歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(鏡のない村)

2012年11月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(鏡のない村)

ある処に鏡が一つもない村があった。
村人は自分の顔をハッキリと
見たことがなかったのである。

そんな折、どうしても町に
買い物にいかなければ
ならなくなり、一人の若者が
行くことになったのだ。

町へ行くと見るもの、会うもの
珍しいものばかりで目を奪われた。

ある店の前にきて、
四角板のようなものが
置いてあり、覗いてビックリした。

そのには死んだ筈のお父さんが
いるではないか。

「お父さん、20年前に
 亡くなったと思ったのに
 こんな処におられたのですか。
 すぐに村へおつれします。」

それは鏡に映し出された自分の顔だった。
20年も経つと死んだお父さんに
ソックリになって、
鏡に映った自分の顔をお父さんと
見間違えたのである。

早く村に帰って、皆をビックリさせ、
喜ばせてやろうと若者は家路についた。

家に戻った若者は二階の
押入れの中に鏡を仕舞い、

「お父さん、しばらく
 待っていてくださいね。
 まず、妻を呼んできて、
 驚かせますから」

と妻のところへ行った。

「おい、町で凄いものを
 買ってきたぞ。
 二階の押入れに入れて
 あるから見て来い。」
 
と言った。

妻はどんなお土産かと
押入れの戸を開いた。

するとそこには若くて
綺麗な女性がいるではないか。
夫は自分に内緒で女を
かくまっていたと思った妻は
激怒した。

本当は鏡に映った自分の姿だったが、
鏡を見たことのなかった妻は
他の女だと見間違えたのだ。

「あなた、いつから
 あんな女をかこっていたの」

と夫を攻め立てる。

「女、そんなの知らないよ。
 それよりもお父さんがいて、
 ビックリしただろう」

「お父さんなんていなかったわよ」

と、仲の良い夫婦なのに
大喧嘩が始まった。

そこへ尼さんがやってきた。

「どうしたのですか。
 普段は仲の良い夫婦が大喧嘩して」

と仲裁に入ってくれた。

事情をきいた尼さんは、

「それなら私が見てきましょう」

と二階へ行って戻ってきた。

「はい、確かに女の方はおりました。
 しかし、改心したようで、
 髪をそり、尼になっておりました」

と言ったという。

尼さんも自分の顔を見たことがないので
鏡に映った姿を見間違えたようだ。

鏡は自分の姿を映し出す為に
作りだされた物。
無いと笑い話どころか、
悲劇がおきる。

或る富裕な婆羅門の子が
美しい妻を迎えた。

新婚の若き夫婦は飲酒によって
一層の快楽に酔うた。
ある夜、新妻が酒を飲もうとして
カメの蓋を開けると酔眼に
ふと美しい女がうつった。
新妻はテッキリこれは、
自分に秘めた女だと
感じ夫に憤り泣き叫んだ。

夫は、驚いてカメを覗くと、
そこには女は見えず
若い情欲に燃えた男の顔が見えるので、
妻に怪しい男があると
思って妻に激しく、
その不貞を怒った。

若い夫婦の激しい争いで
カメは打ち砕かれ
酒つきて始めて
浅ましい争いが絶えたという。

悦楽の悪夢に酔うている若い夫婦には
自分の姿も判らなかったのである。
三毒五欲の悪酒に酔い潰れて
我身知らずから
我々の一切の迷いや
苦悩の生ずることを
知らねばならない。






人間の実相を語る歴史人(スフィンクス)

2012年11月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(スフィンクス)

アフリカの砂漠に千古の沈黙を守る
フェキオン山のスフィンクスは、

「初めは四本足で歩き、
 中頃二足となり、
 終りに三足となる動物は何か」

と道を通る人々に、
この謎の質問を投げて
答え得ない者を喰い殺した。

ある旅人(オイディプス)が正解を答えると
スフィンクスは崖から身を投げたという。

この謎の答えは

「人間」。

赤ん坊の頃は四つん這い、
やがて二本足で立つようになるが、
老人になると杖を突くので三本足になる、
というわけである。

つまり人間に向かって
人間とは何ぞやと問うのである。

スフィンクスは
ライオンの身体、
美しい人間の女性の顔と
乳房のある胸、
鷲の翼を持つ怪物。

ナイル河畔に奇怪な姿を現す
古代民族の神像ではない。
彼はたえず我々の生活に接近して

「お前は何か」

と問うているのである。

哲学も文芸も科学も宗教も
此の問に対する答である。

我々は一人一人此の問に
答えなければならない。
彼の前には代弁も許されなければ
受け売りの知識も間に合わないのだ。
では何故に自己がかくも不明なのであろうか。

自己とは如何なるものか。 




人間の実相を語る歴史人(汝自身を知れ)

2012年11月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(汝自身を知れ)

人類歴史の初頭に於いて
ギリシャのデルファイの神殿の扉に
きざまれた。

「汝自身を知れ」

の有名な言葉は千古に輝く金言である。

ソクラテスの友人が、神に問うた。
「ソクラテスより
 知恵のあるものは誰か?」

神の託宣はこうだった。

「ソクラテスより
 知恵のあるものはいない」。

その話を聞いたソクラテスは、
神の言葉を疑問に思った。

自分がそんな知恵者でも
賢者でもないと思ってた。

周囲には自分より賢そうな、
またそう自認している哲学者や、
政治家、職人、芸術家等々が
あふれていた。

ソクラテスは、彼らに直接
話を聞きに行った。

どれだけ賢くても答えられない。
矛盾をつかれた者達は、
ソクラテスを恨んだ。

ソクラテスは多くの敵を作り、
ついに死刑に処される。

無知の知というのは、
ソクラテスがその問答法で
用いたとっても有名な言葉である。

『無知の知』

何も知らないと知ることこそが、
真の知を知り得るみなもとだ
とした言葉である。

科学の分野は

「わかっている。
 知っている」

そんなつもりになっている
事柄を疑ってかかるところから
始まるのである。

歴史上こうであったと
いった解釈がなされている事柄や
科学の分野においても新たなる発見は、
時に、既存の価値観や定義を
疑ったところから
進歩をとげていったりする。

しかし、科学・医学の発達は
また、人間の知の限界を
示している。

人間は

「無知の知」

という言葉を
聞いた時、絶望を感じる。

「汝自身を知れ」というのは、

人間とはどんな存在なのだろうか。

世間から知者と思われ
尊敬されている人々を
みても分かるように、
真の知がどんなことか
誰も分かっているものはいない。

人間にとって本当の幸福になるには
本当の自己を知らなくてはなれない。

では我々人間の実相とは何か、
我々は大きな問題に必ず、
答えを出さなければならない。





人間の実相を語る歴史人(釈尊と貴公子)

2012年11月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(釈尊と貴公子)

仏教の第一歩は現実の
自己自身を出発点とする。

ある時、釈尊が林中の一樹の蔭に
休んでいられた。
その時林中で三十人余りの貴公子達が
日頃のウンプン晴らしに
銘々夫人同伴で酒宴を楽しんでいた。

その中に一人の独身者が
娼婦(お金で買う女性)の
ような女を連れて加わっていた。

ところが、みんな飲むほどに酔うほどに
疲れて休んでしまった。
一人の貴公子が夜中、起きると
自分の身につけていた貴重な品物がない。

娼婦が一行の貴重品を
盗んで逃げたのである。
目がさめて驚いた一同は
懸命に探し廻っている時、
丁度一樹のかげに釈尊の尊容を見て

「一女人の通りかかるのを
御存知ありませんか」

と尋ねた。

釈尊はことの次第をきかれて

「そのようなわけか、
 だが一女人を求めることと
 汝自身を求めることと、
 いずれが大事であろうか」

と反問されたので一同
迷夢からさめた心地して
釈尊の説法をきき
お弟子となったことが
古い仏典に記されている。

道元禅師の正法眼蔵の
現世公案の一節にも

「仏道を習うというのは自己を習うなり」

と道破し

「よもすがら、仏の道を求むれば、
 我こころにぞ、たずね入りぬる」

と源信僧都は述懐している。