今年3月に上演致しました『月の静かな夜のこと』に関連する記事が毎日新聞(大阪地方版)に掲載されましたので、こちらに転載させて頂きます(^-^)
がんを生きる:/71 慢性骨髄性白血病/上 最後の手術のはずが /大阪
◇思わぬ診断、移植に向けバンク登録
3月の夜。府立健康科学センター(大阪市東成区)に集まった観客約40人の拍手を聞きながら、杉本郁夫さん(35)=大阪市東成区=は10年前に交わした約束を思い返していた。この日は、白血病への理解を求めて杉本さんが企画したチャリティー演劇「月の静かな夜のこと」の初演。拍手がやみ、あいさつに立った。「僕は助けてもらいました。でも2000人以上が骨髄移植を待っています」。もう約束を果たすことのできない悔しさが杉本さんの瞳を潤ませた。
◇
あと1回だけ手術を受ければ、病院と無縁の生活に戻れるはずだった。
96年、建設中のマンション5階から転落し、40日間も意識不明に。手術を繰り返して体を動かせるようになり、残すは左ひざの治療だけだった。ところが99年4月、手術に備えて血液検査を受けると、白血球の数が通常の5・5倍あると判明。血液のがん「慢性骨髄性白血病(CML)」だった。
CMLは、骨髄で白血球や赤血球をつくる「造血幹細胞」ががん化し、異常に増え続ける病気。症状が急変する「急性転化期」に入るまで進行は緩やかだが、治療しなければ死亡する。日本では毎年約600人が発症し、約8000人の患者がいるとみられる。
白血病の知識はなかったが、治療が難しいことは予想できた。「2年かかるか、3年か、それどころか治るのかと……。泣いたらあかんと思ったらまっすぐ帰れず、落ち着くまで家の近くに車を止めてしばらく一人で過ごしました」と杉本さん。
根本的に治すには骨髄移植が必要と告げられた。白血球の型が一致する健康なドナーから骨髄液を提供してもらい、血液を正常につくれるようにする治療だ。家族全員調べたが誰も適合せず、骨髄バンクに登録した。家族以外で一致する確率は数百~数万人に1人だ。
「ドナーが見つかるか心配しても仕方ないから、どう生きたいかだけ考える」と決めた。インターフェロンによる治療で進行を抑えられることが分かり、投薬しながら解体のアルバイトを始めた。建設の仕事に復帰するつもりだった。「もう行けなくなるかも」と覚悟して、友人とハワイ旅行も企画した。
朗報が届いたのは、同年のクリスマス直前。ハワイから帰国し関西国際空港から自宅に電話を入れると、ドナーが見つかったと知らされた。「これで助かる」。転落事故以来、心配をかけ通しだった両親に孝行できるのもうれしかった。
ドナーの予定に合わせ、移植を受けるのは翌年6月と決まった。【林田七恵】
(毎日新聞 2010年6月8日 地方版)
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100608ddlk27040559000c.html
がんを生きる:/71 慢性骨髄性白血病/上 最後の手術のはずが /大阪
◇思わぬ診断、移植に向けバンク登録
3月の夜。府立健康科学センター(大阪市東成区)に集まった観客約40人の拍手を聞きながら、杉本郁夫さん(35)=大阪市東成区=は10年前に交わした約束を思い返していた。この日は、白血病への理解を求めて杉本さんが企画したチャリティー演劇「月の静かな夜のこと」の初演。拍手がやみ、あいさつに立った。「僕は助けてもらいました。でも2000人以上が骨髄移植を待っています」。もう約束を果たすことのできない悔しさが杉本さんの瞳を潤ませた。
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あと1回だけ手術を受ければ、病院と無縁の生活に戻れるはずだった。
96年、建設中のマンション5階から転落し、40日間も意識不明に。手術を繰り返して体を動かせるようになり、残すは左ひざの治療だけだった。ところが99年4月、手術に備えて血液検査を受けると、白血球の数が通常の5・5倍あると判明。血液のがん「慢性骨髄性白血病(CML)」だった。
CMLは、骨髄で白血球や赤血球をつくる「造血幹細胞」ががん化し、異常に増え続ける病気。症状が急変する「急性転化期」に入るまで進行は緩やかだが、治療しなければ死亡する。日本では毎年約600人が発症し、約8000人の患者がいるとみられる。
白血病の知識はなかったが、治療が難しいことは予想できた。「2年かかるか、3年か、それどころか治るのかと……。泣いたらあかんと思ったらまっすぐ帰れず、落ち着くまで家の近くに車を止めてしばらく一人で過ごしました」と杉本さん。
根本的に治すには骨髄移植が必要と告げられた。白血球の型が一致する健康なドナーから骨髄液を提供してもらい、血液を正常につくれるようにする治療だ。家族全員調べたが誰も適合せず、骨髄バンクに登録した。家族以外で一致する確率は数百~数万人に1人だ。
「ドナーが見つかるか心配しても仕方ないから、どう生きたいかだけ考える」と決めた。インターフェロンによる治療で進行を抑えられることが分かり、投薬しながら解体のアルバイトを始めた。建設の仕事に復帰するつもりだった。「もう行けなくなるかも」と覚悟して、友人とハワイ旅行も企画した。
朗報が届いたのは、同年のクリスマス直前。ハワイから帰国し関西国際空港から自宅に電話を入れると、ドナーが見つかったと知らされた。「これで助かる」。転落事故以来、心配をかけ通しだった両親に孝行できるのもうれしかった。
ドナーの予定に合わせ、移植を受けるのは翌年6月と決まった。【林田七恵】
(毎日新聞 2010年6月8日 地方版)
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100608ddlk27040559000c.html
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