東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風の子供嫌い(2)

2017年08月18日 | 荷風

偏奇館周辺地図(昭和16年) 前回のことから三年後、荷風は、ふたたび子供の悪行を目撃する。昭和5年(1930)1月の断腸亭日乗に次の記述がある。

『正月初八 晴れて寒気甚し、昏黒三番町に徃かむとて谷町通にて電車を来るを待つ。悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆と叫ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事にやと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与へて去りぬ、三番町に至るに小星家に在らず、已むことを得ず銀座に出でオリンピアに飰して空しく家に還る、』

晴れて寒さが厳しい。暗くなってから三番町に行こうと谷町通で電車を待っていると、悪戯盛の子供二三十人ばかりが群れ集り、鬼婆鬼婆と叫んでいた。中には棒切れを持つ悪がきもいた。何事かと様子を見ると、頭髪が真っ白で腰の曲がった朝鮮人の老婆が人家の戸口に立ち飴を売り金銭を乞うが、悪童等は押しながら取り巻き、棒で地面を叩いて叫びあっている。私はふだん日本の児童が乱暴極まりないことをはなはだしく憎んでいる。この寒い夜に、遠い国からさまよい来た老婆の様子が余りに哀れに見えたので、半円の銀貨一枚を与えて立ち去った。

荷風は、三年前と違って対象が自分でなく朝鮮人の老婆であったものの、またもや悪童どもの悪さか、と直感し、その有様を見て、「余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し」と記すが、これは、だから余は子供が大嫌いなのだ、という主旨であろう。

多数群れた悪童たちが朝鮮人の老婆を叫び合いながらなじっていたが、このような朝鮮人に対する子供たちのふるまいが大人の世界・社会の反映であることは疑いがない。大人たちと同じことをしてなぜ悪いのかということである。市民の自警団による朝鮮人虐殺が起きた関東大震災(1923)は、わずかその六年半前のことであった。

荷風は、気難しい人のように見えたと想像されるが、哀れに見えた老婆に半円の銀貨を与えたように、弱い者や困っている人には老若男女の別なくやさしくする面を持っていた。1945年3月10日の東京大空襲のことを記した3月9日の日乗に次の記述がある。

「時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ」(全文→以前の記事

この空襲のため荷風の長年の住居であった偏奇館が焼亡し、一帯は火災で荷風も避難していたが、道に迷った女の子と老人に親切にも道案内をしている。荷風は博愛主義者でも宗教者でもなかったが、弱い者にはめっぽうやさしかったことがわかる。

この日、荷風は三番町のお歌のところに行ったが、お歌がいなく、やむを得ず銀座に出て、オリンピアで夕食をとり空しく家に帰ったと記している。悪童どもの悪さを目撃して気が滅入っていたのに、お歌も不在で、散々な日となって、その空しさが伝わってくる。

この荷風の日乗の記述から子供のふるまいを通してであるが、戦前の民族差別のいったんがかいま見える。これはいまなお日本社会に厳然として残っている問題である。この十年近くの間に、この民族差別をあおることを目的とするデモ行進を都内で何回か偶然に目撃したが、嫌悪感しか覚えなかった。人は具体的な関係にある人間を嫌いになったり憎んだりする存在であることは否定し得ないが、特定の民族一般を憎悪するように仕向ける政治的主張は誤りである。そして、その対象がいつも何故か近隣のアジア民族である不可解さには慄然とせざるを得ない。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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