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宇佐の比売大神。


 宇佐神宮は全国44,000社といわれる八幡神社の総本宮。主祭神は一之御殿に祀られる八幡神、応神天皇。そして、二之御殿に比売大神、三之御殿には神功皇后が祀られる。ふつう、主祭神が中央に鎮座して、配神が左右に祀られるのであるが、この宮は横並びであることで、二之御殿の「比売大神」の存在が注目される。

 宇佐神宮を参拝すると、やはり、比売大神を祀る二之御殿が主体ともみえる。神殿の外陣にそれぞれ神門があるが、中央の神門が最も大きく、象徴的。また、内陣に3つの神殿が並ぶが、中央の二之御殿の前には拝陣が設えられて、二之御殿が主体であることが確認できる。

 宇佐神宮の由緒は「比売大神」を八幡神が現れる前の宇佐の地主神として、宗像三女神のこととする。三女神は筑紫の宇佐嶋に天降った神とされ、宇佐の国造らが御許山に祀ったいう。が、この説は平安期の先代旧事本紀に始まるとされ、比売大神の出自については託宣集による「玉依比売(*1)」や神功皇后の妹ともされる「豊比売命」、国東、姫島の比売許曽神「阿加流比売」など諸説あって、九州古代史の謎のひとつとなっている。

 宇佐神宮の祭祀氏族は宇佐氏、辛嶋氏、大神氏の三氏。宇佐の祭祀とは御許山の磐座を比売大神の顕現として祀る、在地の宇佐氏による「大元(おおもと、大許)神社」の信仰が原初とも。が、宇佐氏が最も古く奉斎した社は宇佐神宮の祖宮ともされる中津の「薦(こも)神社」であった。この社は境内の御澄池を神体とし、伝承では御澄池を奉斎した佐知(さち)彦命が、宇佐氏の祖、菟狭(うさ)津彦であるという。

 その薦(こも)神社に渡来系氏族の辛嶋氏が豊前で示現した原八幡神の信仰を持ちこんだとされる。辛嶋氏も薦神社の神官を務め、後に宇佐の辛嶋郷に在って、稲積神社、乙メ神社、酒井泉神社、郡瀬神社、鷹居社、小山田社を経て、宇佐神宮へと八幡神の祭祀を移し、8世紀初頭の辛嶋勝乙目の時代に栄えたとする。

 そして、応神天皇信仰としての八幡神を示現したのは、大和、三輪山の祭祀氏族、大神比義であるとされる。伝承では厩峯と菱形池の間に鍛冶翁が降り立ち、大神比義が祈ると3才童児となり、応神天皇の神霊であると告げたとされる。宇佐の大宮司職は大神比義の裔、大神氏が務めたがのちに宇佐氏が継承している。


 宇佐氏の祖、菟狭(うさ)津彦とは高皇産霊尊(高木神)の子神「天三降命(あめのみくだり)」の裔とされる。天三降命は宇佐に天降り、宇佐の氏神とされた。御許山の磐座が三つの巨石とするのは、天三降命が三女神であることを意味するという。

 そして、菟狭津彦は神武東征の折、安心院(あじむ)に一柱騰宮をつくり、天皇を奉饗する。安心院の妻垣神社がその一柱騰宮とされ、妻垣神社の由緒は比売大神を「玉依姫命」として、託宣集では妻垣山を比売大神の在所として、記紀神話では神武天皇が母神の「玉依姫命」の神霊を妻垣山に祀ったとする。各地の八幡宮でも比売大神を「玉依姫命」とする社は多く、それらは神武東征伝承に由来するもの。


 宇佐の行幸会では前述の薦(こも)神社の御澄池に自生する「真薦(まこも)」で作った薦枕と香春の古宮八幡宮で鋳造された「銅鏡」を神体として宇佐まで運ぶ。薦(こも)神社の真薦(まこも)とは、宇佐氏が奉祭する宇佐の地主神の神体。銅鏡は古宮八幡宮の祭神で、金属(銅)精錬に纏わる「豊比売命(とよひめ)」の神霊とされ、辛嶋氏が奉祭する。これは豊比売命の神霊が香春から宇佐へ移動した記憶を伝えるものとも。

 山国川の河口、中津に「闇無浜(くらなしはま)神社」が在る。豊の産土神とされ、豊日別国魂神社とも称する。祭神は豊日別国魂神と瀬織津比売神の二座。この社に銅鏡の伝承が残る。縁起によれば豊の守護は銅鏡であり「東方から白雲に乗り、日輪の像に照らされた女神が現れ、四隅を照し、恰も日中の如し。」と闇無浜(くらなしはま)の地名譚を伝える。豊日別国魂神とは香春から齎された豊比売命の神霊。香春の豊比売命は中津平野において「豊」の国魂とされている。

 前項、「豊比売命の系譜。(*1)」では、阿蘇の母神、蒲池比売命(かまち)が筑後の水沼氏の氏神となって、北野の赤司神社あたりで道主貴(ちぬしのむち)として祀られた豊比売命に習合し、三女神の「田心姫命(たごり、多紀理毘売)」とも重なっていた。

 香春の古宮八幡宮は阿曾隈(あそくま)、阿蘇の神とも呼ばれ、阿蘇の母神、蒲池比売命に纏わる神。「比売神の連鎖(*2)」と呼ばれるものは火(肥)の蒲池比売命に始まり、有明海沿岸の與止日女(よとひめ)、筑後の豊比売命など、異名似体の比売神群を生んでいた。そして、豊比売命の神霊が高良から香春へ移植され、宇佐の比売大神に繋がっていた。


 中津の闇無浜神社のもうひとりの祭神、瀬織津比売神は川神。川瀬に在って穢(けが)れを海へと流す原始の比売神。筑前では肥前の川神、與止日女命と習合して、那珂川の川神ともされていた(*3)。中津の瀬織津比売神は、今は山国川の河口に鎮座するが、元は山国川の畔に築かれた中津城の城地に祀られていた。そして、瀬織津比売神は中央の祭祀思想から忌避され、その神名が復活したのは戦後のこととされる。

 宇佐氏の祖、菟狭津彦とされる薦(こも)神社の池守、佐知(さち)彦命は山国川畔、佐知の里に在ったといわれ、山国川の川神、瀬織津比売神は古く、宇佐氏が祀る神であった。そして、佐知彦命が奉祭する薦神社の神体、御澄池は山国川の古い河跡地塘(かせきちとう)。宇佐の行幸会の神体、「銅鏡」が豊比売命の神霊であれば、もうひとつの神体、御澄池の「真薦(まこも)」とは瀬織津比売神の化身であった。

 瀬織津比売神は宗像三女神の「湍津姫命(たぎつ、多岐都比売)」ともされる。たぎつとは滾(たぎ)つ。水が激しく流れるの意。宇佐氏が祀る山国川の川神は湍津比売命として三女神に重なっている。薦神社の神紋は一つ巴。三つ巴の宇佐神宮に対する「祖宮」の意味。それとも宇佐神宮の比売大神とされる三女神の一人を祀るという意味か。

 宇佐氏の故地のひとつともされる安心院の北の台に「三女神社」が鎮座する。この社の由緒は「三女神が降った宇佐嶋とはこの地であるとされ、菟狭津彦、菟狭津媛は水沼君が祀る三女神を祖神とし、この地に鎮座する。」という。やはり、境内に三基の石柱があり、三女神降臨の依代であるとする。が、ここの古い鳥居の扁額は「二女神社」であった。また、神紋が「巴」ではなく「桜」であった。宇佐の地主神ともみえる瀬織津神は桜神でもある。古く、宇佐氏が祀る比売神はこの瀬織津比売神と妻垣の玉依姫命の二神。元はこの二人の比売神を祀る「二女神社」であったということか。


 そして、韓半島渡来の辛嶋氏の氏神が、香春(かわら)一ノ岳の神「辛国息長大姫大目命」であった。辛国とは韓の国。豊前国風土記によると、昔、新羅の国の神が海を渡って河原(かわら)に住んだという。そして、辛国息長大姫大目命は国東、姫島の比売語曽(ひめこそ)神社に鎮座する「阿加流比売(あかるひめ)」であるとも。阿加流比売は日本書紀では意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が追ってきた白石の化生の童女。古事記では新羅の王子、天日矛(あめのひぼこ)の逃げた妻であった。

 また、三女神の市杵島姫命(市寸嶋比売)が秦氏の氏神として京都の「松尾大社」に祀られる。辛嶋氏が秦氏の族とされる。辛嶋氏の氏神、半島由来の阿加流比売神は「市杵島姫命(市寸嶋比売)」とされている。国東半島の南岸、奈多に宇佐神宮の別宮とされる「奈多八幡宮」が鎮座する。沖合の市杵島と呼ばれる岩礁を元宮として、比売大神が示現した地であるとする。この宮では比売大神は市杵島姫命であるという。


 何故か宇佐に拘わる比売神が、すべて「三女神」に収斂している。どうも、宇佐の比売大神とは単一の神格ではないようだ。宇佐神宮の由緒が述べる比売大神を「宗像三女神」とする所以とは、八幡神の示現以前に宇佐あたりで奉祭されていた比売神たちが統合されたもの。宇佐は畿内に向かう氏族が集結する地。九州の氏族、韓半島、大陸よりの渡来人など、氏族の坩堝(るつぼ)とされる。そのため、多くの氏族の神が祭祀された。そういった事情が三女神という特殊な神格を生んだのであろうか。

 日本書紀に「三の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。」とあり、三女神は最初、宇佐に降り立つ。三女神は宇佐で生成され、のちに宗像へ移植され、「宗像」の名を冠したともみえる。

 三女神に収斂した宇佐の祭祀が統制できぬことを畏れた為政者は、その神に八幡比売大神という新しい神格を被せたともみえる。大和の神祇氏族、大神比義は宇佐へ国家神である応神天皇と神功皇后の神霊を持ちこみ、比売大神は二神の神霊に挟まれて、結界の中に在るとも思わせる。冥府の王、大国主神が籠る出雲大社と同じく、「四拍手」の作法が意味するものとは忌避された神を封じるものか。(了)


(*1)「豊比売命の系譜。」参照。
(*2)「江南の女神 連鎖する九州の比売神信仰。」参照。
(*3)「筑紫の瀬織津比売。」参照。

 

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◎連鎖する九州の比売神信仰。

九州には太古より続く比売神の信仰がある。その信仰に纏わり多くの比売神が習合、離散して、異名似体の女神群が生成されている。阿蘇の母神、蒲池比売や有明海の海神、與止日女、高良の玉垂媛、御井、香春の豊比売命、そして、宗像の田心姫命や宇佐の比売大神。古代九州の謎を秘める比売神の連鎖とも呼ばれる事象。

 

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