歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

迦葉尊者⑧(第2回経典結集・アショカ王)

2009年03月31日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者⑧(第2回経典結集・アショカ王)

経典の結集は迦葉らの手で行われたが
1回では終わらなかった。

その経典結集に大いに貢献したのが
インドのマウリヤ朝の第3代の王、アショカ王だ。
漢訳では阿育王と書かれている。生没年は不明だが、
王権に在位していた時期は紀元前268年-232年とされていて、
インド亜大陸をほぼ統一した。

古代インドにあって仏教を守護した大王として知られている。
伝説では、アショーカ王の通った所は、すべて焼き払われ
草木が一本も生えていない、といわれるほどの暴君だった。
あまりにも無残な戦争(カリンガ王国征服)を反省し、
仏教に深く帰依した。

なぜアショカ王が仏教を聞くことになったのか。
「堪忍の袋、値千金」という諺を聞いたことが
あるだろう。
この王も堪忍の袋が縁で仏道を求めるようになったのある。

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迦葉尊者⑦(経典結集)

2009年03月31日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者⑦(経典結集)

釈尊は80才2月15日、涅槃の雲に隠れられた。
ちょうどその頃、迦葉尊者は、遠くの土地で托鉢をして、
五百人の修行僧と歩んでいた。
そこで釈尊の入滅を知りことになる。

どの弟子達も悲歎にくれた。
ところが悲報を聞いた中に一人、スバッダという修行僧が
「釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。
 これからは欲望のおもむくままにしよう」
と、暴言を吐いた。

これには迦葉も驚き、心を痛め、
正しい教法と戒律を定める必要を感じたのである。

そして、経典結集を決意したのである。
迦葉が中心となり,500人の優れた仏弟子を王舎城に集め,
戒律については優波離尊者が,
経法については阿難尊者が伝えたものを
全員が検討して,これを成文化して承認した。

これが有名な第1回結集だ。
もし、迦葉が経典結集を決意しなかったなら、
今日、残る七千余巻の経門はなかったのである。
迦葉尊者、最大の功績ではなかろうか。


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迦葉尊者⑥(貧しい村への托鉢)

2009年03月30日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者⑥(貧しい村への托鉢)

迦葉がいつも貧しい村に托鉢に行くのを
不信に感じた他の釈迦の弟子達が
迦葉の後をつけてみた。

いつものように迦葉は貧しい村へと出かけていった。
どの家からも門前払い。誰も布施する者はいなかった。

村はずれにくると、一人の年取った女乞食が
物乞いをしていた。
ライ病のかかり、近寄る人もいなかった。
その老婆の前に立った迦葉は
「お婆さん、私はお釈迦様の弟子迦葉というもの。
 どうか、何か布施をしてはもらえぬか。」
と言った。

するとお婆さん、迦葉の真面目な姿に
「見ての通り、差し上げたくとも、
 私には何もあなたに布施できるものはありません。」
と断ると、
目の前の汚いお椀の中にある腐ったお粥、
自分でも食べるのを躊躇しているお粥を指差され、
迦葉は言った。
「ここにお粥があるではないか。」

「こんな物は私でさえ、食うことのできないもの。」
とお婆さんが答えるが、迦葉は有難く頂戴する。

その時、差し出したお婆さんの指からライ病の
膿が一緒にお粥の中に入ったが、
気にせず、迦葉は飲み干した。

「お婆さんの尊い布施のお陰で今日一日の
 生きる糧を得ることができた。
 この功徳でお婆さんよ、幸せになれる
 ご縁を結ばれた。」

お婆さんは自分が我利我利亡者の心の報いで
今日の貧しい辛い生活があることを知らされ、
改心したのである。

この一部始終を見ていた仏弟子達は
迦葉の元で修行する道を選んだ。

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迦葉尊者⑤(頭陀第一)

2009年03月30日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者⑤(頭陀第一)

迦葉尊者は釈迦十大弟子の中で頭陀第一といわれる。
「頭陀」とは、衣食住に関する貪りを払い除く修行のこと.
打ち捨てられた汚いぼろ布で作った僧衣だけを身に着け、
常に托鉢乞食によって食を得る。
乞食(こつじき)するのに家の貧富を選ばず、
一日の食事は午前中の一食だけとし、食べ過ぎない。

「頭陀第一」とは、
こういった頭陀行の実践をだれよりも
厳格に行っていたのが迦葉尊者であった。

こういった頭陀の生活実践は、
本来の出家修行者としては当然の習慣だったが、
教団が発展するにつれて、比丘たちは僧院に定住するようになり、
寄進された綺麗な僧衣をまとったり、
招かれて信者の家で食事の供養を受けることも、
ごく普通となって来た。

だが、迦葉は頭陀行をかたくなに守り続けていた。

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迦葉尊者④(拈華微笑 ねんげみしょう)

2009年03月29日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者④(拈華微笑 ねんげみしょう)

「拈華」は花をひねること。
「花をひねりて微笑する」ということ。

釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で弟子たちに
仏法を説かれた時、金波羅華(金色の蓮の花)を
ひねって見せると
弟子達はその意味を理解できず沈黙していた。
ただ一人、迦葉だけがその意味を悟って微笑んだので
釈迦は彼だけに仏法の真理を授けたと仰言った。

禅宗ではこれを「以心伝心・不立文字」といい、
釈迦は、迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を
理解できる者として、彼に仏法の奥義を授けたことから
迦葉を禅宗の祖とあがめている。

真理というものは言葉を離れたものであるから、
言葉を使わず、心から心へ伝えること。
また、伝えることができることとしている。

言葉を離れた真実である(離言真如)が、
言葉によらなければ、誰にも伝えることは
できない。(依言真如)

ここに釈尊を初め、善知識方の大変なご苦労が
あったことは決して忘れてはならない。



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迦葉尊者③(真の夫婦とは)

2009年03月28日 | 仏教
迦葉尊者③(真の夫婦とは)

ピッパリも妙賢も床も離れて寝たので
12年間、子供もなく過ごした。

両親が亡くなったある日、
ピッパリが畑仕事を見ていて土中から出てきた虫が
鳥に食べられる光景を目撃し、
世の無常を感じた。

妻妙賢も同じく胡麻を乾燥していると多くの虫がおり、
このまま油を絞ると殺生すると思い、共に出家を決意した。

多くの人が引き止める中、
剃髪して粗衣に着替え鉢を持って出家したが、
ある分かれ道でこのままでは私情に流されるとして、
迦葉は右へ、彼女は左へと分かれたという。

ピッパリは釈迦と出会い、ついに仏弟子となり、
名前を正式に迦葉と改めた。
妙賢もやがて女性の出家が認められた時、
女性の修行者第一号となったのである。

一つの目的の向かう夫婦の姿を実践した本当の夫婦では
なかろうか。



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迦葉尊者②(妻妙賢との出会い)

2009年03月27日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者②(妻妙賢との出会い)

ピッパリの両親は金に糸目をつけず、探させた。
女人像を乗せた台車を置いて休んでいた所、
妙賢の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから
縁談がまとまった。
黄金像を結納金に妙賢は迦葉の元へ嫁いだ。
しかし、彼女はまだ十六歳で、
彼女自身も出家したいと考えていた。

ピッパリは妙賢に告げた。
「私は将来、出家したいと願っている。
だから、結婚はしても肉体の交わりは持たないが
許してほしい。」

すると妙賢も
「願ってもないこと、私も出家を志していたのです。
喜んでお受け致します。」
互いに同じ出家の意志がある事に喜んだ、
それを承知の上で結婚した。


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迦葉尊者①(栴檀は双葉より芳し)

2009年03月26日 | 釈迦十大弟子
迦葉尊者①(栴檀は双葉より芳し)

釈尊十大弟子の中で真面目といったならば
迦葉以上の人はいなかった。
釈迦入滅の際、釈迦教団を任されたのも
その真面目さから他の弟子の信頼を得て
いたからに外ならない。

”栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳し(かんばし)”
といわれる。
栴檀(せんだん)は発芽したころから
芳香を放つことから、
優れた人物は、幼いときから他と違って
優れていることを示すことわざである。

迦葉はインドのマガダ国のバラモンの家に生れた。
ピッパラ=菩提樹の下で生まれたので、
幼名をピッパリといった。

八歳でバラモン教に入門し修行してすべてを得たが、
さらに出家して求道したいと考えていた。
二十歳の頃に家系が途絶えるのを恐れた両親は、
彼に結婚をすすめたが、清浄な生活を送りたいと
一度断るも断りきれず、
彼は工巧に金の美しい女人像を造らせて、
これと同じならばその人と結婚しようと
条件を出したのである。

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目蓮尊者⑧(お盆を聞法精進のスタートに)

2009年03月25日 | 釈迦十大弟子
目蓮尊者⑧(お盆を聞法精進のスタートに)

日々の新聞紙上に死亡記事の載らない日は一日もない。
あれを読んで、自分の死に結びつけて考える者は、
暁天の星である。
みんな他人の死にすりかえている。

健康、愛欲、地位、名誉、財産、権力の
一切が満ち足りたとしたら、
その上に何を望むものがあるだろうか。
人間最後の願望である永遠に生きたい、
との衝動にかられる。

不意の刃傷に遇い「金は、いくらでも出す、助けてくれ」と
叫んで死んだ力道山を笑うものは笑われるだろう。
それ程、生命への愛着は抜き難いものがある。

ところが生ある者には必ず死がある。
死が人生の行く手に立ちはだかったら
愕然として絶望せざるを得ない。

アリストテレスは、「哲学は驚嘆から始まる」といった。
パスカルは「人間は考える葦である」と言う。
この厳粛な死を考えたら「これでよいのか」の驚きが、
必ず起こってくる。これが聞法の出発点である。

死を忘れての一切の営みは無駄であり
死を見つめ、死を超える者にのみ
真実の生が開かれることを忘れてはならない。
                                                         
目蓮尊者を由来としているお盆は、
亡き祖先を救う日ではなく、
今、現に倒さに懸って飢え、渇き、苦しみ続けて、
未来永劫、流転せんとしている、
我身自身を救う聞法精進の日で
あることを忘れてはならない.


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目蓮尊者⑦(セミの一生)

2009年03月24日 | 釈迦十大弟子
目蓮尊者⑦(セミの一生)

夏、かまびすしく鳴き叫んでいるセミには、
やがて死ぬ気配など微塵も見あたらぬ。
しかし、セミのオスは、幾年もかゝって土の中で作りあげた、
あの精巧な楽器を僅か一週間内外使って死んでしまう。

七日間と言っても、羽化して四日目でないと
鳴けないから、正味三日になる。
たった三日鳴くと、何処かで独り淋しく、
楽器を抱いたまゝ死んでゆく。
思えば、はかない一生ではある。
「朝に紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
蓮如上人の白骨の章にある名文である。

それにしても現代人は、余りにも医薬や医療を過信している。
医薬万能の迷信におち入っているようだ。
けれども、医薬はあくまでも、人間の生命を、
いくらか延ばしてはくれるが、死の解決はしてくれない。

人間は妙なもので、自分だけは永遠に生きられると思っている。
死は、他人のことだと思い込んでいる。
妄想顛倒も甚だしいが、これが我々の、いつわらぬ実相である。


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