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句呉の系譜。


 「鹿児島神宮」は大隅国一宮、別名は大隅正八幡宮。隼人域の中枢、大隅の旧隼人町に鎮座する。社伝によると神武天皇の時に「彦火々出見尊(火遠理命、山幸彦)」の宮であった高千穂宮を社としたという。北西に彦穂々出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。主祭神は彦火々出見尊と妃の豊玉比売命。八幡神を合祀し、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、中比売尊(応神天皇の妃)を祀る。

 この鹿児島神宮には句呉の「太伯」が祀られる。太伯説話では古代中国、周王の古公、亶父の子であった太伯は、英明とされた末弟に王位を譲るべく南の地に去り、自ら、文身、断髪して、蛮となり、後継の意志が無いことを示した。文身、断髪は海人の習俗。太伯は長江下流域に国を興し、「句呉」と号した。荊蛮の人々がこれに従ったという。紀元前5、6世紀の頃のこと。のちに国号を「呉」とした。

 春秋時代の末期、長江下流域で「呉」と「越」が抗争を繰り返した。そしてBC473年、呉は越に滅ぼされ、呉の遺民は江南の海沿いに逃れたという。倭人を太伯の子孫とする説があり、東夷伝などに、倭人は「自謂太伯之後」と記載される。倭人は文身、断髪を習俗とし、皇室の祖は太伯であるとも。


 神話において、天孫、瓊瓊杵尊は「阿多」の笠沙の岬で「木花咲耶姫」と結ばれ、木花咲耶姫は火照命、火須勢理命、火遠理命を産む。火遠理命(彦火々出見尊)の孫が神武天皇。火照命が隼人の祖となる。

 海幸、山幸説話において、山幸彦(火遠理命)は海神から貰った満珠干珠の玉で潮を操り、兄の海幸彦(火照命)を下す。海幸彦は「今より以後、汝命の守護人と為りて仕へ奉らむ。」と末弟の山幸彦に服属を誓い、海人、隼人の祖となった。

 太伯説話においては周王の長子、太伯は、英明とされた末弟に王位を譲るべく南の地に去り、自ら刺青を施し、断髪して海人となる。つまり、海幸、山幸説話と太伯説話は同じ骨子なのである。隼人の祖、海幸彦(火照命)は太伯の投影。古代における末子継承の由来。のちに隼人とされる海人こそが句呉の遺民ともみえる。


 日本書紀によると瓊瓊杵尊は日向の襲(そ)の高千穗峯に天降る。大隅の「曽於(そお)」が襲に纏わる。隼人の故名も「そお」であった。「そお」は南方で「犬」を意味するという。のちの隼人司が吠を発する職掌から、隼人は「狗(いぬ)」に擬せられたとも。

 また、隼人の「狗」と句呉の「句」が拘わりをみせる。そして前項で熊襲の類とみえた狗奴国の「狗」も同様。確かに熊襲領域、火(肥)の八代海への阿多隼人の移動の痕跡が見える。

 そして「狗奴国」に拘わるのは三国時代の長江下流域の王権「呉」であった。太伯は伝説の古代王権、句呉である春秋の「呉」であった。この一致も気になる。奥が深い話であるのかもしれない。


 そして、句呉の裔は「鯰」をトーテムにするという。後漢書倭伝に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とある。「魚是」は鯰の意。東魚是人とは鯰をトーテムとする民であるという(魚是は一つの文字)。そして「会稽の海外の東魚是人」とは、漢の会稽郡の東、列島の二十余国であるという。

 呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被るとされる。のちに「呉」は長江の下流域に在って「越」に滅ぼされ、海人とされる呉人は東シナ海から列島へと渡る。


 「鯰」の信仰といえば阿蘇の大鯰の存在がある。阿蘇に下向した健磐龍命は大鯰を退治して阿蘇を開拓する。阿蘇の古い民は鯰をトーテムとするという。
 鯰を祀る阿蘇の「国造神社」は、阿蘇神社の元宮ともされ、古く、阿蘇の母神とされる「蒲池媛」を祀るともされる。蒲池媛は満珠干珠の玉を操る八代海の海神。宇土半島より阿蘇に入った神。阿多隼人の阿比良比売(あひらひめ)であるともいわれる。

 そして、肥前、川上の「與止日女(よとひめ)」も鯰を神使とする。世田姫(よたひめ)とも呼ばれ、満珠干珠の玉で潮を操る有明海の海神であった。
 これら鯰をトーテムとする比売神たちの足跡は、句呉の裔、狗呉の民が九州南域から阿蘇、有明海沿岸へと領域を拡げた痕跡であろうか。それが狗奴国であったのかもしれない。(了)

 

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熊襲の話。


 「熊襲(くまそ)」とは九州中南に在って王権に抵抗した族。筑前国風土記では「球磨囎唹」とも記され、肥後の球磨から大隅の曽於あたりに在った族ともされる。神話においては筑紫島の四面のひとつとして、熊曾国を「建日別」とし、日本書紀には「熊襲は衆類甚(ともがらはなはだ)多く八十梟帥(やそたける)がいた。」と記され、熊襲は単一の族ではなく、多くの種が広域に割拠していたとする。

 記紀に景行天皇の熊襲征討や日本武尊による熊襲建(川上梟帥)の討伐譚があり、熊襲は5世紀頃までに王権に臣従したともされる。弥生中期から古墳期の肥後南部や薩摩北部の川内川流域において、「地下式板石積石室墓」が分布し、その域が熊襲の居住域ともいわれる。また、魏志倭人伝にいう「狗奴(くな)国」を熊襲とする説もある。


 弥生後期の3世紀、肥後で「免田式土器」と呼ばれる特異な祭祀土器が出現する。胴部が算盤の玉の形で、開き気味に長く伸びた頸をもち、胴部の上半面には重弧文や三角紋が施されて、その優美な姿は気品に溢れ、最も秀逸な弥生土器ともいわれる。

 免田式土器は熊襲の中枢ともされる球磨の人吉盆地に派生し、やがて、出土域を阿蘇や八代海沿岸あたりを中心として、薩摩や日向南域にまで広げる。故に、免田式土器は熊襲の至宝ともいわれる。蛮夷の民とされる熊襲が、何故、このような秀逸な土器をつくり得たのであろうか。

 免田式土器は金属器を模倣したものともいわれ、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器の名称由来の地、球磨郡免田に6世紀初めの「才園古墳」が在る。この古墳から出土した画文帯神獣鏡は43文字の銘文が刻まれ、流金(金メッキ)が施されたものであった。流金鏡の出土は僅か3例で、他は福岡と岐阜に1面づつ。精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみで、この鏡が後漢後半から三国時代の大陸、会稽周辺で鋳造された秀品であるとされた。会稽とは長江河口域。

 3世紀の長江下流域には孫権が建てた王権「呉」(222年~280年)があった。球磨で免田式土器を造り、流金鏡を伝世させた民とは「呉」に由来する民であったのだろうか。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国の南に「狗奴国(くな)」が在り、共に素より和せず、戦さとなって卑弥呼は「魏」に急使を派遣する。これが3世紀の半ば。邪馬台国が九州に在ったとすれば、「呉」に纏わる渡来民が、先住の民と拘わって発展した国が狗奴国であるのかもしれない。「呉」に纏わる狗奴国が、「魏」と通じた邪馬台国と対峙する構図の原初。

 免田式土器は筑後や佐賀平野にまで拡がり、やがて4世紀に忽然と姿を消す。それは狗奴国の末路を見せているのであろうか。そして、肥後南域ではその後、吉備系の特徴的な土器が造られる。記紀の景行天皇による熊襲征伐において、天皇は吉備の氏族を率いて九州に入る。熊襲を討伐したのち、天皇は吉備津彦命の子、「三井根子命」を肥後の葦北国造に任じている。(了)

 

◎狗奴国幻想。阿蘇祖神、草部吉見神の謎

邪馬台国の南に在り、邪馬台国と対峙していた狗奴国。弥生後期の鉄製武器の出土において、火(肥)北部は北部九州域を圧倒して狗奴国の存在を彷彿とさせる。阿蘇や熊本平野、八代海沿岸、人吉盆地などに出土する祭祀土器、免田式土器を奉斎する特異な集団の存在がある。彼らは阿蘇で大量の褐鉄鉱を得て、鉄製武器を集積し、狗奴国を建国したとみえる。狗奴国の生成と邪馬台国との葛藤とは、九州を舞台とした古代日本の曙を彩る大叙事詩。

 

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鬼の里。


 豊後、国東半島の北のつけ根、豊後高田から都甲川を遡ると、岩峰が聳える長岩屋の狭い谷の崖下に、へばりつくように「天念寺」が建つ。六郷満山の中山本寺とされる古刹。隣には「身濯神社(みそそぎ)」が鎮座して、長岩屋川を前に仏堂と社殿が並ぶ。後背は大岩壁で、川には不動三尊が刻まれた大岩があり、川中不動と呼ばれている。この里が「鬼の里」とされる。


 天念寺は旧正月の夜に行われる「修正鬼会」で知られる。国東半島の六郷満山に伝わる修正鬼会は、1200年以上の歴史があるという。江戸期までは国東半島の天台宗の各寺で行われていたが、今ではこの天念寺など3ヶ寺で行われるのみ。

 深夜、現れた赤鬼は松明を持って天念寺の講堂内を暴れ廻る。やがて黒鬼も現れ、火の粉が舞う中、里の民は鬼たちに松明で背や尻を叩いて貰い、五穀豊穣や無病息災を祈願する。
 ふつう「鬼」は悪鬼であるが、ここの鬼は多祥をもたらす良き鬼とされる。民俗学では年の始まりに祝福を携えて来訪する先祖神とされる。国東の基層信仰。国東半島の民の先祖は「鬼」であるという。


 桃太郎伝説の鬼、吉備の「温羅(うら)」も吉備の古い先祖神とされる。百済の王子を称する温羅は吉備に鉄の文化を持ちこみ、吉備に繁栄を齎す。が、温羅はその繁栄を恐れた王権に討伐される。
 阿蘇の鬼「鬼八」も阿蘇の古い氏族とされる。やはり、王権から派遣された氏族とみられる「健磐龍命(たけいわたつ)」に討伐される。そして、阿蘇も鉄製武器に由来する域であった。


 国東半島の沖に姫島が浮かぶ。日本書記では垂仁天皇の御代、加羅の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」は、阿加流比売を娶ろうするが、阿加流比売は逃れ、姫島に辿りついて比売語曽の神になったという。姫島の名称由来。そして、阿加流比売を追って韓半島より渡来した都怒我阿羅斯等は豊前、香春の現人神社(あらひと)に祀られる。
 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは「角(つの)がある人」の音とされ、二本の角をもつ牛冠を被るといわれる。鉄器を齎した神とされ、渡来の製鉄氏族や金属精錬集団が斎祀る神といわれる。


 国東は鉱山に拘わる古代氏族が播居する域とされ、韓半島に由来する製鉄氏族の存在が指摘される。そして、豊後高田周辺には鉱山に拘わる「金屋」地名などが残り、長岩屋周辺には鉱山の痕跡さえ残されるという。国東の基層にみられる「鬼」の信仰とは、製鉄や金属精錬に纏わる韓半島由来の氏族に因るものとみえる。(了)

 

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宇佐の比売大神。


 宇佐神宮は全国44,000社といわれる八幡神社の総本宮。主祭神は一之御殿に祀られる八幡神、応神天皇。そして、二之御殿に比売大神、三之御殿には神功皇后が祀られる。ふつう、主祭神が中央に鎮座して、配神が左右に祀られるのであるが、この宮は横並びであることで、二之御殿の「比売大神」の存在が注目される。

 宇佐神宮を参拝すると、やはり、比売大神を祀る二之御殿が主体ともみえる。神殿の外陣にそれぞれ神門があるが、中央の神門が最も大きく、象徴的。また、内陣に3つの神殿が並ぶが、中央の二之御殿の前には拝陣が設えられて、二之御殿が主体であることが確認できる。

 宇佐神宮の由緒は「比売大神」を八幡神が現れる前の宇佐の地主神として、宗像三女神のこととする。三女神は筑紫の宇佐嶋に天降った神とされ、宇佐の国造らが御許山に祀ったいう。が、この説は平安期の先代旧事本紀に始まるとされ、比売大神の出自については託宣集による「玉依比売(*1)」や神功皇后の妹ともされる「豊比売命」、国東、姫島の比売許曽神「阿加流比売」など諸説あって、九州古代史の謎のひとつとなっている。

 宇佐神宮の祭祀氏族は宇佐氏、辛嶋氏、大神氏の三氏。宇佐の祭祀とは御許山の磐座を比売大神の顕現として祀る、在地の宇佐氏による「大元(おおもと、大許)神社」の信仰が原初とも。が、宇佐氏が最も古く奉斎した社は宇佐神宮の祖宮ともされる中津の「薦(こも)神社」であった。この社は境内の御澄池を神体とし、伝承では御澄池を奉斎した佐知(さち)彦命が、宇佐氏の祖、菟狭(うさ)津彦であるという。

 その薦(こも)神社に渡来系氏族の辛嶋氏が豊前で示現した原八幡神の信仰を持ちこんだとされる。辛嶋氏も薦神社の神官を務め、後に宇佐の辛嶋郷に在って、稲積神社、乙メ神社、酒井泉神社、郡瀬神社、鷹居社、小山田社を経て、宇佐神宮へと八幡神の祭祀を移し、8世紀初頭の辛嶋勝乙目の時代に栄えたとする。

 そして、応神天皇信仰としての八幡神を示現したのは、大和、三輪山の祭祀氏族、大神比義であるとされる。伝承では厩峯と菱形池の間に鍛冶翁が降り立ち、大神比義が祈ると3才童児となり、応神天皇の神霊であると告げたとされる。宇佐の大宮司職は大神比義の裔、大神氏が務めたがのちに宇佐氏が継承している。


 宇佐氏の祖、菟狭(うさ)津彦とは高皇産霊尊(高木神)の子神「天三降命(あめのみくだり)」の裔とされる。天三降命は宇佐に天降り、宇佐の氏神とされた。御許山の磐座が三つの巨石とするのは、天三降命が三女神であることを意味するという。

 そして、菟狭津彦は神武東征の折、安心院(あじむ)に一柱騰宮をつくり、天皇を奉饗する。安心院の妻垣神社がその一柱騰宮とされ、妻垣神社の由緒は比売大神を「玉依姫命」として、託宣集では妻垣山を比売大神の在所として、記紀神話では神武天皇が母神の「玉依姫命」の神霊を妻垣山に祀ったとする。各地の八幡宮でも比売大神を「玉依姫命」とする社は多く、それらは神武東征伝承に由来するもの。


 宇佐の行幸会では前述の薦(こも)神社の御澄池に自生する「真薦(まこも)」で作った薦枕と香春の古宮八幡宮で鋳造された「銅鏡」を神体として宇佐まで運ぶ。薦(こも)神社の真薦(まこも)とは、宇佐氏が奉祭する宇佐の地主神の神体。銅鏡は古宮八幡宮の祭神で、金属(銅)精錬に纏わる「豊比売命(とよひめ)」の神霊とされ、辛嶋氏が奉祭する。これは豊比売命の神霊が香春から宇佐へ移動した記憶を伝えるものとも。

 山国川の河口、中津に「闇無浜(くらなしはま)神社」が在る。豊の産土神とされ、豊日別国魂神社とも称する。祭神は豊日別国魂神と瀬織津比売神の二座。この社に銅鏡の伝承が残る。縁起によれば豊の守護は銅鏡であり「東方から白雲に乗り、日輪の像に照らされた女神が現れ、四隅を照し、恰も日中の如し。」と闇無浜(くらなしはま)の地名譚を伝える。豊日別国魂神とは香春から齎された豊比売命の神霊。香春の豊比売命は中津平野において「豊」の国魂とされている。

 前項、「豊比売命の系譜。(*1)」では、阿蘇の母神、蒲池比売命(かまち)が筑後の水沼氏の氏神となって、北野の赤司神社あたりで道主貴(ちぬしのむち)として祀られた豊比売命に習合し、三女神の「田心姫命(たごり、多紀理毘売)」とも重なっていた。

 香春の古宮八幡宮は阿曾隈(あそくま)、阿蘇の神とも呼ばれ、阿蘇の母神、蒲池比売命に纏わる神。「比売神の連鎖(*2)」と呼ばれるものは火(肥)の蒲池比売命に始まり、有明海沿岸の與止日女(よとひめ)、筑後の豊比売命など、異名似体の比売神群を生んでいた。そして、豊比売命の神霊が高良から香春へ移植され、宇佐の比売大神に繋がっていた。


 中津の闇無浜神社のもうひとりの祭神、瀬織津比売神は川神。川瀬に在って穢(けが)れを海へと流す原始の比売神。筑前では肥前の川神、與止日女命と習合して、那珂川の川神ともされていた(*3)。中津の瀬織津比売神は、今は山国川の河口に鎮座するが、元は山国川の畔に築かれた中津城の城地に祀られていた。そして、瀬織津比売神は中央の祭祀思想から忌避され、その神名が復活したのは戦後のこととされる。

 宇佐氏の祖、菟狭津彦とされる薦(こも)神社の池守、佐知(さち)彦命は山国川畔、佐知の里に在ったといわれ、山国川の川神、瀬織津比売神は古く、宇佐氏が祀る神であった。そして、佐知彦命が奉祭する薦神社の神体、御澄池は山国川の古い河跡地塘(かせきちとう)。宇佐の行幸会の神体、「銅鏡」が豊比売命の神霊であれば、もうひとつの神体、御澄池の「真薦(まこも)」とは瀬織津比売神の化身であった。

 瀬織津比売神は宗像三女神の「湍津姫命(たぎつ、多岐都比売)」ともされる。たぎつとは滾(たぎ)つ。水が激しく流れるの意。宇佐氏が祀る山国川の川神は湍津比売命として三女神に重なっている。薦神社の神紋は一つ巴。三つ巴の宇佐神宮に対する「祖宮」の意味。それとも宇佐神宮の比売大神とされる三女神の一人を祀るという意味か。

 宇佐氏の故地のひとつともされる安心院の北の台に「三女神社」が鎮座する。この社の由緒は「三女神が降った宇佐嶋とはこの地であるとされ、菟狭津彦、菟狭津媛は水沼君が祀る三女神を祖神とし、この地に鎮座する。」という。やはり、境内に三基の石柱があり、三女神降臨の依代であるとする。が、ここの古い鳥居の扁額は「二女神社」であった。また、神紋が「巴」ではなく「桜」であった。宇佐の地主神ともみえる瀬織津神は桜神でもある。古く、宇佐氏が祀る比売神はこの瀬織津比売神と妻垣の玉依姫命の二神。元はこの二人の比売神を祀る「二女神社」であったということか。


 そして、韓半島渡来の辛嶋氏の氏神が、香春(かわら)一ノ岳の神「辛国息長大姫大目命」であった。辛国とは韓の国。豊前国風土記によると、昔、新羅の国の神が海を渡って河原(かわら)に住んだという。そして、辛国息長大姫大目命は国東、姫島の比売語曽(ひめこそ)神社に鎮座する「阿加流比売(あかるひめ)」であるとも。阿加流比売は日本書紀では意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が追ってきた白石の化生の童女。古事記では新羅の王子、天日矛(あめのひぼこ)の逃げた妻であった。

 また、三女神の市杵島姫命(市寸嶋比売)が秦氏の氏神として京都の「松尾大社」に祀られる。辛嶋氏が秦氏の族とされる。辛嶋氏の氏神、半島由来の阿加流比売神は「市杵島姫命(市寸嶋比売)」とされている。国東半島の南岸、奈多に宇佐神宮の別宮とされる「奈多八幡宮」が鎮座する。沖合の市杵島と呼ばれる岩礁を元宮として、比売大神が示現した地であるとする。この宮では比売大神は市杵島姫命であるという。


 何故か宇佐に拘わる比売神が、すべて「三女神」に収斂している。どうも、宇佐の比売大神とは単一の神格ではないようだ。宇佐神宮の由緒が述べる比売大神を「宗像三女神」とする所以とは、八幡神の示現以前に宇佐あたりで奉祭されていた比売神たちが統合されたもの。宇佐は畿内に向かう氏族が集結する地。九州の氏族、韓半島、大陸よりの渡来人など、氏族の坩堝(るつぼ)とされる。そのため、多くの氏族の神が祭祀された。そういった事情が三女神という特殊な神格を生んだのであろうか。

 日本書紀に「三の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。」とあり、三女神は最初、宇佐に降り立つ。三女神は宇佐で生成され、のちに宗像へ移植され、「宗像」の名を冠したともみえる。

 三女神に収斂した宇佐の祭祀が統制できぬことを畏れた為政者は、その神に八幡比売大神という新しい神格を被せたともみえる。大和の神祇氏族、大神比義は宇佐へ国家神である応神天皇と神功皇后の神霊を持ちこみ、比売大神は二神の神霊に挟まれて、結界の中に在るとも思わせる。冥府の王、大国主神が籠る出雲大社と同じく、「四拍手」の作法が意味するものとは忌避された神を封じるものか。(了)


(*1)「豊比売命の系譜。」参照。
(*2)「江南の女神 連鎖する九州の比売神信仰。」参照。
(*3)「筑紫の瀬織津比売。」参照。

 

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◎連鎖する九州の比売神信仰。

九州には太古より続く比売神の信仰がある。その信仰に纏わり多くの比売神が習合、離散して、異名似体の女神群が生成されている。阿蘇の母神、蒲池比売や有明海の海神、與止日女、高良の玉垂媛、御井、香春の豊比売命、そして、宗像の田心姫命や宇佐の比売大神。古代九州の謎を秘める比売神の連鎖とも呼ばれる事象。

 

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宇佐の神祇。


 豊前、安心院盆地の北を流れる佐田川を遡ると「米神山」が凛とした姿を見せる。米神山の西麓に「佐田京石」と呼ばれる石柱群がある。人の背丈ほどもある石柱が、環状列石(ストーンサークル)を形成している。石材は風化した柱状節理のようにもみえる。太古の祭祀とも、経石から転じて「京石」とされた納経の標石ともいわれる。
 また、米神山中には月ノ神谷、日ノ神谷、月の神殿などと名づけられた巨石群があり、標高475mの山頂にも「環状列石(ストーンサークル)」がある。人為的な部分がみられ、太陽や月を神霊として崇めた太古の祭祀の痕跡ともいわれる。

 佐田から北へ谷を遡ると山間に「熊(くま)」と呼ばれる里が在る。熊は「熊襲」を彷彿とさせる。景行紀には「鼻垂」という宇佐の土蜘蛛が登場し、景行天皇に滅ぼされている。蛮夷の族がこの域に在っても不思議ではない。古く、環状列石(ストーンサークル)で祭祀を行った縄文の匂いを残した異族の存在を想起する。

 「熊(くま)」の後背には宇佐信仰の原初とされる「御許山」が横たわる。御許山上の「大元(おおもと、大許)神社」は宇佐神宮の奥宮。御許山は「比売大神」が降り立った聖地とされ、三つの巨石を比売大神の顕現としている。
 在地の宇佐氏によるこの磐座信仰が、宇佐神宮の原初の形態ともされる。古い神体山祭祀は山上の神体、山宮、山麓(里)の拝所の三所祭祀とされる。御許山に山上の神体、山宮があり、宇佐神宮が里の拝所ということ。

 安心院の「妻垣神社」も山頂の磐座を神霊として、麓に拝所を設けた宮であった。また、古く、宇佐氏が祭祀し、宇佐神宮の元宮のひとつともされる中津の「薦(こも)神社」は、中世に社殿が造営されるまで境内の「御澄池」が社(やしろ)とされたという。御澄池は山国川の古い河跡地塘(かせきちとう)。伏流水が湧き、湿性植物が繁茂する神妙な湖沼であった。宇佐周辺には太古の自然祭祀の痕跡が集中する。


 宇佐神宮は全国44,000社といわれる八幡神社の総本宮。宇佐八幡の生成とは、在地の宇佐氏の祭祀に、香春から入った渡来系の辛嶋氏が原八幡の信仰を持ちこみ、そこに大和の祭祀氏族、大神氏が応神天皇の神霊を重ね、国家祭祀としての八幡信仰とされたという。
 中央王権が国家祭祀の本地を選ぶにあたって、宇佐を選んだ背景とは、この地が太古から崇められた神祇の地であることに因ると思わせる。
 そしてのちの時代、この域の自然祭祀は隣接する広大な国東半島に一大聖域をつくりあげる。宇佐の祭祀と拘わった太古の自然信仰は修験と融合し、六郷満山と呼ばれる特異な山岳信仰を生んでいる。(了)

 

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安心院の玉依姫。


 「バスは山路の峠を走るが、その峠を越すと山峡が俄かに展けて一望の盆地となる。早春の頃だと朝晩、盆地には霧が立籠め、墨絵のような美しい景色となる。ここの地名は安心院と書いて「あじむ」と読ませる。正確には大分県宇佐郡安心院町である。」
 昭和37年に書かれた松本清張の「陸行水行」の書き出しである。邪馬台国をテーマにしたこの小説で松本清張は安心院を「不弥国」であるとしている。


 宇佐神宮の西を流れる駅館川の狭い谷を遡ると、突然、盆地が広がる。安心院盆地である。古く、この盆地は湖であったという。西に深見川、東に津房川が流れ、二本の川は盆地の北で合流する。昼夜の寒暖の差が激しく、朝霧が多いという。

 安心院盆地の高みにある古びた温泉ホテルに宿をとった。窓から望む冬の安心院盆地は寂寥としていた。
 小さな街区のむこうに冬枯れの田畑が広がり、その先に竜王山、妻垣山、鹿子岳の三山が並ぶ。それぞれ比高200mほどの小山であるが、存在感を見せている。中央の妻垣山は共鑰山(ともかぎやま)」とも呼ばれる。その麓の台、樹林の中で大屋根が夕日を反射して輝いている。「妻垣神社」であろう。


 翌朝、期待した朝霧は見られなかったが、朝の古い町並みは情感が溢れる佇まいを見せてくれた。
 安心院の古い町並みには鏝絵(こてえ)が残されている。鏝絵は着色された漆喰で作られるレリーフ。左官職人が家屋の外壁に花鳥風月や恵比寿、大黒などの題材を鏝(こて)で描く。おおらかなタッチとその色彩は溌剌とした庶民の生気を感じさせる。

 九州の内でもこの辺りは独自の文化を感じさせる。この域の歴史の古さの所為であろう。そんな情感に浸りながら妻垣へ向かう。

 妻垣山の麓、冬枯れの樹林を抜ける狭い道を上がった台に古い社(やしろ)は現れた。清冽な大気の中に、くすんだ朱色の社殿が佇んでいる。広い境内に礎石などの石材が散在し、かっては大社であったであろう痕跡を見せる。

 「妻垣神社」は比売大神、応神天皇、神功皇后を祀る。比売大神が降臨した霊地、宇佐島とは妻垣山で、この社こそがその遺跡であるという。奥宮は山頂近くの磐座。麓に拝所を設けたものがこの社(やしろ)であるという。境内にも「龍の駒、足形石」などといった磐座が点在する。この盆地も中津平野と同じく、古い神祇の地であった。

 社殿の西に広大な空地がある。昭和三十年代までは神職教員を養成する「騰宮学館」が在った跡地という。この社の格式の高さを感じさせる。


 由緒によると、妻垣山に降臨した比売大神は「玉依姫命」であるという。また八幡宇佐宮御託宣集には妻垣山は比売大神の在所であり、安心院地名は比売大神が院の内で心安らかに過ごしたことに由来するとある。太宰管内志も妻垣神社が比売大神を祀る宇佐八幡宮の二之御殿の古宮であるとする。そして比売大神が八幡大神の妻神であるとして、妻垣山の地名由来としている。宇佐の古層、安心院において、比売大神は「玉依姫命」であった。

 妻垣神社の地を日本書紀にいう「一柱騰宮(あしとつあがりのみや)」とする伝承がある。神武天皇東征の折、この地に立ち寄っている。宇佐国造の祖、菟狭津彦(うさつひこ)と菟狭津媛(うさつひめ)の兄妹は一柱騰宮を造って天皇を奉饗したという。

 そして神武天皇は母である玉依姫命の神霊を妻垣に祀ったという。「院」とは宮殿、御所。皇室に纏わる高貴な神の居所。安心院は玉依姫命の院とされる。のちに神託により、玉依姫命は宇佐神宮の二之御殿に祀られたという。

 宇佐神宮の由緒では比売大神を「宗像三女神」としている。日本書紀にも宇佐嶋に降り立った三女神の物語が記される。が、比売大神を玉依姫命とする八幡社は多い。とくに北部九州では筑前一の宮の「筥崎八幡宮」や宇佐の本宮とされる嘉穂の「大分八幡宮」など、主要な八幡宮で比売大神を玉依姫命としている。


 深見川を挟んで妻垣山の西に竜王山が聳える。「安心院記」によると古く、山上に八大龍王を祀る「龍王宮」があったが、中腹に下ろしたとある。正安年中、宇佐大宮司の安心院公泰がこの山に龍王城を築城している。その折に龍王宮が山上を明け渡したのかも知れない。

 中腹の「海神社」にはその八大龍王と豊玉姫命が祀られている。豊玉姫命は隣の妻垣山の玉依姫命の姉神。中世に盛行した水神、八大龍王を祀る社は明治の神仏分離の際に各地で「綿津見社」や「海神社」とされた。龍神を海神としたらしい。綿津見神の女(むすめ)、豊玉姫命はその時点で祭神に加えられたとみえる。

 この盆地に綿津見神の女(むすめ)、豊玉姫命、玉依姫命の姉妹神が祀られるが故に「安心院(あじむ)」の地名が「安曇(あづみ)」に発しているのではないかという説がある。博多湾の海人、安曇氏族は綿津見神を氏神とする。松本清張が唱えた説とも。安心院盆地は古代の妄想に浸れる地であった。(了)

 

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中津平野の奇跡。


 豊前、中津平野。山国川がつくる広大な扇状地の中央に宇佐神宮の祖宮、元宇佐と呼ばれる「薦(こも)神社」が鎮座する。壮麗な朱塗りの社殿が木立の中に佇み、宇佐神宮と同じく、応神天皇と息長帯比売命、そして比売大神を祀る。

 この宮は太古の自然信仰の痕跡をみせる。中世になって社殿が造営されるまでは、境内の古い池が社(やしろ)とされたという。「御澄池(みすみいけ、三角池)」という。御澄池は山国川の古い川跡。今は堰堤が築かれた溜池であるが、古くは、自然の河跡地塘(かせきちとう)であった。伏流水が湧いて、湿性植物が繁茂する神妙な湖沼であったという。社はこの池を内宮、神殿を外宮としている。


 養老3年(720年)隼人の反乱において、朝廷軍と宇佐神軍がこの御澄池に自生する真薦(まこも)を刈って作った「薦枕」を神体とした神輿を奉じて行幸、反乱を鎮めたという。宇佐神宮の行幸会ではこの「薦枕」と香春の古宮八幡神社の「銅鏡」を神体として宇佐神宮まで運ぶ。

 宇佐氏系図にいう御澄霊池の守護、「池守」の伝承は「佐知(さち)彦命」が代々、御澄池の池守を務めたとする。佐知(さち)彦命は宇佐国造の祖、菟狭(うさ)津彦と同一で、薦神社の上手、山国川の畔にある「佐知」の里がその居住の地とされる。伝承はこの社が、古い宇佐氏が奉斎する社であったことを示す。

 そこに辛嶋氏が香春から入っている。辛嶋氏も薦神社の神官を務めたとされる。辛嶋勝姓系図によると辛嶋氏の神は香春を経て、宇佐郡辛国宇豆高島に天降ったとされる。中津平野の東、伊呂波川の谷に入ると正面に稲積山が秀麗な姿をみせる。この稲積山が「宇豆高島」とされ、辛嶋氏はこの山の北麓「末邑」を本拠にしている。


 中津平野の後背、金色川の谷奥にメサ、卓状台地とされる特異な姿をした八面山(659m)が横たわる。急峻な斜面上に平坦な頂きを広げ、山上に二つの池をもつ。薦神社はこの八面山を奥宮とする。八面山は中津の母なる山ともいわれ、古来、霊山とされた。山域には「石舞台」などの磐座が散在し、のちに、神仏習合の八幡大菩薩を顕現させた「法蓮」がこの山を山岳仏教の霊場としている。

 山上の大池は竜神池とも呼ばれ、竜神が祀られる。霊山の山上に竜神が在り、麓に向かって竜脈が流れ、気は龍穴へ向かう。その龍穴が「御澄池」であり、池の真薦(まこも)が霊力をもつ根源。宇佐神宮の古宮は「御許山」とされるが、宇佐の祭祀の原初はこの薦神社にあった。この社には太古の自然信仰が、神道や山岳信仰に移行する過程が見えている。

 この平野の彼方に聳える霊峰、英彦山(日子山)は北部九州の神奈備。山国川がその英彦山を源として、宇佐氏族の「法蓮」が、英彦山を修験三大聖地として興すのも偶然ではない。


 山国川の河口、中津の「闇無浜(くらなしはま)神社」に瀬織津姫神が祀られる。この神は川瀬に在って穢(けが)れを海へと流す神。元は山国川の畔に築かれた中津城の城地に祀られていたという。中津平野には神祇のシステムが配置されて、辛島氏や大神氏以前の中津平野に、古い宇佐氏族による霊域が構築された痕跡。(了)

 

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宇佐への道。八幡神の生成


 宗像、鐘崎の織幡神社に遺る「幡(はた)」の伝承。神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が御手長という旗竿に武内宿禰が織った紅白二本の幡(旗)をつけ、旗を振って敵を翻弄し、沖ノ島にその旗を立てたという。
 鐘崎の東、遠賀郡岡垣の波津海岸は神功皇后が旗を立てた「旗の浦」。対馬国一宮、海神(わたつみ)神社には神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として「旗八流」を納めた。そして神功皇后は筑紫の宇瀰(うみ)で、譽田天皇の寝屋の周りに同じく「旗八流」を立てたという。

 これら筑紫に遺る「幡(はた)」の伝承が豊前への連鎖をみせている。周防灘に面した豊前の沿岸域に「幡」地名と「幡」の神社群がみられる。築城の赤幡郷に「赤幡神社」。そして、和名抄には築城の広幡郷に「広幡社」、築城の湊、綾幡郷には「綾幡社」の所在が記される。

 また、綾幡社は「矢幡神社」とも呼ばれ、古く「やはた神」の宮趾であったという。「矢幡、やはた」は八幡とも記されて、この社は八幡神の顕現の霊地ともされる。のちに「金富(きんとみ)神社」と名を変えるのであるが、この社は宇佐八幡宮の元宮、もしくは霊地であるとされる。
 そして、神仏習合が始まる頃に八幡(やはた)は「はちまん」と呼ばれたとして、この社の事象を「八幡」の名の派生とする。のちの神亀元年(724年)、宇佐神宮の造営にあたり、神託に因ってこの社で斧立神事を行っている。

 これら豊前の「幡(はた)」の祭祀は、韓半島渡来の「秦(はた)」氏によるものとされ、「秦」が幡(はた)に通じる。(*1)

 宇佐託宣集によると、八幡神は「我は始め、辛国に八流の旗となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身である。」と託宣して、八幡神は辛国(韓)に纏わる「八流の旗」であったという。
 「八流の旗」とは大陸の軍制の象徴。そして、北方の「八旗」が軍事、政治、生産の制とされ、八旗の族は「旗人」と呼ばれ、秦(はた)氏が旗人であったという。秦氏は「旗」の大義のもと、多くの渡来氏族をとりこんで、八流の旗から「八幡(やはた、はちまん)神」を生成している。(*2)


 そして、秦氏の族、辛嶋氏が宇佐へ八幡の祭祀を持ちこみ、宇佐氏と宇佐八幡の神祇を生成している。古く、宇佐氏が奉祭した中津の「薦(こも)神社」は宇佐神宮の祖宮、元宇佐とも呼ばれる。その薦(こも)神社に辛嶋氏が豊前で示現した八幡の祭祀を持ちこんだとみえる。古く、辛嶋氏も薦神社の神官を務めたとされる。

 また、辛嶋勝姓系図によると辛嶋氏は中津平野の東、伊呂波川の谷に入ったとされる。谷の正面に神奈備、稲積山が秀麗な姿をみせ、辛嶋氏はこの山の麓「末邑」を本拠にしている。その後、八幡神は、乙咩神社、酒井泉神社、郡瀬神社、鷹居社、小山田社を経て、宇佐神宮へ移ったとされる。

 宇佐神宮の八幡神の生成は、在地の宇佐氏の地祇に渡来系の辛嶋氏が原八幡神の信仰をもちこみ、さらに、6世紀に中央より下った大神氏が応神天皇の神霊を八幡神に同化させたともいわれる。
 辛嶋氏がもちこんだ原八幡神の神祇とは「旗」の祭祀。八幡信仰において、旗とは神の依り代、旗がはためく様子は神が示現する姿。八幡とは多くの幡(旗)を立てる神の姿とされる。(了)


(*1)秦氏の渡来は5世紀に始まるとされ、豊前を拠点としたといわれる。古代中国の史書、隋書には「倭国の筑紫の東に秦王国が在り、習俗は中国人と同じである。」と記される。また、大宝2年(702年)の豊前の戸籍では、秦、秦部などの秦氏族が80%を占めるとされる。秦氏はやがて、畿内へ進出、全国に広がっている。

(*2)新撰姓氏録に「山城国、広幡公、百済国津王之後也。」と広幡公を名乗る百済王族の存在が記される。広幡は和名抄にいう築城の広幡郷。「広幡社」は今は無く、戦国期の広幡山城跡の下手あたりが社地ともされる。秦氏はこれら多くの渡来氏族を取りこんだとみえる。

 

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