歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

死の名場面(25)-3(真田増丸 仏教済世軍の設立)

2010年04月30日 | 死の名場面
死の名場面(25)-3(真田増丸 仏教済世軍の設立)

大正4年、真田増丸は

「仏陀の慈光を世界に輝かし、
 以て全人類を救済すること」

をスローガンに、
仏教済世軍を設立し、
八幡市に本部をおく。

真田師38歳であった。

しかし、熱烈な伝道の言葉にも、
耳を傾ける労働者は少なかった。
本部での朝の勤行に、
一人の参詣者すらないことも
しばしばであった。

「なぜ、八幡の者は聞いてくれないのか」
煩悶は続いた。

だが、情熱あふれる布教は、
やがて八幡の労働者、
住民の心をとらえはじめた。
熱心な聞法者が次第に増え、
やがて九州、中国、さらには
東京へも教線を拡大するにいたった。

大正6年には機関誌を創刊。
発行部数も1万部を
超えるにいたった。
東京赤坂の質素な屋敷を
新たな拠点に、
伝道の熱意は、北海道から、
台湾、韓国にも及び、
各地に支部が開かれた。
済世軍に属する人は
数万人に達したという。
教団が大きくなっても、
真田師は、いつもみすぼらしい
黒衣をまとった一介の貧乏僧と
しか見えない姿で
伝道にあけくれていた。

全身全霊、情熱の人
真田師は、街頭演説のことを
「野外戦」と言った。
そして野外戦に出るときには
必ず仏前にお別れの勤行をした。
死を覚悟しての出陣
だったのである。
同行の者にも、
「済世軍の真生命はこの野外戦にあるのだ」
と、常に言っていたという。
 本願寺のある住職は、こう感慨を語った。
「真田という人は、
 全身全霊、情熱の人であり、
 一度演壇に登らるるや、
 もはや何者も眼中にはない。
 ただ言々句々、
 肺腑をついて現れる信仰の
 叫びばかりである。
 満堂の聴衆は陶然として、
 その熱心に酔わされたる形があった。
 いや信者ばかりではない。
 脈のあがった我々坊主が
 感激させられた。
 あの熱心と真剣でやってもらえば、
 沈滞したる仏教も
 きっと復活するだろう」


死の名場面(25)-2(真田増丸 熱烈な実践の仏教者)

2010年04月29日 | 死の名場面
死の名場面(25)-2(真田増丸 熱烈な実践の仏教者)

大正3年、真田増丸は
製鉄の町北九州八幡へ
出て労働者に
布教することを決意し、
野外伝道を始めた。

八幡は製鉄所の開設で
好景気にわき、
各地から多くの労働者が
流れ込んでいた。
中には世を食い詰めた者も
まじっていた。

博打うち、けんかの
血なまぐさい事件は絶え間なく、
新しく開けた鉄の町は、
繁栄のかげに、
荒々しい地獄の様相を
呈していたのである。

この地獄の中に迷える人たちに
救いの手を差し伸べようと
したのであった。

その伝道方法は、
太鼓をたたいて街頭を行進し、
その先頭に祖末な衣服の
真田増丸師が立った。

人々は異様なものを
見る目を向け、
「乞食坊主が来た」と
嘲笑をかくさなかったという。

雨の日も、風の日も、
街頭に出て、
太鼓をたたいて
労働者を集め、
伝道が続けられた。



死の名場面(25)(真田増丸 仇討ちを忘れるな)

2010年04月28日 | 死の名場面
死の名場面(25)(真田増丸 仇討ちを忘れるな)

「熱烈な実践の仏教者」
と称され、
布教怠慢を続ける本願寺に
警鐘乱打したのが、
真田増丸であった。

明治10年、
福岡県豊前市の
本願寺派浄円寺に生まれた。
32歳で東京帝国大学を卒業した。

大学でも成績は優秀で
トップクラスにいた。

休みに地元へ帰ると門徒は
自慢の寺の若い後継ぎに
皆が集まり、祝いの席を
設けてくれた。

真田増丸も内心、
自分の成績の優れていることに
慢心になっていた。

その席の中で一人の年配の同行が
真田増丸に釘を刺した。

「おい若住(寺の後継ぎ)、
 仇討ちを忘れるなよ」

その言葉は真田増丸の
心に突き刺さり、
大学に帰ってからも
忘れることはなかった。

「仇討ちを忘れるな」

仇とは何か。
そうだ、寺に生まれ、
お仏飯で育ち、
門徒の御布施で
大学まで出させて
頂いている、
その目的は何か。

我が身の後生の一大事の
解決ではないか。
その仇とは後生の一大事のこと。

その仇討ちとは
後生の一大事の解決を
すること以外に
仏法を求める目的は
ないということである。

大学を終え、
喜び帰郷すると、母は、
彼を本尊の前に導いて言った。

「この卒業証書は
 まことにうれしいが、
 ご門徒の汗と脂の結晶です。
 この卒業証書を生かすには
 信仰に生きるほかはない」

息子の目の前で、母は、
卒業証書を破り捨て、
真の浄土真宗の信仰を求める
新しい出発点にせよ、と諭した。

以来、大分県の西光寺に入り、
求道に励むのであった。


死の名場面(24)-12(清澤満之 平成の近代教学の誤り②)

2010年04月27日 | 死の名場面
死の名場面(24)-12(清澤満之 平成の近代教学の誤り②)

阿弥陀仏と極楽浄土を
指方立相と
私の心以外に
ましますことを
お釈迦様と親鸞聖人は
教えて下された。

にもかかわらず、
近代教学の者達は
私の心以外に
阿弥陀仏も浄土も
ないという
唯心の弥陀、
己心の浄土と
解釈していった
のである。

『阿弥陀経』には

「これより西方
 十万億の仏土を過ぎて、
 世界あり、
 名づけて極楽と曰う。
 その土に仏まします、
 阿弥陀と号す。
 いま現にましまして
 説法したまう」
  (阿弥陀経)

と、釈尊が明示された。

阿弥陀仏と
その極楽浄土は
智慧第一の舎利弗でさえ、
驚き、答えることが
できなかったほど
凄い仏様であり、
素晴らしき世界であった。

そんな遠いところに
極楽があったり、
そこに阿弥陀仏という
仏様がましますことなど、
我々の常識や知識では
信じられないことであった。

この心が、
後々、多くの学者達により、

「唯心の弥陀」
「己心の浄土」

という仏法を破壊する
迷心・邪説を
生み出して
ゆくことになり、
それが大衆の心を
つかんでゆくことに
なるのだ。

即ち、阿弥陀仏を
自性唯心的に
考えるのは、
多少の違いがあっても
華厳、天台、真言、禅宗等の
各宗派みな同じである。

阿弥陀仏は
ただ私の心に中にあり、
浄土といっても
己の心を離れてはない。
と主張するのである。

故にこのような見方を

「己心の弥陀」
「唯心の浄土」

ともいわれている。

地獄・極楽は決して死後
あの世だけではない。
我々の毎日の生活、
そこに地獄も極楽もある。
地獄極楽は
自分の心の中にこそ
あると教えた。

しかし、このような考えを
親鸞聖人は

「然るに末代の道俗、
 近世の宗師、
 自性唯心に沈んで
 浄土の真証を貶し」
  (教行信証)

と、教行信証の中で

「唯心の弥陀」
「己心の浄土」

という
間違った考えであり、
浄土真宗の教えを
けなしているのだと
きびしく批判し
排斥せられている。

凡夫のマコトというのは、

「マコトのないのが
 凡夫のまこと」

である。
それが真実の
私達の相でなのだ。

どこどこまでも
煩悩具足の凡夫の
私の心の中に
阿弥陀仏や極楽浄土の
ようなマコトが
ある筈がない。

金輪際助かる縁
手がかりのない機を
知らされた親鸞聖人は
「唯心の弥陀」
「己心の浄土」
という考えなど
絶対にありえないことを
身をもって知らされ、
教えられた。

清澤満之の一番の
問題点は
親鸞聖人が世間の批判を
受けてまでも徹底して
教えてゆかれたことを
大衆ウケを狙って
大きく曲げて
いったことである。

親鸞聖人の教えを
説かない浄土真宗はない

正確な定規に
従わねば真っ直ぐに
切れないように、
親鸞聖人の正しい教えを
聞かなければ、
ある程度、喜べても
真実の信心は得られない。

親鸞聖人や蓮如上人が、
恒に真実の教えの
開顕に身命を
賭されたのは
その為である。

親鸞聖人の主著
『教行信証』を観ても
先ず「教」が説かれて
「行信証」がある。

「教」のない
「行信証」は、
親鸞聖人には
ないのである。

「一実円満の真教」を
聴聞してこそ
「一実円満の行信証」を
頂くことが出来るのだ。
 
この一実円満の真教の、
親鸞聖人の教えを
説かないのは
絶対に浄土真宗では
ないのである。



死の名場面(24)-11(清澤満之 平成の近代教学の誤り①)

2010年04月26日 | 死の名場面
死の名場面(24)-11(清澤満之 平成の近代教学の誤り①)

東本願寺が
宗祖親鸞聖人七百五十回
御遠忌記念出版として、
『親鸞』全十巻を
平成22年4月から
毎月1冊ずつ刊行
することになった。

監修は小川一乗。
大谷大学学長をした
現在の真宗大谷派
教学研究所の所長である。

その第1巻が発刊された
『親鸞の説法 歎異鈔の世界』
著者は延塚知道(のぶつかみちのぶ)
現大谷大学教授だ。

小川一乗が期待している
現在の東本願寺では
トップの学者である。

本願寺トップの二人が
書いた歎異鈔の解釈で
あるから、これが今の
本願寺の主張であることは
間違いない。

しかし、一読して
清澤満之、それを後継した
曽我・金子達のの影響が
ついにこんなことまで
言わせるようになったことを
痛感した内容だった。

==============
「二種深信は『歎異鈔』を
 学ぶ場合の最も大切な
 信心の了解だ」
  (歎異鈔の世界)
==============

と始まるところまでは
よかった。
しかし、その二種深信の
意訳が問題であった。

==============
「自身は、現にこれ
 罪悪生死の凡夫、
 昿劫より已来
 常に没し
 常に流転して、
 出離の縁有る事無し」
 と、深信す。                
    (機の深信)
【訳】
「我が身は今現に、
 真実に背き迷いを
 重ねる凡夫である。
 人類始まって已来の
 遠い過去から
 常に迷ってきたものであり、
 永遠の未来にわたって、
 これからも迷いを
 超えることのできない身で
 あると信じる」
   (歎異鈔の世界)

==============

何気なく読んでいると
そうか、そうかと
読み進んでしまうのだが、
この意訳は親鸞聖人の教えを
根本から歪曲しているのだ。

機の深信は
「自身は」
とあるように
善導大師・親鸞聖人が
阿弥陀仏に救いとられて
知らされた真実の自己
を告白されたものである。

「いままでも、(過去世)
 いまも、  (現在世)
 いまからも、(未来世)
 救われることの
 絶対にない
 極悪最下の自分で
 あった、とハッキリした」

のを「機の深信」という。

三世に渡って、
金輪際助かる縁手がかりのない
極悪最下の自己を
ツユチリの疑いなく
知らされたことをいうのだ。

その三世がいつ間にか、

「人類始まって已来の
 遠い過去から
 永遠の未来にわたって、
 これからも」

と、人類の過去、未来に
すり替えられている。

つまり、
過去とはの先祖、
未来とは子孫と
解釈しているのである。

何故、このような解釈に
なっていまうのだろう。
これは清澤満之が
蓮如上人を排斥し
主張した三世の否定から
きているのである。

親鸞聖人の教えで
ある二種深信までも
自分達の思想で
平気で曲げて解釈してゆく、
これが近代教学の
実態なのだ。

それが法の深信になると
もっと恐ろしい解釈と
なってゆく。


死の名場面(24)-10(清澤満之 近代教学の崩壊)

2010年04月25日 | 死の名場面
死の名場面(24)-10(清澤満之 近代教学の崩壊)

戦時中、親鸞聖人の教えを
踏みにじった近代教学の
本願寺学者たちは、
戦後、何の責任も
追及されず、
反省の弁もなく
いわばほおかぶりした形で、
教団、あるいは宗門大学
大谷大学などの中心に
居座り続けた。

曽我量深は
昭和26年に
大谷大学名誉教授となり、
昭和36年には
大谷派から教学特別功労者
として表彰されている。

暁烏敏は
昭和26年に
東本願寺宗務総長に
就任した。

金子大栄は
昭和19年に
大谷派最高学階の
「講師」を授与される。
昭和26年には
大谷大学名誉教授。
昭和38年には
宗務顧問に就任した。

戦時中、
西本願寺法主の座にあった
勝如は、昭和五十二年、
引退に当たり,
こう述べた。

「宗門は戦中戦後を
 通じて相当の期間、
 多くの困難や障害を
 経験した。
 このように、
 私は大きな変動の
 時代を体験したが、
 その体験を通して
 深く感じたのは、
 政治の方向が
 どのように変ろうとも、
 社会の制度が
 どのように動こうとも、
 浄土真宗の御法義の
 根本にはいささかの
 ゆるぎもないことで、
 時と所とにかかわらず
 その真価を発揮する
 浄土真宗は、
 まことに尊くありがたく、
 聖人が真実の教えと
 お喜びになったお気持も、
 さこそと味わわせていただく」

よくぞ言ったりで、
これが浄土真宗の
御法義の根本をぶち壊した
張本人の言とは
だれしも耳を疑うだろう。

「かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す」

「五濁増のしるしには 
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり」
  (悲嘆述懐和讃)

本願寺に深い反省と、
出直す気が本当に
あるならば、
過去の大罪を
仏祖に総懺悔し、

釈尊の出世本懐

「一向専念無量寿仏」

を全門信徒に徹底する
以外にない。

それができぬ限り、
本願寺に「未来」は
来ないのである。

死の名場面(24)-9(清澤満之 戦争犯罪者)

2010年04月25日 | 死の名場面
死の名場面(24)-9(清澤満之 戦争犯罪者)

清澤満之が提唱した
近代教学にかぶれた
真宗の学者達が
如何に親鸞聖人の教えに
昏かったのか。

それが暴露されたのが
太平洋戦争時代の
僧侶達の言動である。

国家に迎合し、
本願寺がいかに
聖人の教えを
蹂躙していったか。

当時を代表する
真宗学者の言説を
一部紹介する。

・曽我量深は
「弥陀の本願と
 天皇の本願と
 一致している」

・暁烏敏
「天皇が仏に帰せよと
 仰せられるから
 天皇の仰せによって
 仏に帰依し、
 仏に帰依する
 ことにより
 天皇に帰依する。
 平面的に天皇即仏
 ではいけない。
 天皇が奥の院である。
 弥陀がその前にある」

・金子大栄
「仏法は別に要らない。
 皇国の道というものが、
 即ち我々の遵守
 すべきものである。
 仏の教というものは、
 それの縁になるものである」
 神道の一部として
 仏法を崇めてゆく」

これらはほんの一部だが、
ここにきて

「一向専念無量寿仏」

真宗の肝腑骨目は、
完全に破壊されたのである。

これら本願寺の僧侶達が
軍部の手先となって、
門徒に学徒出陣を
推進する立て役者と
なっていたのである。

東本願寺は、
信徒を積極的に
戦争に駆り立てるために
「同信報国運動委員会」
なるものを創設し、
戦争協力に乗り出していた。

そんな中、戦争加担に
反対した僧侶に対し、
身の保身を図り、
特高警察に突きだし、
処分していったのだ。

親鸞聖人の教えを蹂躙し、
戦争犯罪の中心的な人物に
なったのが、誰あろう
清澤満之の後継者、
近代教学の僧侶だったのだ。




死の名場面(24)-8(清澤満之 近代教学のなれの果て)

2010年04月24日 | 死の名場面
死の名場面(24)-8(清澤満之 近代教学のなれの果て)

約四百年前、
信長と本願寺が、
十一年にわたる戦いを
繰り広げた。
これを石山戦争という。

戦いがまだ本格化する前、
信長の、悪名高い
比叡山焼き打ち事件が
起きている。

叡山の三千坊が焼き払われ、
僧侶から女子供まで
ことごとく首を切られた。

明日はわが身。
だれしも思ったことだろう。
だが、我々の先達は
鋤(すき)や鍬(くわ)を手に、
千軍万馬の信長の
軍勢に立ち向かった。

顕如上人の号令のもと、
全国の愛山護法の
門徒が一致団結し、
仏敵信長に法城の
土足の蹂躙を
許さなかった歴史がある。

では戦時中の
本願寺はどうであったか。
仏法より教勢維持を気にし、
弾圧に負けて
神棚安置を受け入れた。

その結果として昭和十二年、
東西両本願寺の法主が、
伊勢神宮参拝という
浄土真宗の自殺行為まで
やり始めたのである。
 
さらに昭和十五年、
本願寺は国家への
忠誠を表すため、
『教行信証』『御伝鈔』など、
お聖教の数ヵ所を、
"天皇神聖の原理"に
抵触すると認め、削除した。

その時代発行の
『教行信証』には、
あろうことか、

「主上・臣下、
 法に背き
義に違し、
 忿を成し、
 怨を結ぶ」

の聖人の決死的大文章が
削り取られているのだ。

それでいて戦後は、
元に戻して澄ましている。
いかにご都合主義で
お聖教を扱っているかである。


死の名場面(24)-7(清澤満之 『御文章』を排した近代教学)

2010年04月23日 | 死の名場面
死の名場面(24)-7(清澤満之 『御文章』を排した近代教学)

蓮如上人の『御文章』は
いかにして書かれたか、
『山科連署記』には
こう記されている。

「教行信証文類・六要抄、
 表紙のやぶれ候ほど
 御覧じ候て、
 その後、御文を
 御作りなされ候、
 これ千のものを百にえり、
 百のものを十にえり、
 十のものを一に
 えりすぐりて、
 凡夫直入の金言を
 いかなるものも、
 聞き易く、
 やがて心得候うように
 あそばし候」
 
蓮如上人は
『教行信証』を
表紙が破れるほど
読み込まれ、
その中の大事なことを、
千の中から一つ
選りすぐるようにして
『御文章』を
お書きくだされた。

まさに凡夫往生の手鏡
なのである。

その蓮如上人の
懇切なご教導を、
「古臭い」といって
排斥するのが
現在の真宗大谷派である。

彼らの信奉するのは、
明治初頭の学僧、
清沢満之とその弟子たち
暁烏敏、曽我量深、金子大栄らが
提唱した〝近代教学〟である。

清澤満之は、

「自分にとっての
 三部経とは
 『阿含経』
 『エピクテタスの語録』
 『歎異抄』だ」

と語り、

「来世の幸福は、
 私はまだ実験しない
 ことであるから、
 此処に陳ぶることは
 出来ぬ」

「地獄極楽の有無は、
 無用の論題なり」

など、
仏教の根幹たる
三世因果をまるで認めず、
後生の一大事を歪曲した。

『歎異抄』をベースに
西洋哲学を混入した
彼らの教学は、
西洋思想崇拝の時代の
風潮にも乗って
大いにもてはやされたが、
お聖教とかみ合わず、
特に「後生の一大事」
と多く書かれた
『御文章』は都合が悪かった。

曽我量深は、
真宗同朋会の席で、
蓮如上人を一段下に
位置づけ、

「親鸞聖人のみ教えを
 一層明らかに」

と発言した。

ある人が、

「親鸞聖人、蓮如上人の
 み教えはすでに
 定まっていて、
 一つであると思って
 いましたのに」

と質問したところ、
皆で嘲笑したという話も残る。
 
昭和56年、真宗大谷派は
蓮如上人の『御文章』を、
宗憲(大谷派の最高法規)の
「正依の聖教」の項目から
ついに外している。  



死の名場面(24)-6(清澤満之 後生の一大事の否定)

2010年04月22日 | 死の名場面
死の名場面(24)-6(清澤満之 後生の一大事の否定)

清澤満之は平素から、

「死後の事は
 実験できないので、
 ここに述ぶることは
 できない」

と言い、
『歎異抄』に
説かれる死後(後生)に
ついても不問とし、
他力信心を
頭の中で作り上げた
観念の遊戯に
してしまった。

感化を受けた
学者たちもこぞって、
この"近代教学"を唱え、
後生の一大事を否定した。

これが西洋から
流入した哲学や
科学主義に染まった
当時の思想界に
受け入れられ、
彼の弟子、
・曽我量深、
・金子大栄、
・暁烏敏、
・安田理深ら
が作った近代教学は、
大谷派の主流となっていく。

以来、大谷派は、
後生を説かない
宗風となったのである。

しかし、蓮如上人の
「後生の一大事」
という教説と
合致しないため、

「蓮如教学は古い、
 我々は親鸞教学だ」

と、両聖人の教えを分断し、
さらに大谷派の
宗憲(最高規則)で、
正依の聖教から
『御文章』を削除して
しまったのである。

仏教は、
後生の一大事に始まり、
後生の一大事の解決に終わる。
その要が抜けて
しまっているのだから、
仏法にならないのだ。

蓮如上人によって、
浄土真宗は日本中に
広まったのに、
これでもはや大谷派は、
浄土真宗とは
いえなくなった。

清澤満之に始まった
東本願寺の改革は
正しい親鸞聖人の教えを
踏み外し、
大変な方向へと突き進んで
ゆくことになるのだ。