歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

源信僧都⑪(横川法語)

2009年09月20日 | 七高僧
源信僧都⑪(横川法語)

「まづ三悪道を離れて人間に生るること、
 大きなる喜びなり。
 身は卑しとも畜生に劣らんや。
 家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
 心に思うことかなはずとも
 地獄の苦に比ぶべからず。
 この故に人間に生れたることを喜ぶべし。」

源信僧都が残されたお言葉の中で
もっとも有名なのが横川法語であろう。
ここまで人間に生まれたことを
喜びなさいと断言されたお言葉は
聞いたことがない。

この喜びは仏法を知らされた者でしか
言えない金言である。

釈尊は華厳経でこのように教えておられる。

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く
 この身今生に向かって度せずんば
 さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」

生まれ難い人間に生まれることができて良かった。
聞き難い仏法を今聞くことができて良かった。
この時に求め抜かなければ、
もう助かるチャンスはないんだぞ。

「まず三悪道を離れて人間に生まれたる
 こと大きなるよろこびなり」

人間に生まれたことを喜ぶ心より
人命尊重の心が生まれる。

「仏法聞き難し」の心でで仏法を聞かなければ
真剣に仏教は聞けないのだ。

生きている『今』弥陀の願船に早く
乗せて頂きなさいよ、と
源信僧都は教えられている。

源信僧都⑩-14(往生要集-三世因果)

2009年09月19日 | 七高僧
源信僧都⑩-14(往生要集-三世因果)

仏教の根本教理は、実に三世因果にある。
これが判らずしては仏教は絶対に判らない。

先ず、三世というのは、
過去世、現在世、未来世のこと。

過去世というのは、私達が人間に生れる以前の総てをいう。
昿劫流転して来た前生を言うのだが、
とりつめれば去年であり、
昨日であり、
前の一時間であり、
出た息が過去になる。

現在世というのは、
人間に生れてから死ぬまでの
五十年乃至百年の人生をいう。
これも、とりつめれば今年であり、
今日であり、
今の一時間であり、
今の一息が現在の当体となる。

未来世は、
人間の寿命がつきて死んだ後、
永遠の時をいうが、
これも、叩けば来年となり、
明日となり、
一時間先となり、
入る息が未来となる。

ですから仏教の三世とは、
吸う息、吐く息の中にあると教えている。
即ち、念々のうちに三世がおさまっているわけだ。

故に、只今の一念を徹底的に叩けば、
昿劫流転して来た自己も明らかになるし、
未来永劫の後生の一大事も知らされる。

それは
「自身は現に罪悪生死の凡夫、
 昿劫よりこのかた常に没し、
 常に流転して出離の縁あることなしと深信す」
と叫ばれた善導大師のお言葉でも明らかな事実である。

これを『因果経』には、
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ、
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
と説かれている。
これは、過去を知りたければ現在を見よ、
未来を知りたければ同じく現在を見よ、
現在とは悠久の過去と永遠の未来とを
包含しているものだと教えられたものだ。

だからこそ、現在の救いがなくして
未来の救いがある道理がない、と仰言る。

「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
などと言っている現在の寺の説法は、
本当の仏教ではないことがよく判るだろう。

只今、不可称、不可説、不可思議の大巧徳に生かされて、
只今が浄土に遊ぶ大満足の境地に救われなければ、
未来は絶対に助からない。
未来の救いは現在決定されるもの。
いや、現在をぬきにして未来はない。

わが親鸞聖人が、現生不退、平生業成、
不体失往生を力説されたのは、
実に仏教の真髄を顕正する為であった。



源信僧都⑩-13(往生要集-極楽)

2009年09月18日 | 七高僧
源信僧都⑩-13(往生要集-極楽)

極楽の表現でも同じだ。
『阿弥陀経』には、極楽のようすが
説かれている。
七色に輝く欄干、網飾り、並木は
金・銀・瑠璃(青色の宝石)・水晶などの
宝石でできている。
また、七種類の宝石でできた池には
八功徳水がたたえられてあり、
車輪のような蓮の花が咲いている。
いつも音楽が鳴り響き、
美しい花が天から降り注ぐ。
色とりどりの美しい鳥が美しい声で鳴き、
その鳴き声は尊いみ教えを説き述べているのだ。

極楽は宝石でできた世界というのは、
私たちの欲望のかなえられた世界
という意味ではない。

仏教では「余法に因順して」と言われ、
伝える相手に応じて、伝え方を変えるのである。

「猫の参るお浄土は 宮殿楼閣 みなかつお節
 猫はあきれて ニャムアミダ」」

極楽はとても表現ができない世界、
言葉と心を超えた世界である。、
釈尊は私たちにわかる表現方法として、
宝石類、木々、池、花、鳥、風、音楽という
身近な美しいものでお説き下されたのだ。

源信僧都⑩-12(往生要集-死後の地獄)

2009年09月17日 | 七高僧
源信僧都⑩-12(往生要集-死後の地獄)

では死後のジゴクとはどんな世界かというと、
『賢愚経』に釈尊は
「如何なる喩をもってしてもジゴクの苦は説けない」
と言われている。
しかし、強いて「教え給え」と願った仏弟子に対して
「では喩をもって説こう」と仰言って、

「朝と昼と夜と、それぞれ百本の槍で突かれる。
 その苦しみを何と思うか」
と尋ねられた。

弟子は
「僅か一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
 一日三百本で突かれる苦しみは心も言葉も及びません」。

その時、釈尊は豆粒大の石を御手にとられて、
「この石と向こうの雪山と、どれ程違うか」
とお聞きになり
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子達に
「日々三百本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
 ジゴクの苦はあの雪山の如し」
と仰言っています。

これは魚に火煙のことを知らせようと
する以上に困難なことであり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難なことだったと思う。

こんなことを知らずに、
虎のフンドシの鬼や釜をそのまゝ事実と
思ってアザケッタリ、疑っているのは
情けない幼稚な仏教の聞き方だ。

阿弥陀仏は、このジゴクよりジゴクへ
苦の旅をしている我々を救わんと
大願を成就して下された。
こんな素晴らしい本願は
他に絶対にありませんから
無上殊勝の願とか超世の悲願とか
いわれる。

未来のジゴクは、現在のジゴクの延長ですから、
現在のジゴクを解決することが
一切の救いの根本になる。
阿弥陀仏の本願は、平生業成(平生に救う)が、
その渊源、肝腑になっているわけも
お判りになると思う。

源信僧都⑩-11(往生要集-この世の自業苦)

2009年09月16日 | 七高僧
源信僧都⑩-11(往生要集-この世の自業苦)

ジゴクと言うのは中国の言葉で、
釈尊は印度の方だから、印度の言葉でナラカと言われた。
ナラカということは、私達に判る言葉になおすと
「苦しみの世界」ということである。
ジゴクは、この世にも死後にもあると教えるのが仏教だ。

この世のジゴクといいますのは、
「自業苦」と書き、
毎日が不安で暗い心で、
生き甲斐のない生活をしている人をいい、
これをたゞ今がジゴクへ堕ちている人という。

「私ほど業なものはいない」と
他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸の絶えない生活が、
この世の自業苦(ジゴク)なのだ。
殆どの人が仏教でいうこのジゴクへすでに堕ちている。

ところが『大無量寿経』には
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と説かれて、
今苦しみ悩みのたえない者は必ず死後も
ジゴクの苦を受けるのだと教えてられる。
現在が闇の生活を送っている人は、
死後もまた闇の地獄と堕ちて
苦しまねばならない。


源信僧都⑩-10(往生要集-頭下足上)

2009年09月15日 | 七高僧
源信僧都⑩-10(往生要集-頭下足上)

江戸末期、四国は讃岐に庄松同行という
妙行人(阿弥陀仏の本願に救われ活躍された人)がいた。

彼は字の縦横の分からぬ、銭の勘定もできぬ
世間では馬鹿、昔は八文と呼ばれていた。
ところがこと仏教になると、これが馬鹿だろうかと
思うようなことをしている。

寺でご法話があり、帰ろうとしていた時、
庄松が本堂で逆立ちを始めた。
「オイ庄松、年甲斐もなく、逆立ちなんかしておると
倒れて、怪我するぞ」
と友達が忠告すると、すかさず庄松
「まだ分からんかのう。お前達が地獄へ堕ちる様を
 教えているのじゃ。
 お経には、この世で弥陀の本願に救われずに
 地獄へ堕ちてゆく者は頭下足上で堕ちてゆくと
 説かれているではないか」
といい加減に仏教を聴いている者たちに
警鐘乱打している。

頭下足上とは、頭を下にし、足を上にするということで
逆立ちしているということである。

明日とも知れない命を持ちながら、
まだまだ生きれると思っている。

悪人でありながら、
どこがオレが悪人なんだ、あいつの方が余程
悪いじゃないかと、うぬぼれ一杯。

こんな真実と反対のことしか思えないから
頭下足上で地獄行きなのだ。

庄松の言葉が耳に痛い。

源信僧都⑩-9(往生要集-阿鼻地獄) 

2009年09月14日 | 七高僧
源信僧都⑩-9(往生要集-阿鼻地獄) 

⑧阿鼻地獄(あびじごく)
・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、
・五逆罪(親殺し、阿羅漢殺し)、謗法罪

阿鼻地獄は無間地獄ともいう。
地獄の最下層に位置する。
大きさは前7つより大きく、
縦横高さそれぞれ二万由旬。

最下層ゆえ、地獄に落ちるまで、
まっ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて
到着するまで2000年かかる。

前の7大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、
大阿鼻地獄の苦、1000倍もあるという。
剣樹、刀山、湯などの苦しみを
絶え間(寸分・刹那)なく受ける。
これまでの地獄さえ、この無間地獄に
比べれば夢のような幸福だという。

この無間地獄の寿命は八万劫という。
1劫は4億3200万年の八万倍というが、
それは信じられない位、永い時間を指す。
時間の長さで地獄の苦しみを現わしているのだ。

もし、すべて阿鼻地獄の苦悩を耳にする人は、
ことごとく、みな恐ろしさに堪えられないで、
聞けばたちまち死んでしまうだろう。

このような阿鼻地獄については、
まだ、千分の一も説明されていない。
なぜなら、いくら説いても説きつくせないし、
また聴くことも、
喩えることもできないからである。

もし誰かが説き、誰かが聴くとしても、  
そのような人はは血をはいて死んでしまうだろう。

五つの逆罪を犯し、因果の道理を否定し、
大乗を誹謗し、四重戒を犯し、
不当に信者の施しを受けながら、
のうのうと暮らしいていた者などが、
この中に堕ちる。

源信僧都⑩-8(往生要集-大焦熱地獄)

2009年09月13日 | 七高僧
源信僧都⑩-8(往生要集-大焦熱地獄)

⑦大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)
・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見
・犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)。

焦熱地獄の下に位置し、
前の6つの地獄の一切の諸苦に10倍して重く受ける。
また更なる極熱で焼かれて焦げる。
その炎は最大で高さ500由旬、横幅200由旬あるという。
罪人の苦しみの声は地獄から
3000由旬離れた場所でも聞こえる。

その寿命は半中劫という。

ここでの寿命は一中劫の半分で、
生きものを殺したり、
邪まな淫にふけったり、
酒をのんだり、嘘をついたり、
よこしまな考えを抱いたり、
また、仏の定めた戒めを
正しくまもっている尼を
犯したりしたものがこのなかに墜ちる。

このような悪いをことをしたひとは、
まず、死んでから
地獄に堕ちるまでの間(中有)に、
大地獄の有様を見せられる。
そこには閻魔王の手下の鬼たちがいて、
顔にはおそろしい形相をあらわし、
手足はきわめて熱く、
からだをねじり肱を怒らせている。
その手には鋭い刀をとり、
ひどく大きな腹は黒雲のような色をし、
眼の炎は燈火のようにもえ、
鉤のようにまがった牙は鋒のように鋭く、
臂も手もみんな長くて、
身体を揺り動かして威容を示すと、
身体中の部分がはげしく隆り起がる。
このような恐ろしい形相をして、
罪人の咽をしっかり掴まえ、
漸次下に向かって、
十億由旬をくだっていく。

そこにつくと、閻魔王が
さまざまに罪人を責め叱りつける。
責めしかられると、
罪人は悪業の綱に縛られて、
そこを出て地獄に向かう。
はるか遠く、大焦熱地獄の一面に
燃えあがっている炎をみ、
また地獄の罪人の泣き叫ぶ声を聞き、
悲しみと恐ろしさのあまり、
量り知れない苦しみを受ける。
閻魔王の手下の鬼が
罪人を責め、叱りつけていう。

地獄より  聞こえし声に
かくのごと すでにおそるる
地獄にて  焼かるるときは
乾きたる  薪草を焼くごと
焼ける火は まことの火かは
悪業の   火の焼けるなり
火の焼くは 消ゆべきものを
業の火は  消すことかたし

このように心をこめて責めしかってから、
罪人をひきつれて地獄にむかうと、
大きな火炎のむらがり燃えている所がある。
この火炎のはげしさは、
罪人のつくった悪業のはげしさである。
ここにくると、地獄の鬼は、
突然、罪人の身体を放り出して、
この火焔の塊の中に堕とす。
ちようど、大きな山の崖からつき放して、
さらに嶮しい崖のうえにつきおとすように。

源信僧都⑩-7(往生要集-焦熱地獄)

2009年09月12日 | 七高僧
源信僧都⑩-7(往生要集-焦熱地獄)

⑥焦熱地獄(しょうねつじごく)
・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語
・邪見(仏教の教えとは相容れない
    考えを説き、また実践する)。

大叫喚地獄の下に位置し、その10倍の苦を受ける。
常に極熱で焼かれ焦げる。
焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も
雪のように冷たく感じられるという。

この地獄の寿命は1600歳という。
人間界の時間で5京3084兆1600年を
経たないと転生できない。

焦熱地獄は、
地獄の鬼は罪人を捕らえて、
熱い鉄の地面に横たえ、
仰向かせたり俯かせたりして、
頭から足まで大きな熱した鉄の棒で
打ったり突いたりし、
肉団子のようにしてしまう。

あるいは、ものすごく熱い
大きな鉄鍋の上において、
猛火で罪人をあぶり、左右に転がし、
腹や背を焼いて薄くする。

あるいは、大きな鉄串で肛門から突き刺して
頭に貫きとおし、くりかえし火にあぶって、
罪人のさまざまな器官や毛孔、
口のなかまでも、
すっかり火をはくほどにする。
あるいは、熱い鉄の釜に入れ、
あるいは熱い鉄の高楼に置くと、
鉄の猛火がはげしく燃えて
骨や髄にまでしみとおる。

また、付属の特別の地獄があり、
闇火風(あんかふう)と名づける。
ここは、この地獄の罪人が
悪風によって空中に吹きあげられ、
つかまるところなく、
車輪のようにくるくる急回転させられ、
からだも見えなくなるところである。
このように回転したあと、
別の太刀風がおこり、
罪人のからだを砂のように細かに砕いて、
十方にまき散らす。
散ってしまうと、また活きかえり、
活きかえると、またまき散らす。
これを繰りかえして、
いつ果てるとも分らない。

もし、誰かが、
「変わるものはこの身体で、
 変わらないものは四つの要素
 (四大)である」と、
このような誤った考えをおこすならば、
その邪まな考えの人は、
このような苦しみを受ける。




源信僧都⑩-6(往生要集-大叫喚地獄)

2009年09月11日 | 七高僧
源信僧都⑩-6(往生要集-大叫喚地獄)

⑤大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)
・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語(うそ)

叫喚地獄の下に位置し、その10倍の苦を受ける。
叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、
更に大きな苦を受け叫び喚(な)く。

この世界に堕ちるものは殺生・盗み
邪まな男女関係・飲酒による罪の外に
ウソをついた罪による報いを受ける
世界である。

よく子供時代に親から
「ウソついたら針千本飲ます」
「ウソをついた者は地獄で閻魔さまに
 閂(カンヌキ)で舌を抜かれるぞ」
と言われたことがあるだろう。

この地獄の寿命は人間界の時間で
6821兆1200億年に当たる。

ここにもまた、特別の地獄がある。
一つは受ぶ苦(じゅぶく)と名づける。
ここの罪人は、熱い鉄のするどい針で
唇と舌を刺し通され、
泣き叫ぶこともできない。

また、受無辺苦(じゅむへんく)と呼ぶ。
地獄の鬼が熱い鉄の金鋏(かなばさみ)で、
罪人の舌を抜くが、
抜いてしまうとまた生え、
生えるとまたすぐ抜く。
眼をくり抜くときもまた、
これと同じである。

また、刀で罪人の身体を切るが、
刀はとても薄く鋭利で、
剃刀のようである。
こうした、色々と違った種類の
苦しみを受けるのは、
すべて嘘をついた報いなのである。