
teenagerの頃、正確には15歳で初めて「お祈り」を経験した私は教会の雰囲気に魅せられた。
そして、讃美歌に酔った。
ただ、それだけの事だったのに、何故か私は教会の前でよく足を止める。
そう言えば、古都鎌倉では神社仏閣で足を止めて手を合わせる人をよく見かけたものだ。
鎌倉辺りでそんな人の真似をしていたら、何時になったら目的地に着くのだろうと思った事がある。
自称「俄かクリスチャン」或いは「都合クリスチャン」の私は高齢者の仲間入りをして、無理せず出来るだけ教会に行って、静かに自分と向き合ってみようと思った。
今年は、大きな夢をふたつも用意してしまった
夢はみるものではなくかなえるもの・・・だから神様に見守って欲しい
こんな私こそ正真正銘の「俄かクリスチャン」
でも・・・生きている限り見捨てないと楽観的に考えるのが私である。
昨日、私は数年の付き合いがあって初対面の
素敵な女性を近所の教会に案内した。
牧師様には前の日に電話で訪問の許可を戴いたが、丁寧に案内して下さった。
先週は野暮用で、今週は天気次第で教会に行けるかどうかも分からないのに、私は厚かましくも礼拝時間外の時間に教会のドアを開けて貰ったのである。
西から上京していた女性は「建物と牧師様」に感激したようだった
私は教会内でこんな文字を見つけた。


一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。


これは言うまでもなく、イエス・キリストの言葉で「ヨハネ24節」
これは言うまでもなく御自分の十字架での死を麦にたとえて語っておられるところ
麦が地面に落されて、真っ暗な所に、地面の下に埋められてしまう
それは確かに埋葬
でも、それによって新芽を出し、成長し、やがて多くの実を結ぶことになる
巨大な古木が物凄い音を立てて倒れた後に、多くの生き物・・・新芽や昆虫が息をし始めた映像を見た事がある。
しかし、もし地面に落されないで、テーブルの上か何処かにに置いたままだったら、いつまでたっても1粒の麦のまま
イエス・キリストはこの譬えを通して、御自分の使命を確認され、そしていよいよ十字架に架かる決意を表されたのである。
自らの使命を死ぬ前に知る・・・凡人には出来ないことだ
このイエス・キリストの生き様はクリスチャンの人間でなくても私達にも大切なことを教えてくれてるのではないだろうか。
次の25節では「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とある。
「自分の命を愛する」 というのは、自分中心で、自分ばかり大切にする人で・・・
自分の思いや願い、自分の計画が中心で、安定した生活を求める。
でも、思い通りにならなかったり、時には安定した生活を失うこともあるので、そんな時は慌てふためき、パニックになってしまうだろう。
ところが、自分の思いや願い、自分の計画より、神様の御心 が実現することをまず願って自分の思いや願いは神様にお任せしてしまうという事だ。
そうすれば、自分の生活のことは神様が保障していてくださる、神様が面倒を見てくださる・・・永久に・・・という事である。
自分自身の一生を考えると・・・
義父が逝き
母が逝き
豪州の両親が逝き
父が逝き
義理の母が逝ってしまった
その後に私達が残り、その子供が残っている
やがて私達の世代が往ってしまうと・・・子供達が祖父母・父母の上に経験や知識を重ねて次の世代に遺していこう、ときっとするだろう。
このように考えて、神様に決められた期間を有意義に過ごして、癒される場所を一生懸命探そうとするのは私だけだろうか
そして、讃美歌に酔った。
ただ、それだけの事だったのに、何故か私は教会の前でよく足を止める。
そう言えば、古都鎌倉では神社仏閣で足を止めて手を合わせる人をよく見かけたものだ。
鎌倉辺りでそんな人の真似をしていたら、何時になったら目的地に着くのだろうと思った事がある。
自称「俄かクリスチャン」或いは「都合クリスチャン」の私は高齢者の仲間入りをして、無理せず出来るだけ教会に行って、静かに自分と向き合ってみようと思った。
今年は、大きな夢をふたつも用意してしまった

夢はみるものではなくかなえるもの・・・だから神様に見守って欲しい

こんな私こそ正真正銘の「俄かクリスチャン」

でも・・・生きている限り見捨てないと楽観的に考えるのが私である。
昨日、私は数年の付き合いがあって初対面の

牧師様には前の日に電話で訪問の許可を戴いたが、丁寧に案内して下さった。
先週は野暮用で、今週は天気次第で教会に行けるかどうかも分からないのに、私は厚かましくも礼拝時間外の時間に教会のドアを開けて貰ったのである。
西から上京していた女性は「建物と牧師様」に感激したようだった

私は教会内でこんな文字を見つけた。






これは言うまでもなく、イエス・キリストの言葉で「ヨハネ24節」
これは言うまでもなく御自分の十字架での死を麦にたとえて語っておられるところ

麦が地面に落されて、真っ暗な所に、地面の下に埋められてしまう

それは確かに埋葬

でも、それによって新芽を出し、成長し、やがて多くの実を結ぶことになる
巨大な古木が物凄い音を立てて倒れた後に、多くの生き物・・・新芽や昆虫が息をし始めた映像を見た事がある。
しかし、もし地面に落されないで、テーブルの上か何処かにに置いたままだったら、いつまでたっても1粒の麦のまま

イエス・キリストはこの譬えを通して、御自分の使命を確認され、そしていよいよ十字架に架かる決意を表されたのである。
自らの使命を死ぬ前に知る・・・凡人には出来ないことだ

このイエス・キリストの生き様はクリスチャンの人間でなくても私達にも大切なことを教えてくれてるのではないだろうか。
次の25節では「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とある。
「自分の命を愛する」 というのは、自分中心で、自分ばかり大切にする人で・・・
自分の思いや願い、自分の計画が中心で、安定した生活を求める。
でも、思い通りにならなかったり、時には安定した生活を失うこともあるので、そんな時は慌てふためき、パニックになってしまうだろう。
ところが、自分の思いや願い、自分の計画より、神様の御心 が実現することをまず願って自分の思いや願いは神様にお任せしてしまうという事だ。
そうすれば、自分の生活のことは神様が保障していてくださる、神様が面倒を見てくださる・・・永久に・・・という事である。
自分自身の一生を考えると・・・
義父が逝き
母が逝き
豪州の両親が逝き
父が逝き
義理の母が逝ってしまった
その後に私達が残り、その子供が残っている
やがて私達の世代が往ってしまうと・・・子供達が祖父母・父母の上に経験や知識を重ねて次の世代に遺していこう、ときっとするだろう。
このように考えて、神様に決められた期間を有意義に過ごして、癒される場所を一生懸命探そうとするのは私だけだろうか
