歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

死の名場面④-3(円谷、オリンピック後の不運)

2009年12月24日 | 死の名場面
死の名場面④-3(円谷、オリンピック後の不運)

次の目標を
「メキシコシティオリンピックでの金メダル」
と円谷幸吉は宣言した。
しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。

所属する自衛隊体育学校の校長が
円谷と畠野コーチの理解者だった吉井武繁から
吉池重朝に替わり、
それまで選手育成のために許されて来た
特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。

その上、ほぼ決まりかけていた
円谷の婚約を吉池が
「次のオリンピックの方が大事」
と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。

直後に、体育学校入学以来、円谷をサポート、
婚約に対する干渉の際も
「結婚に上官の許可を必要とした旧軍の習慣を
 振り回すのは不当だ」
と抵抗した畠野コーチが突然転勤となり、
円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。

オリンピックの敗北の後、
結婚を機に鮮やかな復活を果たした
君原健二とはあまりにも対照的であった。

競技に出場するたびに記録がふるわないので、
「銅メダルが泣く、無念の9位」とか
「迷えるランナー、薄れ行く五輪の栄光」
などと、マスコミは無責任に書きたてた。

実は持病の椎間板ヘルニアとアキレス腱が悪化して、
もはや走れる状態ではなかったのだ。
普通なら引退してもおかしくないのだが、
過大に期待されて頂けに、
その重圧で金縛りになっていた彼は、
うかつに弱音をはくことができなかった。

そして、いよいよメキシコ・オリンピックが始まる
昭和43年の年が明けて、正月気分が
まだ抜けきらない1月9日、
テレビや夕刊のニュースを見た人々は
いいようのないショックを受けた。

「もうこれ以上、走れない」
という遺書を残して、彼が自殺をしたのである。

東京都練馬区大泉学園町にある
自衛隊体育学校の幹部宿舎の個室で、
右首の動脈を安全カミソリで切って、
血だらけになって死んでいるのが
発見されたのだ。



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