中部経典『ノコギリのたとえ』のつづきです。
>比丘たちよ、ちょうどこのように、ここに、或る比丘は、諸々の不快な言葉に遭遇しないかぎり、おだやかな中にもおだやかで、つつましやかな中にもつつましやかで、ものしずかな中にもものしずかでいるのです。比丘たちよ、しかしながら、諸々の不快な言葉が、その比丘に遭遇するとき、まさにそこでこそ、その比丘たちは『おだやかで、つつましやかで、ものしずかである』と、知るべきなのである。
と、真に『怒らない』とはどういうことなのかを語られたお釈迦様は、
さらに比丘たちに、真に『素直である』ことの意味、大切さについて話されます。
>比丘たちよ、私は、衣食住薬、生活必需品を得るために素直になっていることで、(真の)素直だと説きません。それは、なぜでしょう。比丘たちよ、その比丘は、衣食住薬、生活必需品を得られないことになるならば、素直にならず、素直さに至らないのです。
生活必需品(生きるために最低限必要なもの)は大事ですが、それでもそれらを”得るため”の素直さは偽善であり見せかけの素直さであり、本物の正直で素直な性格とは言えない、ということです。
>比丘たちよ、しかしながら、まさに、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になり、素直に至るのであるならば、私は、彼を、『素直である』と説きます。比丘たちよ、ですから、ー私たちは、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になろう、素直さに至る者となろうーと、比丘たちよ、あなたたちは、まさしくこのように戒めねばなりません。
頑固で人の話を聞こうとしない人には、次第に誰も声をかけなくなります。人のアドバイスを聞く耳がある、柔軟で謙虚な人は、どんどん成長することができる人です。素直な人には、周りも声をかけやすく、アドバイスしてあげやすいのです。悟りを開くまでずっと成長し続けようと思うなら、人のアドバイスに耳を傾けられるくらいの謙虚さ、素直さがなければいけない、ということです。
”あまりに素直で人にだまされる”といわれることがありますが、それは素直だからではなく「無知」だから。ものごとを理性的に判断できない(鵜呑みにするとか)から騙されるのであって、素直だから、ではない。真理を学び、素直に能力を伸ばして、理性的に判断ができるようになった人は騙されません。
さらに、”誘惑に負けないしっかりした性格”を、「頑固」とは言いません。理性的なのです。理性的(真理を重んじている)だからしっかり判断ができるし、論理的にきちんと説明もできるのです。
>「素直」といっても、俗世間的なご褒美をねらった偽善的な素直さと、真理を重んじて行う真の素直さは区別しなければいけません。世俗人の社会は損得の世界だから、素直か頑固かも損得論で決めてしまいます。・・・・「何もわからないから、反対できないから、気が弱いから、相手が偉いから、相手が怖いから、利益を得るから、相手が喜ぶから」などの理由で素直になっても、ひとつも真の素直ではないのです。(スマナサーラ長老)
仏教の真の目的は解脱することなので、比丘はそこから脱線してはいけない、ということです。損得ではなく、素直に人格を高めましょう、ということですね。
成長するためには、「素直さ」(頑固でないこと。言葉をかけられ易いこと)が必要。
”損得がらみ”の素直さは「真の素直さ」ではない。真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬うことで、真の素直さに至るのがよい。
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