南部坂上に有栖川宮記念公園の出入口がある。ここから公園にふたたび入る。木下坂に向かうには、坂上を直進し次の信号を左折すればよいが、公園の中を通る方がかなりショートカットになる。
公園の上側を通り、都立中央図書館の前を通り過ぎて道路に出ると、突き当たりが木下坂の坂上である。1,2枚目の写真は突き当たりを右折してからちょっと進み振り返って、坂上を撮ったものである。左手が図書館・公園である。
坂上近くで少し右に曲がってから公園に沿ってまっすぐに下っている。勾配は比較的緩やかな方であるが、坂下側で左にちょっと曲がるまでかなりの距離があり、長い坂である。以前、来たとき、坂下から上り、うんざりするほど長かったことを覚えている。しかし、公園の緑がそんな気分をいやしてくれるし、いまの季節には下の写真のように歩道わきに紫陽花が咲いているのもよい。
「きのしたざか 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。」
尾張屋板江戸切絵図を見ると、南部家の屋敷と木下備中守の屋敷との間に南北に延びる道があり、坂名も坂マークもないが、ここが木下坂であろう。近江屋板には、坂名はないが、坂マーク△があり、屋敷名は木下肥後守となっている。ここも坂のそばの屋敷名が坂名の由来である。
南部坂と同じく『御府内備考』の廣尾町の書上に次のようにある。
「一坂 登凡拾間餘巾三間餘 右当町より北之方南部信濃守様御中屋敷裏道ニ有之里俗木下坂と唱候尤木下宮内少輔様御屋敷有之候ニ付右之通相唱候哉ニ奉存候尤御持之儀茂前書同様ニ而町内組合無御座候」
坂は長さ十間(18m)、幅が三間(5.5m)で、南部坂よりも短く狭く、現在よりもかなり短い。江戸切絵図をみると、木下家の屋敷は坂下側にあるようなので、現在の中腹から坂下側をそう呼んだのかもしれない。坂の保守管理は南部坂と同じく武家方持ちであった。
戦前の昭和地図を見ると、現在とほぼ同じ道筋が公園わきに沿って延びており、木下坂とある。
江戸切絵図では、この坂下が廣尾町の町屋になっているが、上記の『御府内備考』の書上によれば、ここは、古来、阿左布村の内で小名樋籠(ひろう)といったが、正徳三年(1713)町奉行支配地となった頃より廣尾町と文字が改められたという。
ところで、現在、広尾駅のすぐ西側に聖心女子大学があり、このあたりは、渋谷区広尾であるが、古くは渋谷村の内で、広尾原と呼ばれる鷹場であった。元広尾町(大学の南側)から麻布広尾町にかけてあった広野を広尾原といい、別名ツクシが原。明月・虫聞き・草摘みの名所として江戸市民に親しまれた。また、麻布七不思議の「たぬきばやし」を聞く場所としても有名であった(竹内誠編「東京の地名由来辞典」東京堂出版)。
江戸名所図会に、土筆(ツクシ)が原が次のように紹介されている。
「渋谷川の南の原をしか名づく。またこの辺を豊沢の里と呼べり。上中下にわかれて渋谷の地に属せり。」土筆(ツクシ)が原は筑紫ヶ原とも書くとのこと。
同書には、右の写真のように、広尾原の挿絵がのっている。ススキの原を老人と子供らが歩いているが、のどかな感じである。前回の記事のドイツ人画家による江戸の風景画は、写実的で、あくまで見たとおりに描いているように見えるが、長谷川雪旦が描いたこちらの方はのんびりした感じが伝わってくる描き方である。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)