍する我らがヒーロー鳩山ブラザーズがまたなんかやらかすか、とゆるい日常をゆるがすことも既に日常に吸収され消費される、という毎日職安に並んでいる内に親しくなった失業友達との会話風景が平和に思えてくるような状況にまた嘆息、てなもんで、はやく身の振り方を決めてくれないと、落ち着いて仕事もできない、まったく迷惑な存在です。

時代が不安定になると坂本竜馬ブームが訪れるといいます。「竜馬」新党という時限政党のような名前を誰が名乗るかということが、誰が一番身の程知らずかという競争と同義になるというのが日本の政治の面白いところです。

普天間「位置」問題

2010-05-08 | 政治
「空軍やミサイルが主体になる近代戦の初戦において海兵隊の役割など取るに足らないにもかかわらず、キタや中国の恐ろしさを喧伝しまくる産経新聞をはじめとする日本の親米右翼の連中が、米トランスフォーメーションの中で沖縄から出て行こうとするアメリカを押し留めた」というのが先週までの私や鳩山総理の普天間問題の理解でした。つまりこれは外交問題ではなく日本の国内問題であると信じて疑わなかったのです。

その考えを変えたのは、失脚した元防衛事務次官の守屋氏のインタビューを聞いてからです。

その内容は「アメリカがフィリピンのスービック基地から引き揚げた途端に、中国が南沙群島に乗り出したように、米軍が沖縄からグアムにでも引っ込もうなら、東シナ海は中国に制海権を握られることになり、米軍のプレゼンスはその軍事戦略に楔をうつ意味がある」というもの(かなり意訳)で、親米右翼の方達には当たり前のお話ではあろうかとは思いますが、防衛のトップにあった守屋氏の口から改めて聞かされると、「海兵隊」の中でも最強といわれる連中が沖縄に展開していることの重要さが理解でき、先鋒という海兵隊の一部の機能にのみにスポットを当てて考えていた自分の薄ら馬鹿さ加減が自覚できました。

時を同じくして、誰が(いまさらながら)吹き込んだのか、鳩山総理も「海兵隊が抑止力だとは思わなかった」と発言し、この件に関し、認識を改めたことがうかがえます。

表層的な平和を求めることにより、安全保障が脅かされることになるという、景気と金利の関係のようなお話に、理想主義者である総理も眩暈を覚えたことでしょう。アメリカに頼らずやっていくつもりならば、日本は重武装するか、外交能力を鍛え上げるしかないのですが、今はその準備はおろか覚悟もないし、さらに認識すらないのですから、愚かな私達は沖縄に平身低頭で負担をお願いするしかないのかもしれません。

15年前、マリエンバードで

2010-05-03 | アート
何年振りの再会だろうが、動機が「懐かしむ」だったり「近況報告」だったりするとあっという間に話題が尽きてしまう同窓会。仕方がない、同窓会とはそういうものだと諦めていたのですが、久々に、お互いに「たゆたう」感情の交感のできる、同窓会も悪くないと思える相手と、今晩会うことができました。

「疎外された」人達同士のそれを、憐憫と同着とで説明するのも厭きていたので、15年という時間のディバイドにも関わらず、ノリは同じでも違うスタイルをとるお互いの「気になるところ」を提出しあったら結局「同じ答え」だった、とでもいうのでしょうか、相手の感情など気にせず「俺は楽しかった、でもあなたも結構楽しんだでしょ」と言い切れるシチュエーションを共有できました。

日常的に会っている人たちはそういったハードルを既に超えているからこそ耐用年数がある証拠ともいえますが、そうではない「久し振り」を楽しむとはこういうことなのかと初めて分かったような気がしました。

『去年、マリエンバードで』。久しぶりにあった「彼」は、私の理解を超えていながら、その作品を体現しているような存在感を示し、再びその作品を想起させるに足る「意識の流れ」だけで会話のできる稀有な「知り合い」です。

かつて、友人の結婚式で「奥さんを『おまえ』というような夫婦になってほしくない」と任されたスピーチで述べ、「あんた、このめでたい席で何言ってんの」と顰蹙をかったことがありました。今日あった二組の夫婦はお互い、不自然な敬語で会話していましたから、まんざら私の不快で場にふさわしくなかった発言も間違いではなかったのかもしれません。