東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

絶江坂

2011年07月03日 | 坂道

絶江坂下 絶江坂下 絶江坂下 絶江坂下標柱 前回の御薬園坂下を左折し、明治通りの歩道を東へ歩き、次を左折すると、絶江坂の坂下である。まっすぐに北へ延びており、緩やかな勾配である。ここを進むと、まもなく、四差路になるが、この左角にちょっと古びた標柱が立っている。

四差路を上ると、次第に勾配がついてくる。中腹左(西側)に延命寺がある。そこを通り過ぎると、まもなくして左にちょっと曲がるが、そのあたりで勾配が急に緩やかになり、そのまま延びている。

この坂は、これまで歩いてきた新坂御薬園坂とほぼ平行に古川の流域から北へと麻布台地の南端に上る坂である。

標柱には次の説明がある(下の標柱の写真参照)。

「ぜっこうざか 承応二年(一六五四)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名から坂名に変った。」

絶江坂下標柱 絶江坂中腹 絶江坂中腹 絶江坂中腹 尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、御薬園坂の東にこの坂がみえ、坂途中の西側に延命寺があり、東側に曹渓寺がある。坂上は御薬園坂上につながる。近江屋板でもほぼ同様であるが、東側の曹渓寺の地内に、此辺俗ゼツコト云、とある。

『御府内備考』の本村町の書上に次のような説明がある。

「南の方三ヶ町又絶江とも唱或者川南大南仲南とも申伝候絶江と申者同所曹渓寺と申す寺に名僧之有り之依り里俗に絶江と申し伝え候」

上記の標柱は、この説明が基になっていると思われる。横関は、(標柱にもあるが)曹渓寺の開山僧を絶江といったが、後本村町南部の地名となった。地名から来た坂名ということになる、としている。

絶江坂中腹 絶江坂上側 絶江坂上側 絶江坂上標柱 岡崎によると、絶江和尚は、元和九年(1623)、赤坂今井村に臨済宗曹渓寺を開山したが、村が幕府用地、武家地としてとりあげられることになったので、承応二年(1653)、この地に移ってきた。赤穂浪士の寺坂吉右衛門の墓がある。

寺坂吉右衛門の墓があることを事前に調べてはいたが、曹渓寺の門前まで行かず、つい失念してしまった。これは次回以降の課題。

中沢新一「アースダイバー」の縄文海進期の地図を見ると、このあたりは麻布台地の東南端で、その先端近くに延命寺と曹渓寺が位置する。こういった岬に神社や寺がかならず存在するというのが中沢が説くところであるが、ここもそのような場所の一つのようである。海は、このあたりから古川の流域に沿って北側の麻布十番の方へ延びている。

絶江坂上 絶江坂上 絶江坂上から下る無名坂 絶江坂上から下る無名坂 坂上はほぼ平坦になって延びているが、途中に標柱が立っている。最近できたばかりの新しいものである。坂下のは取り替えないのだろうかと思ってしまう。

この坂は、近くの新坂御薬園坂と比べると、勾配のある部分が意外と短いが、坂下と坂上が意外に長い。このため、二つの坂とはまた違った感覚で坂散策を楽しめるところである。

坂上の標柱から、さらに進むと、若松寺の門前に至る。この道をさらに直進し道なりに進むと、前回の御薬園坂上に至るが、今回の坂巡りは、ここで終わることとし、門前から東へまっすぐ下る無名の坂があったので、この坂を下る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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