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日航ジャンボ機墜落地・御巣鷹山付近を源流とする神流川(かんながわ)。関東平野に流れ下ると埼玉県・武州と群馬県・上州を分ける川となる。
藤岡市本郷に鎮座する土師神社の地先、神流川左岸堤防を下流へJR八高線をくぐり、しばらく歩くと堤防が切れている(写真1・写真2の右側の堤防を歩いた)。
“なんだ、これは”
“洪水の時、どうすんだ”。
落ち着いて見ると、左側(河流と反対側・堤外)に、水田を挟んでもう1本の堤防が下流へ築かれている(写真1・写真2の左側の堤防)。
調べると、次のような役割と歴史がある。
不連続堤防は「霞堤」と呼ばれ、大洪水時に、2つの堤防の間(写真1・写真2の河川敷木立側)から水を写真3の河岸段丘下の遊水池(水田やハウス、道路が見える。)へ導き、堤防決壊を防ぐ(写真3の前方、左右に続く河川敷木立の手前が神流川堤防)。戦国時代に武田信玄が甲州で築き始めたとか。
ここは関東平野。当地の本格的治水事業は徳川家康の江戸城入場に伴い開始され、それを主導したのが伊奈家。伊奈備前守忠次が家康に随行し、関東代官頭に就き、その後、伊奈家は関東郡代などを務め、1792(寛政4)年の改易まで治水を主導した。
当時の関東平野は利根川、神流川、荒川、入間川、渡良瀬川、鬼怒川などが蛇行し、沼池が多い氾濫原的状況にあり、平常時の流れは緩やかで、ひとたび洪水すると排水に時間を要した。その地理条件と平野を流れる河川条件を巧みに活かし、遊水地、流作場、越流堤(水越堤)、霞堤などを造成する治水技法が伊奈流・関東流である。他方、伊奈流の技法は、増加する水田への浸水や冠水、拡大する都市の洪水などへの対処は困難であった。
伊奈流の治水技法と関東平野を中心とする治水事業の特徴は次のようである。
(1)洪水対策として、遊水地を造成し、不連続堤防の霞堤や越流堤(水越堤)を築き、洪水の一部を遊水地へ導く。平常時に流れる水位に対応する低い堤防や霞堤など低水位法を採用。
(2)河川の流路整理と変更。具体的には、利根川の常陸川筋への瀬替え(利根川東遷事業)、荒川の入間川筋への瀬替え(荒川西遷事業)、東遷利根川の霞ヶ浦への瀬替え(新利根川開削・失敗)、鬼怒川と小貝川の分離。
(3)河川の流路整理と変更に伴い、旧河川流域の沖積低湿地の新田開発可能地を広げ、低湿地の水害防止のため、吉見領や川島領にみられる大囲堤を築く。
(4)荒川の熊谷扇状地では堰(荒川六堰と呼ばれる。)を設え、用水路を開削し、既耕地を灌漑。
(5)寛永期に、新田開発可能地などの新田開発のために、見沼溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井(ともに埼玉県)など溜井を造成。
ちなみに、18世紀前半、8代将軍吉宗(元紀州藩主)の時代になると(1716~1745年)、紀州藩で水利開発に従事していた井沢弥惣兵衛為永が、1722(享保7)年9月、幕府勘定所に登用され、1724(享保9)年には新設された普請役の責任者となる。井沢は、1731(享保16)年に甲州及び信州の河川普請掛に転出するまで、幕府の治水事業を主導。紀州流と呼ばれる井沢の技法と治水事業の特徴は次のようである
(1)洪水時の高水位にも耐えるような、高くて頑丈な直線状の連続堤防を築き、早く流下させる。この高水位法は、そもそも紀州の急流河川に適する技法である。
(2)蛇行部の旧河道や池沼、遊水地、流作場、下流デルタを新田開発可能地とした。
(3)1722年の新田開発奨励策(江戸日本橋の高札)を具現するため、紀州流技法を駆使して溜井や遊水地、河川敷流作場などを新田に開発。典型は、伊奈氏(忠治)が造成した見沼溜井の新田開発と見沼代用水(長さ約90キロメートル)の開削、飯沼干拓(茨城県)、紫雲寺潟干拓(新潟県)。印旛沼と手賀沼の排水・干拓事業にもかかわる。
(4)見沼干拓のように、用水路と排水路を分離する用排水分離方式を採用。
引用・参考文献等:『新編埼玉県史 資料編13 近世4 治水』「解説」7-15頁。
執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2007年3月4日 撮影地:群馬県藤岡市