
〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・1〉
前回のエントリで都知事が提唱する「心の東京革命」などに触れて「心の支配」への恐れを書いたところ、布引洋さんから次のようなコメントをいただいた。
【最近戸塚ヨットスクールの戸塚が刑務所から出所しました。彼の後援会会長が石原慎太郎です。戸塚のやった事は、石原慎太郎の教育方針を先取りした理想の教育です。戸塚宏によると、教育とは子供に恐怖を与えることだそうです。恐怖によって生徒の自主性を引き出すのだそうです。石原慎太郎が三選を考えているのは、都立学校を全部戸塚スクール風にしたいからです】(引用了)
ここで簡単に「戸塚ヨットスクール」についてまとめておく。同スクールは家庭内暴力、不登校などの子供達を集団生活とヨット訓練によって「矯正、治療する」(スクール側の表現)ということで設立され、教育方針はいわゆる「スパルタ式」、というより「軍隊式」。規律に違反すれば過酷な体罰が加えられた。その結果として同スクールでは2名の行方不明者(合宿の帰路、海に飛び込んだ)と3名の死亡者が出、1983年に戸塚校長らが逮捕された。直接の逮捕容疑は当時13歳の訓練生をヨット上で角材などで殴り、死に至らしめたこと(傷害致死)。1審判決は執行猶予つきで、検察・弁護側ともに控訴。2審では執行猶予なしの実刑判決が下された。弁護側はそれを不服として最高裁に上告したが2002年に棄却され、全員の有罪が確定した。
石原慎太郎はもともと戸塚宏の「畏友」だったそうで、1987年には「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長にも就任している。むろん今も同スクールの方針に全面的な賛意を表明しており、4月3日付産経新聞紙上で、次のようなエールを送った。
【生徒の死亡事故の責任を問われ服役していた戸塚宏氏がこの四月に刑期を終えて出所してくる。戸塚氏は服役中保釈を申請することなく、あくまで刑期を満了した上で悪びれることなく以前と全く同じ所信で、歪んでしまった子供たちの救済再生のためのヨットスクールを再開運営していくつもりでいるという。
(中略)
畏友戸塚宏の社会復帰は子供たちに関する今日の風潮の是正に必ずや強く確かな指針を啓示してくれるものと思っている。我々は我々の責任で、人間としての絶対必要条件である我慢について今こそ教え強いなくてはならぬ。失われつつある子供たちの数は戸塚氏を襲った事件の時よりもはるかに増えているのだ】(連載エッセイ『日本よ』)
〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・2〉
どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。
それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが(※1)、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。
君が代・日の丸に代表される「国を守る気概」の押しつけはそのひとつ。私は何人か小・中・高校教師の知人がいるが、そのひとりは久しぶりに会った時に、「石原都知事になって以来、息が詰まりそうだ」とぼやいた。ちなみにこの知人は、いわゆる左翼でも何でもない。日教組にも所属しておらず、いわゆる無党派層で時には自民党に投票することもある。子供が好きで教師になり、子供と接していれば幸せで、今でも政治状況にはさほど興味がないそうだ。天皇に対しては崇拝していないまでもそこそこの親愛の情を持ち、国旗国歌にも特に反発は感じていないそうだが、それでも、式典で国旗掲揚や君が代斉唱を無理無体に強制されることなどについて「息が詰まりそう」と小さな声でぼやくのだ。
※1/ごく単純に考えて、それはまあ当然だろう。支配された者達が面従腹背状態であっては、いつ背かれるかわからない。彼らを「唯々諾々と従うことに歓びを持つ」マゾヒスト(しかもそれを自らは意識しない)に仕立て上げなければ、枕を高くして眠れないだろうから。
〈モラルを奪い返そう〉
こういう類の――人の心を縛り、支配することに快感を覚える人間(※2)に、我々の暮らしの生殺与奪権を握らせておくわけにはいかない。そして、「正義」だの「倫理」だの「思いやり」だの、あるいは「愛」だの「願い」だのといった言葉言葉を人質にとられたままにしておくわけにはいかない。こういった本来は人間の崇高さにつながるはずの言葉が、彼らが口にするたびに何と薄汚く見えていくことか。支配のためのモラルは、もう御免だ。我々が共生するために、モラルを奪い返そう。
※2/むろん、そういう人間は石原都知事だけではない。国籍・性別・年齢・職業・社会的地位や教育程度などはむろんのこと、実のところ思想的立場や信条ともあまり関係なく存在する。奴隷を欲しがる人間にNOを言うところから始めるのだという単純なことを、私は今ゆっくりと自分の中で反芻している。


このあたりの本音が透けて、どころか結構いろんなところで彼は言ってます。戸塚ヨットスクールが好きなのもよくわかります。
しかし、明白な犯罪行為に何の反省もなく出所するのは暴力団員をはじめとしてたくさんいるだろうけど、それを支持する人間が公職にいることの異常さを感じない選挙民の異常さがすごい。いやね~、東京都民って、ガリブルなんだから。
んで,残りの数名は結局,社会復帰ができずにうつ病で自殺または自殺未遂 → 精神病院という結末が待っているのだとか。
要するに,石原のような奴を都知事にしておく限り,これからも「暴力による支配」「心の弱い人間は自滅していく」という悪循環がいつまでも続いていく,ということになりますな(笑)
# これはある公的な医療機関(公衆衛生学)からの密告です。論文にして公表すると,何をされるか怖いというので,私の元に資料が送られてきました。
国歌を斉唱することが心を支配されるという意味がピンときません。
その論理でいくと校歌や「仰げば尊し」を斉唱することは子どもにとって心を支配され、息が詰まる事になる気がするのですが。
石原都知事や戸塚氏は私も大嫌いですけどね。
きっとすごい快感なんでしょう。
そこに参加してる人がみんな心から喜んでやってるならともかく、
たいていはやらなきゃ罰するとか、やらないまたはやれない人を排除したり、
そうした上でびしーっとが成り立っちゃうのが問題じゃないかと。
国歌だって歌いたい人は歌い、歌いたくないまたは歌えない人は歌わない、
それでかまわないはずなんですが。
無理やり歌わすのも無理やり歌わせないのも、どっちもなしってことになぜできないのか?
子どもに無理やり歌わせないようにする人がいるのだから無理やり歌わすしかないんだ、は
無理やり歌わす人がいるから歌っちゃいけないんだと違いがないような気がします。
戸塚ヨットスクールですか。私が思うに、3人殺しておいて、懲役6年って短すぎません?
少しスクールの映像も見ましたが、私にはリンチを加えているようにしか見えませんでした。
私は「体罰」は完全否定しませんが、あれは体罰ではなくて単なる殺人だと思います。
こいつこそ、「懲役」ではなくそれこそ軍隊式に精神を叩き直す必要があると思います。
出所後も何にも反省してないようですし。
タカオさん;
うまく言えませんが「国旗掲揚・国歌斉唱」というのはある種の象徴でもあると私は思っています。だから校歌斉唱などとはちょっと意味合いが違う(私は校歌についても、歌わなきゃ落第させるとか言われて押しつけられるのはヤですがね)。また、他の府県の事情はよく知らないのですが、少なくとも東京都では国家を歌いたくない生徒がいると教師の勤務評定に響くなど、教育とどう関係あるのかいくら考えてもわからない所で教師達が締め付けられている。
いずれにせよ、何でも「強制する」ってのはイイことじゃない。むりやり強制されたら、人間、不愉快になり、強制されたものが嫌いになります……。たとえばクリスチャンの両親が(キリスト教ではなく何の信徒でもいいです)「お祈りを忘れたら御飯食べさせない!」みたいな教育したら、私ならキリスト教が大嫌いになると思う。
今日は怒られないうちに、やってきました。
来週のお題は「酒」!でどうでしょうか?
アル中からの提案でした。
ところで戸塚のハナシですが、その資質については、多くの人たちが語ると思いますので、あえて云いません。
しかしまがりなりにも、そーゆーモノの経験者としての意見ですが、海の上でヒトを死なすというコトは、とてつもなく恥ずべきコトであって、責任の重いコトなんです。ましてや少年たちです。海に出るというコトは、あーゆー連中がへらへらと価値のない教育論をふりかざして、ヒトを死なせるなんて許されることじゃないんです。
もっともコレが山であろうと、川であろうと同じでしょうが、人々の上に立つ者は、全員を過酷な自然条件の中から生還させなければならないんです。その責任があるんです。
できないと思ったなら、行くべきではないし、どんな言い訳もできないんです。
だからボクは戸塚氏を、教育者以前に、ヨットマンとして、最低限度の海の決まりも知らない、ただの狂人としか思えません。
# 文学者としての才能に限界を感じたから,政治家になっただけのクズなんですがねぇ。