評判の良さはかねがね…の作品でしたが、はい、もう、当分、小川洋子さんの作品はこれだけでいいと、うっかり思ってしまうくらい満足してしまいました。
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猫を抱いて象と泳ぐ
著者:小川洋子
発行:文藝春秋
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ポーの書いたもの(小林秀雄訳)のひとつに『メルツェルの将棋指し』というタイトルのついた文章があります。
ちくま文学の森第11巻『機械のある世界』の中に選ばれていた1篇で、人相手にチェスをする自動人形についてのものでした。
チェス盤に取り付けられた人形が駒を動かしてゲームをするというからくり人形の仕掛けは、おそらく人力。盤の下の箱に小柄な人が入って人形を操作し、ゲームを進めていたのだろうという内容です。
自動人形という言葉の印象からいけば人力というのはちょっと、というか、かなりインチキっぽくていかにも見世物的ですが、この『猫を抱いて象と泳ぐ』には、それと同様のチェスマシーンが「リトル・アリョーヒン」という名を持ち、とても優しい物語を内包したものとして現れました。
それはまるで真珠を抱いた貝のよう。
産声ひとつ上げることなくこの世界に産まれてきた少年の、リトル・アリョーヒンと呼ばれた人生の物語が淡く光を映して残ります。
かつてそこに生きていた一頭の象に思いを馳せながらデパートの屋上に佇む少年として登場する主人公はいかにも繊細という第一印象。
また、彼の行動のいくつかがある種の発達障害を連想させることもあるためか、その繊細さは、世間が彼にとって生きやすい場所にはなりそうもないことを易々と予感させるものです。
何も悪いことはしていないのに。世界はこんなに広いのに。
ごめんねと、運命がこっそり詫びたかのように、彼にはひっそりと小さな、けれども確かに彼のための場所が用意されていきます。
掛け値なしの愛情を交わすことのできる人たちと過ごす小さな空間、そして、チェスとの出会い。
白と黒の盤面や美しい形の駒といったイメージの良さからか物語や絵画などにもよく登場するチェスは、相手の王を奪うことが目的であり、私にとっては、駒によって狡知と計略の軌跡が描かれるというイメージのゲームでした。
描かれ方による程度の差こそあれ「戦争」を反映するもの。
けれども、この物語で「リトル・アリョーヒン」を通し描かれるチェスは、著者の本領発揮といわんばかりに、なによりその美しさを讃えられます。(「博士の愛した数式」以前、身をもって知る人以外に、どれほどの人が数学の美しさを思ったでしょう。)
盤上に聴こえるのは戦場の怒号ではなく、行き交う駒が奏でる音楽。
奪い、倒すためではなく、相手の心にたどり着き、寄り添うために「リトル・アリョーヒン」の駒たちは盤上を進んでいくのです。
少年がチェスと出会ったことで、あるいはチェスというゲームがこの稀有なプレイヤーを得たことによって海となり、空となる8×8の小さな世界。
その豊かさと美しさは、何を奪われようとも多くを望むことなどついぞなく、大切なものだけをしっかりと抱きしめる幸せを知ることから生まれたものでしょう。
それが傍目からは奇異なものやささやかなものに思われようとも、富や名声、権威といったわかりやすい世間の尺度にあてはめれば無価値と評価されかねないものであっても、それこそが自動人形「リトル・アリョーヒン」の動力。
その幸福感をこれほどうらやましいと思ってしまうのは、多くを望まない彼が、その一方では不要なものの一切を意外なほどの強さで拒絶し作り上げたものだからかもしれません。
「リトル・アリョーヒン」を守り、また「リトル・アリョーヒン」に守られた彼の物語は、これ以上を望んではいけないと思ったかのように閉じられます。
それこそを彼にあげかったと思う幸せを前にして。
つつましく、優しい主人公の物語にふさわしい終わりです。そしてふさわしいと思ってしまったことがせつなくなる終わりでした。
でも、たぶんこの先、実感することはないだろうけれども、確かに美しいものが、この世にはたくさんあるのだろうと、小川洋子さんのいくつかの作品に思います。
さて、記事を拝見しに…。