死の名場面(25)-3(真田増丸 仏教済世軍の設立)
大正4年、真田増丸は
「仏陀の慈光を世界に輝かし、
以て全人類を救済すること」
をスローガンに、
仏教済世軍を設立し、
八幡市に本部をおく。
真田師38歳であった。
しかし、熱烈な伝道の言葉にも、
耳を傾ける労働者は少なかった。
本部での朝の勤行に、
一人の参詣者すらないことも
しばしばであった。
「なぜ、八幡の者は聞いてくれないのか」
煩悶は続いた。
だが、情熱あふれる布教は、
やがて八幡の労働者、
住民の心をとらえはじめた。
熱心な聞法者が次第に増え、
やがて九州、中国、さらには
東京へも教線を拡大するにいたった。
大正6年には機関誌を創刊。
発行部数も1万部を
超えるにいたった。
東京赤坂の質素な屋敷を
新たな拠点に、
伝道の熱意は、北海道から、
台湾、韓国にも及び、
各地に支部が開かれた。
済世軍に属する人は
数万人に達したという。
教団が大きくなっても、
真田師は、いつもみすぼらしい
黒衣をまとった一介の貧乏僧と
しか見えない姿で
伝道にあけくれていた。
全身全霊、情熱の人
真田師は、街頭演説のことを
「野外戦」と言った。
そして野外戦に出るときには
必ず仏前にお別れの勤行をした。
死を覚悟しての出陣
だったのである。
同行の者にも、
「済世軍の真生命はこの野外戦にあるのだ」
と、常に言っていたという。
本願寺のある住職は、こう感慨を語った。
「真田という人は、
全身全霊、情熱の人であり、
一度演壇に登らるるや、
もはや何者も眼中にはない。
ただ言々句々、
肺腑をついて現れる信仰の
叫びばかりである。
満堂の聴衆は陶然として、
その熱心に酔わされたる形があった。
いや信者ばかりではない。
脈のあがった我々坊主が
感激させられた。
あの熱心と真剣でやってもらえば、
沈滞したる仏教も
きっと復活するだろう」
大正4年、真田増丸は
「仏陀の慈光を世界に輝かし、
以て全人類を救済すること」
をスローガンに、
仏教済世軍を設立し、
八幡市に本部をおく。
真田師38歳であった。
しかし、熱烈な伝道の言葉にも、
耳を傾ける労働者は少なかった。
本部での朝の勤行に、
一人の参詣者すらないことも
しばしばであった。
「なぜ、八幡の者は聞いてくれないのか」
煩悶は続いた。
だが、情熱あふれる布教は、
やがて八幡の労働者、
住民の心をとらえはじめた。
熱心な聞法者が次第に増え、
やがて九州、中国、さらには
東京へも教線を拡大するにいたった。
大正6年には機関誌を創刊。
発行部数も1万部を
超えるにいたった。
東京赤坂の質素な屋敷を
新たな拠点に、
伝道の熱意は、北海道から、
台湾、韓国にも及び、
各地に支部が開かれた。
済世軍に属する人は
数万人に達したという。
教団が大きくなっても、
真田師は、いつもみすぼらしい
黒衣をまとった一介の貧乏僧と
しか見えない姿で
伝道にあけくれていた。
全身全霊、情熱の人
真田師は、街頭演説のことを
「野外戦」と言った。
そして野外戦に出るときには
必ず仏前にお別れの勤行をした。
死を覚悟しての出陣
だったのである。
同行の者にも、
「済世軍の真生命はこの野外戦にあるのだ」
と、常に言っていたという。
本願寺のある住職は、こう感慨を語った。
「真田という人は、
全身全霊、情熱の人であり、
一度演壇に登らるるや、
もはや何者も眼中にはない。
ただ言々句々、
肺腑をついて現れる信仰の
叫びばかりである。
満堂の聴衆は陶然として、
その熱心に酔わされたる形があった。
いや信者ばかりではない。
脈のあがった我々坊主が
感激させられた。
あの熱心と真剣でやってもらえば、
沈滞したる仏教も
きっと復活するだろう」