一日一訓(30日 誤りを犯さないことを)
「誤りを犯さないことを誇りとするよりも
誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」
生涯にただ一度の敗戦
「三方ヶ原の合戦」が、
家康を天下人にしたといえば
意外かもしれぬ。
三方ヶ原は浜松市の北方に広がる、
東西八キロ、南北十二キロの台地である。
元亀三年十二月二十二日。
家康(三十一歳)の一万一千が、
武田軍二万五千と激突し惨敗した。
当代随一の名将・武田信玄の
遠江侵攻に、どう対処すべきか。
籠城持久戦を主張した信長にたいし、
家康は積極作戦を考えた。
長期の今川氏からの解放感と、
浅井、朝倉を撃破した自信から、
〝信玄恐るるに足らず〟
の思いあがりが家康にはあった。
一方、浜松城の堅塁を
知っていた信玄は、
大胆な欺瞞作戦で、
家康を三方ヶ原へと誘いだし、
武田騎馬隊の勇名をほしいままにした。
信玄が投げたエサに
食いついた家康は、
若気のいたりといわれても、
しかたがなかろう。
命からがら、
彼は浜松城へ逃げ帰っている。
「彼を知りて己を知らば、
百戦してあやうからず。
彼を知らず己を知らざれば、
戦うごとにあやうし」
孫子の言を三方ヶ原で、
家康は証明させられた。
ただし家康の偉大さは、
敗因が慢心にあったことを深く反省し、
信玄を師とあおいで、
彼の戦術戦略を学びとったところにある。
三方ヶ原の敗戦から
二十八年たった慶長五年。
石田三成と天下を争ったとき、
みごとに彼は、
この失敗の教訓を生かした。
まず、石田三成ら反徳川勢に
挙兵させるため、
みずから上杉討伐に
出かけてスキをつくる。
決戦前日には
〝三成の本拠、佐和山城を突く〟
との偽情報を流して、
大垣城に拠る西軍を
関ヶ原へ誘いだすことに成功し、
殲滅している。
信玄が自分にとった戦法を、
そっくりまねたのだ。
失敗を成功のもとにするのは、
心構え一つである。
「誤りを犯さないことを誇りとするよりも
誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」
生涯にただ一度の敗戦
「三方ヶ原の合戦」が、
家康を天下人にしたといえば
意外かもしれぬ。
三方ヶ原は浜松市の北方に広がる、
東西八キロ、南北十二キロの台地である。
元亀三年十二月二十二日。
家康(三十一歳)の一万一千が、
武田軍二万五千と激突し惨敗した。
当代随一の名将・武田信玄の
遠江侵攻に、どう対処すべきか。
籠城持久戦を主張した信長にたいし、
家康は積極作戦を考えた。
長期の今川氏からの解放感と、
浅井、朝倉を撃破した自信から、
〝信玄恐るるに足らず〟
の思いあがりが家康にはあった。
一方、浜松城の堅塁を
知っていた信玄は、
大胆な欺瞞作戦で、
家康を三方ヶ原へと誘いだし、
武田騎馬隊の勇名をほしいままにした。
信玄が投げたエサに
食いついた家康は、
若気のいたりといわれても、
しかたがなかろう。
命からがら、
彼は浜松城へ逃げ帰っている。
「彼を知りて己を知らば、
百戦してあやうからず。
彼を知らず己を知らざれば、
戦うごとにあやうし」
孫子の言を三方ヶ原で、
家康は証明させられた。
ただし家康の偉大さは、
敗因が慢心にあったことを深く反省し、
信玄を師とあおいで、
彼の戦術戦略を学びとったところにある。
三方ヶ原の敗戦から
二十八年たった慶長五年。
石田三成と天下を争ったとき、
みごとに彼は、
この失敗の教訓を生かした。
まず、石田三成ら反徳川勢に
挙兵させるため、
みずから上杉討伐に
出かけてスキをつくる。
決戦前日には
〝三成の本拠、佐和山城を突く〟
との偽情報を流して、
大垣城に拠る西軍を
関ヶ原へ誘いだすことに成功し、
殲滅している。
信玄が自分にとった戦法を、
そっくりまねたのだ。
失敗を成功のもとにするのは、
心構え一つである。