ちょっとひと言

日頃の自らの経験を通じ感じていることや身近な出来事を綴っていきます。

新足利赤十字病院建設用地引渡式

2009年03月31日 | Weblog
 「新足利赤十字病院建設用地引渡式」が滞りなく済んだ。4月1日以降、58,000㎡の土地を「どうぞ無償で20年間お使いください」といった内容の覚書の締結である。外でやる式典なので、天気と西風が心配だったが、幸い好天に恵まれホッとした。日本赤十字社から副社長の大塚義治氏と、栃木県知事の福田富一氏のご出席がいただけたのは嬉しかった。祝辞の中で、それぞれの方が私を高く評価いただき、恐縮至極であったが、当時の建設省の好意で、53,000坪の広い土地を渡良瀬川の河川敷内にある市有地と、等価不等積交換で取得できたことに端を発し、7年間の月日を経て今日の運びとなったのである。これもひとえに全て職員の努力である。この際、大いに感謝を申し上げたい。
 日本赤十字社の総裁は、皇后陛下である。副総裁には、皇太子殿下をはじめ皇族の方々が名を連ねておられる。そして日赤は、日本赤十字社法という法律に基づいて設立され、日本で最も権威のある法人と言っても過言でないと思う。東京に本社があり、全国47都道府県に支部を置き、国内外の災害救援、医療、献血、社会福祉などの事業、あるいは救急法の普及など幅広い分野で活動している。
 赤十字病院は全国に92ある。足利赤十字病院は、その中でも優良な病院に位置付けられている。つまり、非常な努力により極めて経営が安定しており、医師の確保も群を抜いている。つまり市民の安全・安心が確保されているのである。6月からいよいよ工事が始まり、平成23年の夏頃には移転ができる。高度医療機関として北関東一の病院を目指して頑張っていただきたい。足利市民も大きな期待を寄せている。

~足利学校のロマン~

2009年03月18日 | Weblog
 足利学校を創建された一人と目される、小野篁(おののたかむら:802~853)は、平安時代前期の官人、学者、歌人であった。
 百人一首の中に『わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣舟』という歌がある。遣唐副使に任ぜられたのが不満で、いさかいを起こし、官位剥奪の上、隠岐の島へ配流に処せられた際つくった歌らしい。広い海原を多くの島々を目指して舟を漕ぎ出していったと、都にいる人に告げてくれ、漁師の釣り舟よ、といった意味であろう。
 小野篁は、かつて父親と陸奥の国(東北地方)で過ごしたことがあるらしく、その頃は弓馬で暴れまわっていたようだが、ある時嵯峨天皇のことばに触れて発奮し学業に勤しむようになった。足利学校とのつながりは、歴史上では定かではない。東北の行き還りにあるいは足利の地に立ち寄ったのかもしれないが、それを証明する事実は見当たらないようである。
 絶世の美人であった小野小町は、篁の娘とされ、これまた百人一首の中に『花の色は移りにけりないたづらに 我が身(み)世(よ)にふるながめせし間に』という歌がある。桜の花の色は早くも褪せてしまった、 長雨がふっていた間に。私の美しかった姿かたちも衰えてしまった。むなしく世を過ごし、もの思いにふけっている間に、というような意味である。
 小野道風は篁の孫で『三蹟』といわれ、日本の書家の原点として名高い。これ程有名な人が足利学校を創建されたということ、真実性は低いのかもしれないが、ロマンがあって楽しい話である。

新しい「元気アップ体操」

2009年03月16日 | Weblog
 市の元気老人課でこの度、市民愛唱歌「われらのまちに」のメロディーに乗せた「元気アップ体操」を作成した。職員が説明に来、指導してくれた。私はこの曲が好きで、ケータイの着メロにもなっている。元気老人課という名称は、私が市長になって間もなく、高齢対策課から変更したものである。高齢者を福祉として捉えるのはいかがなものかと常に考えていたからである。
いわゆる65歳以上の高齢者は、2月1日現在で、市内に38,158人いる。その中で介護認定者、或いは要支援者は、5,325人で、わずか14%に過ぎない。つまり、殆どの人が元気ということになる。従って、元気になる施策をたてた方が、より効率的な筈である。
 高齢者の筋力アップは効果がある。私自身、このところ多忙にかまけ、散歩や元気アップ体操をしなくなった。すると、たちどころに筋力の衰えを感じるのである。体は常に動かしていないと、すぐ転ぶことになる。改めて「転ぶな、食べ過ぎるな、風邪ひくな」を生活の信条にせねばと思う。
 なお、この元気アップ体操は、近いうちに「わたらせテレビ」で流すことになっている。多くの高齢者の方に見ていただき、実践してもらいたい。健康は何よりの宝である。


誇れる美しいふるさと

2009年03月11日 | Weblog
 足利のシンボルでもある中橋の塗り替えが終わった。27年振りである。グリーンの鮮やかな色が蘇った。本来、国土交通省はこの橋の架け替えを主張している。堤防より橋の麓の部分の方が1.5メートルも低いのだから、溢水時には川の水がこぼれ出てしまうことになる。これでは土堤の意味がない。
しかし、足利市の玄関口である中橋が、色が削げて余りにもみすぼらしいので、架け替えを待たずに、塗り替えをお願いした経緯もある。経費は1億円以上かかっている。でも、私としてはほっとしている。
アーチ型の橋は、全国的になくなっている。足利には、渡良瀬橋(昭和10年完成)、中橋(昭和11年完成)と二橋が連なっている。これは全国的に珍しいと言われている。これもまた市民の財産である。大事にしていきたい。東武駅から見る中橋の向こうの山波と市街地、渡良瀬橋の向こうに写り出される夕焼け、ともにまことに美しい眺めである。美しいふるさとを持つ喜びを強く感じている。この素晴らしい環境は、何が何でも守らなければならない。

卒業式

2009年03月10日 | Weblog
 北中の卒業式に出席した。市長としては最後の機会である。敢えて北中を選んだのは、昔から北郷、名草地区が好きだったからでもある。昨日の情報で、北中には元気のいいのがいて、市長が出席するとなると心配だから、前日は夜遅くまで警戒するということだった。私も聊か興味を持って式に参加したが、何のことはない、一人だけ腕まくりをして、妙なズボンをはいていた生徒がいた。この生徒、何と卒業証書をもらった後、大きな声で先生にお世話になったとお礼を言い、その目には涙が光っているではないか。感動した私は、思わず駆け寄って激励してやりたい位の気持ちになった。私は、あいさつの中で言った。元気のいい人もいる、しかし君達は青春の真っ只中にいるのだ。他人に迷惑さえかけなければ、思い切って自由な行動をしてもよいのではないか、と。清々しい心に残る卒業式だった。

新たな旅立ち

2009年03月04日 | Weblog
 足利西高校がついに閉校した。繊維産業が最盛期の頃、特に東北地方から女子就業者が大量に足利市に来てくれた。その人達に高校の就学の機会を与えるべく開校したのが、全国的にも稀有な昼間2部制の定時制高校だった。
 昭和44年足利女子高校西分校としてスタートし、その後、47年には栃木県立足利西高校として現在地に独立開校したのである。丁度40年の歴史である。私は、閉校式というものには初めての参加である。この式が、これほど悲しいものとは思わなかった。まだ若い同窓会長の米山さんは、涙の中での挨拶だった。学校には、卒業生の思い出が数多く残るものである。青春の想い出が駆け廻っていたのだろう。私も目頭を熱くした。今日は67人の最後の卒業生を送り出した。これで完全に閉校となるわけである。考えて見ると、私の母校である東小学校も既に無くなって10年以上が経つ。足利市で最も古い歴史をもった学校の一つである。廃校になる少し前、創立120周年記念を祝った。今日の閉校式の最中、ふとそんなことを思い出していた。
長い歴史も、いつかどこかで途切れるものである。その時の時代の流れで止むを得ないこともあるだろう。すでに、足利商業高校と合併して新しい船出をしているが、これから足利清風高校として新たな歴史を創り始めるのである。